綴られたノートの端
青いバック
不真面目
風に吹かれてパラパラと紙が捲られていく。1枚、2枚と綺麗に風に揺らされて、ノートは時間を遡っていく。
私――秋川蛍はいつも小さなノートをカバンに入れて持ち歩いていた。面白い、凄い、感動、感じたことを思ったままに書きなぐったノートは、私にとっては小さな地球のようだった。
時には雨に濡れて、時には破れてしまったりしたけど、使い終わるまで買い換えることは無かった。それもまた1つの人生として残すのがいいと考えたからだ。完璧ではないのが人生。ノートも完璧の形を保っている必要はなかった。そこにあればよかった。
でも、私は1度だけノートを手放したことがあった。それは最愛の彼と別れた時だった。
彼とは2年前に出会った。その時の感情はちゃんとこのノートに書き記されている。
今日は8月31日。大学の講義で彼を一目見た瞬間、私の乙女心は射抜かれた。弓矢には返しが付いていて、簡単にとれそうにはない。彼は高身長でスッキリとした体型をしているのに、目は気だるげで纏っているオーラもゆったりとしている。そのギャップに私はやられてしまったのだろう。接点はないけど、同じ大学なのだから、まだ希望は持てる。
始まりは大学の講義の事だった。私はいつものように遅刻せずに始まる五分前には席についていた。そこから五分ぐらいすると、リュックサックを左肩にぶら下げた、彼がやって来たのだ。
ボサボサの寝癖だらけの頭は、オシャレを必死にしている大学生の中では異様に浮いていた。それなのに、オシャレの中に溶け込めてしまいそうな程に、彼の顔は一流だった。
彼は私の斜め横に座る。その行動には特に意味が無いだろうに、私は意味があるように思えてしまった。傍から見れば、ただの気持ち悪い想像でしかない。
窓から入ってくる風に彼の髪の毛が揺れる度に、草木が揺れて、目を奪われるような感覚に陥る。
この時に私は彼に恋をしていた。本当に一目惚れだったのだ。接点もなくて、ただの気持ち悪い想像から、関係が発展するだなんて誰が思ったことだろう。
この教室にいる人物全員思っていなかったことだろう。なんなら、私本人すらも思っていなかった。人魚姫が人間の王子様に恋したように、私も何かを犠牲にしなければ叶わない恋のはずだったのに、犠牲なしに関係を発展させれた、私は生粋の魔女だったのかもしれない。
いつもは真面目に受けていた講義も今日だけは不真面目に受けてしまった。彼を見る度に、思考が停止してしまう。目が髪の毛に変わったメデューサかもしれない。それが彼の正体なのかもしれない、と訳の分からないファンタジーな妄想に浸り、自分の不真面目から逃げていた。
全くもって情けない話だった。私は真面目が取り柄だったのに、一人の見ず知らずの男性を見た瞬間にそれら全てが簡単に瓦解してしまうなんて。友達もいない、真面目だけが取り柄だったのだが、今回限りでそれともおさらばしないといけない。
だって、私はこの日から不真面目になっていったのだから。
講義が終わって私は彼に声をかけようと、意を決して席を立ち上がるけど、椅子にまた座っていた。
行くぞ、と思っていても体が追いつかないのだ。心と体の乖離が激しくて、不思議だった。頭では行けると思っているのには、それを拒むのは自分の体なのだから。
手汗が滲み出して、私は猫柄のハンカチで手を拭こうとする。スルッと、私の手を離れてハンカチは風の軌道に乗って、ヒラリヒラリと舞い遊ぶように彼の頭へ落ちた。
彼は自分の頭に乗ったハンカチを不思議そうに見ながら、持ち主をキョロキョロと探していた。千載一遇のチャンスが巡ってきた、私は声を出そうと口をパクパクさせる。
「……あ、あのっ! それ私のです!」
「これきみの? 僕の頭に乗ってきたんだ、もしかしてマジシャン?」
彼は私のハンカチが風に乗って頭に落ちたとは思っていなかったようだった。ハンカチは私が魔法か何かで、頭に乗せたと思っているようだったのだ。
もちろん、そんな力はない。自分を生粋の魔女かもしれないと自惚れたとしても、私は結局一般女性だ。そう、真面目の取り柄が消えた。
「あ、いや、えっと。こう、手からスルッと落ちて風にひらひらと乗って、君の頭に乗ったの」
私は落ちた時の再現をしてみせた。これで納得してもらえるかは知らないけど、今言えることはこれしかない。私は魔女です、という訳にも行かない。
「風に? もしかしてその風を操ったのが君?」
「え、いや風を操るなんてできないよ」
「じゃあ、ハンカチを操ったんだ」
彼はどうやら私をどうしても魔女の末裔にしたくて堪らないらしい。どんな弁明をしたとしても、何かを操ったと言う。
操る力があれば、今頃世界を征服していることだろう。好きなように遊んで、好きなように眠る世界を作っているはずだ。それをしてないということは、私は操る力がないということなのだ。
「……とりあえずハンカチ返して?」
「おっと、そうだった。可愛いね、このハンカチ」
彼は私の猫柄のハンカチを可愛いと賞賛しながら返してくれた。黒い猫がハンカチの隅に刺繍されたハンカチは、少し子供っぽいかな、と思いながら使っていたが、意中の人が可愛いと褒めてくれたならば、そんな思考は紙屑のように吹き飛んでしまった。
私は返されたハンカチで手を拭いて、ポケットにしまい直す。
「あっ、次の講義があるんだった。じゃあね、マジシャンの人」
「行っちゃった。私、マジシャンじゃないのに」
彼は次の講義があると言って、マジシャンでは無いと説明する暇もなくスタコラサッサと足早に去っていってしまった。
私は次は何も無かったため、このまま家に帰ることにした。
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