カレーの美学

@omatsusan

第1話

男はとても生き辛い生き物だと私は思っている。

 美女がいるとする。その美女はとある男性と喧嘩をしている。

 そこに、あるもう一人の男性がやってくる。その男性は、喧嘩している男性と面識はない。勿論、美女ともない。

 その通りすがりの男性、A君はその喧嘩を止めようと決意した。

 A君は、二人の言い分に耳を傾け、公平なる裁断を下そうとする。いかなる結果であろうとも、A君に裁断を委ねたのだから、A君に対して、容喙するなとかいう不平はまかり通らない。

 結論、A君は美女の肩を持ち、彼女の言い分が正しいとした。

 喧嘩相手の男性は、当然の言葉がら業腹であるし、今にもA君に殴りかかろうとする。それを、美女が耳を劈く甲高い声で制す。

「彼が決めたことよ。男らしく受け止めなさい」

 男は叱られた子供のようにしゅんとなる。

 さて、A君はなぜ、美女の肩を持ったのだろう。


 *


「決まっているじゃないですか。美女だからでしょう」

「だから、男性は生き辛いと言っているのよ」

「何がですか。A君は女性が美女だったから肩を持ったに決まってます」

「本当に? A君は心から公平なる判断をしたのかもしれないよ」

「そんなわけありません」

「そんなわけあります。そもそも、まだ喧嘩の内容を話していないのに、なぜ、そう言い切れるのよ」

「そういえば」

「そこが男性が生き辛いってことなの」

 私がそう言い切ると、美咲は言い逃れを考えているかのように目を泳がせ始めた。彼女が切羽詰まった時の癖だ。前見た時は、教授に遅刻を咎められていた時だった。

「だからね、男性はさ。本当に善意だったとしても、相手が美女だと、下心を疑われちゃうのよ。特に、私達みたいな奴らに」

「まあねえ。男性は性器に脳があるなんて言われるものね」

「そうでしょう? 女性差別だなんだって言われているけれど、男性だって大概なの」

「じゃあ、なんで男性差別だって声が湧き上がらないのかしら」

「男性は決まってバカだからじゃない?」

「それこそ差別よ」

 チャイムが会話の終わりを告げるようになった。三限の五分前である。

 美咲はこの後、「金瓶梅研究論」という講義を受ける。一度、私も忍んで受けたことがあるが、それは年配男性の溢れんばかりの性欲を文学に落とし込んで、あたかも立派な文学研究を謳っているようにしか見えない講義であった。周囲の男子学生も私と美咲を好奇の目で見ていた。男性の沽券に関わるので控えめに言うが、すこぶる気持ち悪かった。それ以来、その講義は受けていない。

 この大学生活でなんとしても男を作るという盟約を結んでいる私と美咲だが、一年生にして、その盟約がいかに無謀であるかを突きつけられている。男という生き物が理解出来ないのだ。彼らは女性を顔とおっぱいで評価する。男女の付き合いはお互いの評価値の合致によって進展するものだから、評価されること自体は嫌ではない。ただ、こちらはその男性の性格、趣味、価値観を含めた存在そのものを評価しているのに対し、なぜ男性は私の二大自信の無いパーツ、顔とおっぱいの評価しかしてくれないのだろうか。釣り合わないではないか。私も一度、顔と筋肉だけで男性を見定めたことがあるが、それで関係を持てる男性は決まって甲斐性無しに違いない。そんな男性と付き合うなんて真っ平ごめんだ。そういうわけで、私は彼氏という存在を保有したことがない。

「じゃあ、私はもう行く」美咲は黒いリュックを砲丸投げのように振り回して、肩にかけた。空き教室には私達以外誰もいないからいいが、ぶつかったら傷害である。

「うむ。変な男性に絡まれないでね」

「さっきまで男性差別とか言ってた癖に」

「あれは空想の話ですから」

「よく言うよ」

 廊下をファッションショーを歩くモデルのように闊歩する女性達が歩いている。美咲は、その女性達に中指を立て、「さぞ、楽しかろうね! そなた達の人生は!」と吐き捨てた。彼女は歴史学科に所属している。

「あら、忘れてた」

 ぐんっと首だけを捻らせて、美咲はまだ座っている私と視線を合わせる。何か言いたげなのだろう、と思っていたら、「何か言いたげな私」と自分で言ってきた。

「なに。遅れちゃうよ」

「琉璃。いいこと教えてあげる」

「なによ。ちゃんといいことにしてよ」

 美咲はお嬢様のように手を整えて、口に添える。そうして小さな咳払いをして、目を見開いた。

「高島君。カレーが大好きみたいよ」


 *


 高島君は、美咲と同じ歴史学科に所属する一年生で、私が惚れている男性である。

 出会いは美咲の紹介で、その彼の佇まいは巷の訳の分からん大学生とは打って違って、落ち着き払っていた。恥ずかしながら、私は一目惚れした。高島君は私と美咲の盟約における最後の希望と言っていい。

 美咲という女性は私と同じく異性間交遊の経験が浅いにも関わらず、恋の匂いには異常なほど敏感である。悲しきかな、私の淡い恋心は、彼女の「あれ? もしかして、琉璃、高島君に惚れちゃった? 惚れちゃってるみたいだよ、高島君!」というあり得ない言葉によって、白日に晒されることとなった。一度、彼女にはデリカシーという言葉を調べ、辞書に赤線を引き、胸に刻むどころか、タトゥーとして腕に刻み込んでもらいたいと切に願う。

 たった今、出会ったばかりの、どこの馬の骨かもわからない女性に好かれたという事実に対して、高島君は異様なほど落ち着いていた。そればかりか、どこか遠いところを見つめているような目で、私と美咲は、とても心配した。もしかしたら、とんでもないことを言ってしまったのではなかろうか、と。

「僕のことが好きなのかい」

 湯気のようにぬめりとした彼の声に私は胸を跳ね上げた。否定しようと思ったのだが、思うように声が出ず。なんとか声を出そうと思えば、否定していいものかと逡巡する。美咲に助けを求めようと彼女を見れば、私に助けを求めようと美咲も私を見ている。男性を好きになるというのは、かくも苦しいものなのであろうか。叫びたかった。

「い、いえ。好きというかなんというか。そもそも、好きというのはですね。まずは、あなたの御心を知ってから判断したいと思う部分もなくはなくて。しかし、その恋心というものが、今のこの状況で全くないかと言われれば、それは否定せざるを得ない事実であるが故にですね、あなたの言葉に如何にして答えようかと煩悶しているという次第なのですが。ところで、高島さんは何年生? 好きな食べ物とかはありますか? あはは、変なことを聞いてすいません。私、変な状況になると、変なことを聞いてしまう、変な癖を持った変な人間なんです。変ですよね、笑ってください。でも、笑いすぎないでくださいね。私の心は意外と脆くてですね。例えるなら、卵の黄身でしょうか。でも、外れた例えでもないんですよ。女の心はこうも繊細なのか!ってドラマでイケメン俳優が叫んでいるじゃないですか。あれは、卵の黄身なんです。日本人で卵嫌いな人はいないですから。あ、アレルギーは別ですよ。ちなみに、私は生の卵の白身が苦手なんです。なんか、魚のぬめりみたいじゃないですか。焼いたら、美味しいんですけどね。魚もですよ! 私はあなたのことが好きなんでしょうか?」


 *


 その忌まわしき悲劇から一週間が経ち、私は彼の好きな食べ物を知るに至る。

 カレー。

 インド発の料理でありながら、それはすでに日本の国民食となっている。茶色いルーに数種類の野菜と肉を入れ、ご飯にかける。ルーさえ入れれば、誰も失敗しない。一日経てば、美味しくなる。私は、ドロっとした重たいカレーが好き。家庭的なカレー以外にも、時折、母がスパイスをふんだんに使った本場のカレーをデリバリーで頼むことがある。本場のカレーはターメリックライスだったり、ナンだったりと白米以外のお供が存在する。どれにするかと言われれば、大抵迷う。白米か、ターメリックか、ナンか。悩んだ末に、私は決まってこう言う。「なんでもいい」。

 高島君は、なんでもいい人だろうか。


 *


 その日、四限で終わりだった私は、四ツ谷にある大学から、自宅の神田まで中央線に揺られていた。都会の喧騒を一身に感じられる路線からは、社会の荒波でサーフィンしているサラリーマンや、もう溺れる寸前の自営業らしき人達が観察できる。顔を見れば、わかる。でも、その人達がカレーが好きかどうかはわからない。

 携帯には美咲からのメッセージが入っている。私は連絡不精なので、すぐには返さない。一度、寝かして、メッセージを返すという心持ちを作るのである。寝かせれば、寝かせるほど、その返信のキレが増す。そうして、受け手もウキウキする。それは、カレーを一日寝かすと美味いという現象に似ている。私とカレーの類似点に気が付いた私は、先ほどから、福神様のように口角が上がりっぱなしになっている。心なしか、誰も近付いてこない。

 太陽が沈み、空が赤く染め上がっている様でさえ、香辛料強めのカレーに見えてくる。神田駅に着き、ホームへ降りた私は、鼻いっぱいに空気を吸い込んでみた。カレーの匂いは当然しなかった。

 だが、私は今、カレーの身体になっている。カレーを受け入れる体制が整っている。体は大変正直であり、政治家もかくもあるべしと反芻しつつ、足早に歩みを進める。こうもカレーを求めたのは生来初かもしれない。実家では、気付けばカレーが食卓に並んでいるという受動的カレーに甘んじていたが、今宵、私は能動的カレーに挑戦する良い機会かもしれない。受動的カレーなんていう甘い戯言はもう卒業だ。カレーは甘口に限るがな! 私はそう巡らせつつ、一思いにカレー専門チェーン店の戸を引いた。

「すいません。カレーを一つ。甘口の並みで」

 普段から早口に定評がある私だが、注文時のそれは選ばれし者しか聞くことができない音速の発声であり、瞠目に値する芸術と言える。残念ながら、今宵の店員は芸術的センスに乏しいらしく、訝しい顔をして、聞き直してきた。しかし、私も折れるわけにはいかない。というより、折りたいけど折れない。努力しても、口が先走る。

「カレー一つ。甘口の並み」

「かしこまりました。では、トッピングの方は?」

「ショッピングなんかしません」

「トッピングです」

「あ、すいません」

 もう少し優しく微笑みながら訂正してくれてもいいじゃないか唐変木野郎と毒付きたい気持ちを抑え、数あるトッピングの中から、らっきょうとソーセージを注文した。いつもは福神漬けを載せるが、らっきょうも合う、という声も常々耳にしているため、挑戦してみた。今日は、挑戦の日である。

 目の前に運ばれてきたカレーに思わず、私はシャッターを浴びせていた。家のカレー、もしくは本場カレーしか知らない私にとって、カレーの上にらっきょうとソーセージが無造作に放り投げられている様は、カレーの心の広さを感じると同時に、溢れ出んばかりの自信さえも醸し出しているように思えたのだ。

「あぁ、カレーさん。あなたは、定型化された具材のみならず、匂いのキツいらっきょうや、異国のお肉料理、ソーセージすらも受け入れてしまわれるのね。その寛容な、寛容な心は、誰と寝てもお安い御用と声高らかに曰うプレイボーイさながらの自信の表れでしょう。男性では、そのような人は嫌だけど、カレーなら許せちゃうわ!」

 あぁ、美味しい。


 *


 翌日、私は学食に向かっていた。夏本番に近づき、新緑云々など目に入らず、ただただ暑いばかりである。

 本学には学食が三つある。そのうちの一つ、二号館五階にある景色の良い学食で私はカレーライスを注文した。今は五限終わり。わざわざ学食で夕飯を済まそうと考えている人は少なく、私は窓際の四人席に堂々と座り込んだ。

 大学のカレーはまさに大学のカレーである。楕円形の皿にご飯とカレーライス。ジャガイモと玉ねぎ。申し訳程度の肉が見える。量も決して多くはない。ご飯の横には真っ赤な福神漬けが載っていた。

 この学食は景色が良い。東京の街並みが一望できる。暮れていく空はビル群を赤く照らしていた。

 一口食べた。美味い。だが、これといって特筆すべきことはない。

 そもそも、本学の学食は唐揚げ丼が人気である。塩ダレ、マヨネーズ、チリソースなど、常設されたソースを思いのままにかけて食べる鶏肉の塊が学生の腹を満たし続けていた。当たり障りのないカレーなど頼む人間は少ない。そもそも、カレーは口臭に残る。合コン会場とも言える大学でそのような愚行を犯す人間はマスクを常備しているか、友達がいないかの二択だ。私はマスクをしていない。

 一思いに食べ終わり、膨れた腹をさすった。この量で満足できる自分の胃の容量には感服する。燃費が良いにも程がある。

 高島君は毎日、この学食でカレーを食べるのだろうか。唐揚げ丼争奪戦線と化す、この二号館学食で悠然とカレーライスを注文するのだろうか。いや、するに違いない。あの落ち着きようだ。周囲の目など気にする御仁ではない。四人席に座り込み、カレーライスを一人で食べ、残った皿を見て悠々と余韻に浸っているに違いない。そうであってほしい。

 二日連続とカレーライスを夕食にしたものの、意外に飽きないものだ。流石はインド発の日本の国民料理だ。なまなかの連食では、そう食い下がるものではない。この調子ならば、高島君とお話しする時には、私はカレーマイスターとなっているはずだ。

 学食を出た時には辺りは暗くなっていた。ビルから漏れる蛍光灯の明かりと街灯や通り過ぎる車のライトが東京の街をむちゃくちゃな景色模様にしている。五階から眺めている分には綺麗なのに、地上に降り立つと喧しい。だが、この喧しさも嫌いではなかった。東京の大学生になったのだ、という自覚がその喧騒によって強く意識されるからだった。

 美咲からの連絡はまだ返していなかった。


 *


「あんたね、どうせ携帯しか見るものないんだから。早く返信返しなさいよ」

「そんなことないもん。今は、芥川龍之介見てるんです」

「あんたが芥川の良さに気づけるわけないわよ」

「それで、御用はなんですか。まさか、私に悪口が言いたくて?」

「今、その気持ちが沸々と湧き上がってきてる。けど、違います。高島君のこと」

「無礼お詫びしますから、何卒」

「今度、奢ってよ」

「カレー?」

「違うわよ、雲長飯店のラーメン」

「どこそこ。知らない」

「あら、知らないの。四ッ谷駅から少し歩いたところにあるのよ。本当に四ッ谷の大学に通ってる?」

「うるさいなあ。それで、高島君がなに」

「今、言ったわよ」

「とぼけないで」

「とぼけてない。あんたこそ、目は節穴?」

「なにも言ってないじゃん。芥川が関係しているの?」

「ほんと、察しが悪いわね」

「うるさいな」

「雲長飯店よ」

「それが?」

「そこ、高島君の行きつけ。中華料理屋なのにカレーが美味しいんだって」

「それ、信じていい?」

「嘘言ったことないでしょ、私」

「本当のことも言わないよね」

「高島君に言うわよ」

「うぁん、ごめんなさい」

「はいはい。まあ、行ってみな」

「うん、行ってみるね」

「で、芥川、なにが好き? 私は『蜜柑』と『猿蟹合戦』が好きかな」

「私はね、ほら、遠藤が出てくるやつ」

「なんだっけ、それ」

「『カレーの神』だ!」

「『アグニの神』だね」

「じゃあ、明日にでも行ってみるよ、うんちょー飯店」

「新宿駅に向かう方だからね」

「わかった」

「今度、奢ってよ、ちゃんと」

「ぶおぉぉぉぉぉぉぉぉぉん」

「エンジン?」


 *


 雲長飯店は大学近くの商店街の一角にある。この商店街は我が大学の生徒がこぞって通う通りであり、昼休み時になると学生で溢れかえる。かくいう私もこの商店街は常日頃から利用させてもらっているのだが、あいや、なるほど。雲長飯店は人気ラーメン屋と唐揚げ定食五百円を謳う店に挟まれており、なおかつ、スプレー缶でも塗り付けられたかと思うほど煤けていた。どうりで、これまで知ることがなかったはずである。黒に見え隠れする申し訳程度の赤壁も悲しきかな、血の色にしか見えない。

 店内に入ると、カウンター席が五席とテーブル席が二つほど見受けられた。三限終わりでお昼時であるのに、妙に肅然としている。店内の壁に直で書かれたメニューが吃驚するほど見にくい。しかも嫌に達筆だ。これは見えても読みづらい。加えて、各席にはメニュー表が無いようだ。本当に残念な店だ。その他、視認できる限りのお店としての欠落している部分を挙げるとなると、枚挙にいとまがない。残念すぎて、同情すら湧いてきた私に話しかけてきたのは、この店に似つかない美女であった。「いらっしゃい。お好きな席へ」

 カウンターから望める厨房から声を出した彼女に従い、私は奥端のカウンター席に腰を下ろした。深閑とした雰囲気が私の空腹を後退させている気がした。

「ご注文は?」

「あの、カレーライスを」

「あら」

 その美女は私の注文内容を聞き、目を見開いた。「あなた、カレーですって」と厨房奥に言ったかと思えば、そこから出てきたのは立派なちょび髭を蓄えた大男であった。その巨人は「カレーだって?」と聞き返すと、美女が二番煎じで「カレーですって」と返す。そのオウム返しを何度かした後、美女は私の目を見た。そういえば、彼女は私の注文を一回で聞き取っていた。才能があるお方のようだ。

「カレーって言いました?」

「はい」

「カレー、ですか?」

「カレー。カレーです」

「カレーですよね、やっぱり」

「カレー、だと思います」

「そうよね、カレーよね。ここ中華料理屋なのに」

 一体、この美女は何を言っているのだろうか。私は、高島君が好きだというこの店のカレーを食べに来ただけだ。何も、ボルシチを出せと言っているわけではない。鯱鉾ばっている私をおちょくっているのだろうか。「すみません、カレー、だめですか?」

「だめじゃないのよ。でもね、ほら」

「ほら?」

「カレー、メニューに書いてないのよ」

「え?」

 私は振り返り、壁画と化したメニューを凝視した。確かに、カレーとは書いていなかった。

 美咲に騙された。狷介な自分を感じたことは今まで一度も無いが、今回ばかりは、腹の底から湧き出るような怒りを感じた。しかし、私は、日本人的美学を心得ているので、憤怒の意を簡単には顔に出さない。ただ、出鼻をくじかれたことは確かなので、挙動が不審になった。そんな私を美女は呵々として笑い飛ばした。

「君で二人目!」

「っ?」

 右手でピースを作った美女は珠のような笑顔を浮かべた。

「私達にカレーを無理に頼んできたのは、君で二人目なのよ。よろしい。作ってあげましょう。そこに座って待ってなさい」

 言われるがままに私は先ほどの席に座り込んだ。

 巨人と美女はせっせかと動き始めた。

 外では蜩が生を謳歌せんと絶叫している。


 *


 目の前に出されたカレーはいかにも、まさに、これぞ、まさしく、家庭のカレーであった。

 人参、ジャガイモが我ここにありとカレーの海に跋扈し、豚肉が心狭しと所在無さげにしている。玉ねぎは慎ましやかに漂っており、その海からはスパイスの香りなど一切しなかった。私が緘黙していると、厨房から美女が手を伸ばしてきた。「はい。これ、福神漬けね。適当に取って食べてね」

 渡されたのは市販の福神漬け。容器に移し替えられているわけでもなく、ただ封が切られていない状態で渡された私の心情を偏に表現する言葉は日本語には無い。

 まずは、と福神漬けに手をつけず、私はスプーンでカレーを掬い、徐に口に運んだ。

 目を閉じ、咀嚼する。ツンとくる辛みもなく、甘すぎるわけでもない。固形ともスープとも言い難い絶妙な状態のカレーは程よくご飯と絡み合う。ご飯も硬めに炊かれており、私好みだ。飲み込み、目を開くと、そこは日当たりの悪い実家の自室であった。

 私の今の根城は完全に私好みにカスタマイズされている。好きな場所に好きなものを置き、気が向けば模様替えを繰り返し、季節に合った部屋を演出する。常に流行を尊び、いつ誰を呼んでも万全な状態である。そんな部屋を私はとても気に入っているし、あれこれと模様替えをする行為自体に満足すら覚える。しかし、ふとした時に物寂しい気に襲われることもあった。「実家に帰りたい」私は、定期的にホームシックに苛まれていた。

 このカレーには、私を郷愁感に浸す魔力があった。無造作に切られた野菜。おそらく安売り肉であろう豚肉。市販のルーに絶対的信頼を寄せている主婦感。玉ねぎは砂糖と同じ、と言わんばかりに、玉ねぎを煮込んで消滅させ、その甘味のみを残す残酷性。どれもが、不恰好で料理の美学に反し、めちゃくちゃでありながら、それとして完成されている。

 思春期を迎えたあたりから、何かと気を使うようになり私は実家の自室をいじり始めた。見よう見まねの流行気取り、親に見られたくない一心からベットの下への過信、クローゼット内のジャングル模様、申し訳程度の本棚と文庫本の上に溜まる埃、定期的に入る親の査察による強制的模様替え。どれもこれもが美しい部屋作りとしてはナンセンスな行為である。だからと言って、私はその部屋が嫌いだったわけでなく、むしろ大好きな部屋であり、今でも戻りたい空間であった。めちゃくちゃで、世の女子における理非を弁えてしまった私からすれば、到底、あり得ない部屋模様であったにも関わらず、それはそれで完成された部屋であり、最高の部屋であった。その部屋が今、眼前に広がっている。

 私は、遮二無二にカレーを喰らった。大学に入り、失いかけていた自分を思い出すと共に、この郷愁感を乗り越えてこそ、大人の女になることなのだと胸に強く刻んだ。私にとってのカレーはこれだ。このめちゃくちゃさがカレーを十全たるものにする。涙を流して、私は咀嚼を繰り返した。

「美味しい?」美女は頬杖をついて、私に聞いた。「そんなに美味しいの?」

「はい。涙が出るほど美味しいです」

「あら、そう。良かったわ」

 私は、会計時に気が付いたのだが、どうやらテーブル席にもう一人客がいたようだ。人の気配すら感じさせない、このカレー。リピートは確実視されていた。


 カレーに没頭している彼女に代わって、筆者が注釈を加えさせていただく。

 カレーに涙する彼女を見て、巨人と美女はこんな短い会話をした。

「泣いてるわよ、あの子」

「ほんとうだ」

「ねえ、なんか変なもの入れてないわよね」

「入れてないさ。全部スーパーのものだ。こだわりなんてありゃしない」

「どうしてウチのカレーを食べると、ああいう風に泣き出すのかしら」

「ああ、そういえば、彼も最初はそうだったな」

「彼も訳は教えてくれないのよね」

「そうなのか。変な奴だ」

「ほんとうよ。気持ち悪いわよね」

「全くだ」

「あら、いらっしゃい」

 勿論、主人公の彼女には一言一句聞こえていない。


 *


 先日、カレーを食べて涙するという人生で乗り越えなくてもいい関門を乗り越えた私に、更なる関門が迫ってきた。定期考査である。至極の夏休みはもう目と鼻の先にある。

 爾来、私は根城に閉じこもり、蘊奥に至るべく、大学受験期さながらの集中力で手を動かし続けた。

「調子はどう?」

 どうも何もない。初めての大学の学期末定期考査だ。何もかも手探りである。その旨を私は美咲に伝えた。

「違うよ、高島君」

 どうも何もない。初めての恋愛なのだ。何もかも手探りである。その旨を私は美咲に伝えた。

 高島君研究、もとい、カレー研究は日々進歩を見せている。

 好きな人に近付くためには、好きな人の好きな物を知るべしという恋愛必勝術に基づき、外国語学部の専攻を泣く泣く疎かにし、カレー研究に邁進する日々は、とても充実していた。その実、日々の食に困窮していた私はレトルトカレーで事なきを得るようになった。味気ない食事など食うに足らんと即席飯を一蹴していたかつての私とは大違い。好きな人という存在は最強のスパイスとなる。

 雲長飯店には、あの日以降、一度だけ訪ねた。相変わらずの閑散具合であったが、その日は幸運にも一日経ったカレーを食すことができた。スプーンで持ち上げた時の重量感と何がどう変わったかはわからないがなぜか美味く感じる翌日カレーに私は大変充足した。

 カレーは私の柱となりつつあった。

 一方で、外国語の定着は着々と後退の一途を辿っている。

 文系学部でありながら、定期的なテストに追われる本学部において、一、二年生は基礎固めと評し、その点数がかなり重要視される。見たこともない言語に悪戦苦闘する私達に講師陣は愛のあるテストを授け、教え子達の言語力向上を図るのだ。この学部では、大学生活の醍醐味である怠惰を謳歌することができない。本来、謳歌するべきことではないことを、謳歌したいと思わせるほどの厳格さが外国語学部には存在した。

 当然のことながら、カレー研究に血道を上げる私のその点数状況は危機的状況に陥っていた。文法、購読、コミュニケーション、どれをとっても甚だ惨めで、磊落闊達を自負する私でも一策を講じねば、学問における決定的な敗北を目にすることは自明であった。そこで目を付けたのが、この学期末定期考査である。まさに一発逆転。起死回生の一打を繰り出そうというのが、私の必勝かつ、残された術であった。

 孜孜として物事の取り組むことは得意である。これまで、こうして幾多の難関をくぐり抜けてきたのだ。試験の一つや二つ、乗り越えずして、何がカレー研究者か。心のゆとりなくば、彼(カレー)の本質には至れまい。まずは、前哨。軽く乗り越えてみせましょう。


 *


 ジャガイモになってみた。

 デカい図体でカレー世界に我ここにありと存在を誇示する姿は、まるで猫型ロボットが存在する世界のガキ大将のよう。カレーよりも、まずジャガイモの大きさが目に入る。しかし、その身なりとは裏腹に食感は優しく、ほくほくとした柔和感に私達はギャップ萌えする。ガキ大将も本質的には優しい人間である。

 もし、私がこの大学生活において、ジャガイモ的立ち位置であったとしたら、それこそ、巷の男性を魅了する噂の女子大学生となっていたことだろう。

 カレーという大学世界において、ジャガイモである私はあまりにも目立つ。キリッとした顔立ちに、何がとは言わないが、デカい何かを持つ。美意識を常に高く持ち続ける女子大学生が多い中、素材の良さのみで目を惹く私はあまりにも強烈に映るだろう。一口目にとりあえずジャガイモを頬張るように、まずは私を、という腐れ男子大学生は多いはずだ。全く、男という奴は。

 食われてやるのがジャガイモの定め、釣られてやるのが濁世における美女の定めである。私はとやかく言わない。言い寄ってくる男についていき、その魅力をいかんなく発揮する。男はその見た目だけに囚われ、目を垂れ下げる。私は、その時点でその男を見限り、姿を消す。その要領で数多の男と触れ合い、真なる男を見つけるのである。

 真なる男には私の本領を見せねばなるまい。あどけなさである。

 ジャガイモが逞しい身なりの中に柔らかな内面を持っていると同様、私のあまりにも女性らしい外見の中にも、少女のような棘のない玉のような内面が存在している。その少女っぷりは稀有なもので、全くいやらしさや策略深い思念を相手に悟られず、完全なる無意識のまま手を繋いだり出来ちゃうのである。顔を赤らめるのもまた、そのあどけなさがゆえだ。

 ジャガイモである私は、男性が女性に求めている相反する性質を有する。大人の女性らしく、少女であってほしいという願望は全て私に詰まっている。こんな女性、高島君が見逃すはずはない。当然、私も高島君には全力で少女になる。

 ジャガイモは罪な食べ物だ。食べた人間を誑かすなんて。一体、何を与えられたら、そんな風に育つんだい。私なんて、両親の愛情を一身に受けて、何不自由なく過ごしていたら、いつの間にか大学生になり、好きな男性ができ、カレーを研究し、試験勉強をして、寝落ちをしてしまっていたのだ。

気付けば朝五時。定期考査初日の朝であった。


 *


 定期考査一日目は難なく切り抜けたと言える。

 勿論、合格したとは言っていない。ただ、受けることはできた、という意味である。

 二限の試験終了後、四限のテストを控えている美咲と私は昼食を取ることにした。

「お弁当屋さん、来てるよ。行こ」

 美咲が指差した先には白いバンがある。これは、大学内でお弁当を販売する業者の物で、本大学では馴染みの深い車である。外で食べるのは面倒臭いし、お弁当を作ってくるのはさらに面倒臭い。コンビニで買いに行くなんて面倒臭くてもっての外であると考える崇高なる腐れ大学生の拠り所だ。弁当のバリエーションは豊富で、その味もそれぞれ格別。いつもならバンの前に長蛇ができるほどだが、本日は定期考査週間ともあって、飯より勉強と精を出す学生が多いせいか、はたまたバンが到着したばかりからか、弁当を悠長に選ぶことが出来そうである。私は美咲の提案に首肯し、足早にバンヘ向かった。

「お、美咲ちゃん。いつもありがとう」

 そう言ったのは、弁当屋の男であった。彼は私達とそこまで年端の変わらぬ見た目をしている。料理が好きで弁当屋をやっているんだ、と爽やかに顔が表現している。悪い印象はしない。どうやら、美咲は弁当屋を幾度も利用する度に顔見知りになったようだ。「じゃあ、私はいつものやつで」

「はいよ、まいどあり」

 美咲のいつものはチキン南蛮弁当であった。タルタルソースがふんだんに乗せられ、ポテトサラダのようになっているが、その下に隠れる肉厚なチキンタツタには十分に食欲をそそられた。あの学食の唐揚げ丼も涙目であろう。私は、その好青年の近付き、並べられた弁当を吟味した。「すみません。カレーライスはありますか?」

「いやあ、カレーライスは用意してないんですよ。すいません」

「そうなんですか。残念です」

「次回からは用意するよう掛け合ってみますね。他のお弁当はどうですか?」

「いえ、大丈夫です。私、カレーライス食べてきます!」

 カレーを食べずして、高島君に近付くこと能わず。気丈な振る舞いで、私はホカホカのお弁当の山を後にした。目指すは雲長飯店。今日は無理を言って、餃子をカレーに乗せてもらおう。颯爽と歩く私の後背からは、美咲が好青年に謝る声が聞こえた。


 *


「カレーライスと餃子を。それと餃子をカレーに入れてもらえますか?」

「あら。とうとう頭までカレーになっちゃったのかしら」

 そう言いつつも美女の店員はカレーの準備に取り掛かった。三度目の来店ではあるが、この短期間でカレーを注文し続ける私はかなり稀有に映るらしく、巨人と美女は私のことを記憶していてくれた。そういえば、前回の来店で判明したが、この巨人は関田さんと言い、美女はその奥さんで香名さんと言う。雲長飯店の由来は、関田さんの「関」と、香名さんの旧姓、羽山の「羽」を取って、「関羽」とし、その字、「雲長」から拝借したものだという。

「すみません。持ち込みで食べてもいいですか?」

「あら。今日はお友達がいるの?」

「はい。さっきお弁当を買ってしまったんです」

「いいわよ。餃子サービスするわね」

 関田さんと香名さんは二人揃って三国志通であり、この店の名前には大変お気に召しているようだ。また、香名さんは客に名前を明かす際、香名を音読みにした「コーメイ」という名を名乗っており、それはかつての天才軍師諸葛孔明への憧憬の印に他ならない。そんなコーメイの悩みの種は旦那が顎髭を蓄えないことであり、酒に酔っては、髭を伸ばせと罵詈雑言を浴びせ、世にも珍しい髭ハラスメントをしているという。関田さんはその図体からは予想できぬほどの肝の小さい男で、商売のセンスはあれど、常にコーメイの尻に敷かれている。私がこの話を初来店の美咲に伝えると、彼女は大変興味を示した。歴史学科の性である。

ちなみに、コーメイの鬼嫁ぶりは彼女がトイレで外した際に関田さんが手短に教えてくれた。

 運ばれてきたカレーには五つの餃子が乗っていた。それと別皿の餃子。これは美咲の分である。

「ここに来るならラーメンが食べたかったな」

「まあ、そう言わないで。餃子美味しいと思うよ」

「食べたことあるの?」

「ないね」

「変なの」

 日本におけるカレーに餃子という組み合わせは、異国の料理同士を第三者の地で合体させると荒技そのものであり、二つの料理のインパクトは殊更に凄まじい。歪な料理である。しかし、それぞれの名声が確立されている料理であるため、間違いなく美味い。私は、確信に満ちた表情でそれを口に運んだ。「わあ、美味しい」

「不味いわけないよ」

「食べてみる?」

「遠慮しとく」

「美味しいのに」

 美咲はチキン南蛮と餃子を交互に食べている。胃もたれしそうな組み合わせだ。

「高島君のことは?」

「別に、特にないよ」

「カレー食べてて、その遁辞は通用しないな」

「だって、高島君に会えてないもん」

「出待ちとかすればいいのに」

「それは違うよ。お互いの気持ちを確かめ合って、正当なお付き合いがしたい。一方的な愛の押し付けは良くないよ。後ろ向いているキーパーにボールを蹴りまくるみたいなもんじゃん」

「よくわかんないな」

 美咲はその小柄に見合わず、大食漢である。チキンと餃子をペロリと平らげ、膨れ上がったお腹をさすりながら、渋い顔をした。「でもさ、伝えないと始まらないよ。自然発生じゃないのよ、恋愛って。コウノトリが何でもかんでも運んでくるなんて思ってたら大間違いよ」

「わかってるもん」

「わかってるなら、カレー研究ばかりしてないで、少しは本人にアタックしないと。男にアタックするためにカレー食いまくっている女なんて貴方だけよ」

「彼の好きな物なんだから、しょうがないじゃん」

「芥川の『好色』、見たでしょ?」

「うん」

「貴方は今日から平中よ。好きな相手に気持ちを伝えまくって、二人で会う約束を作りなさい」

「でも、平中は最後に結局・・・・・・」

「結末ばかり考えてどうするのよ。大学入学時に既に卒業後のことを考えている奴なんていません。大学生は阿呆ばっかりなんです。恋愛も阿呆がするもの。後先考えず、突っ込んでりゃいいのよ。存外、この世の中は阿呆が跋扈するもんだから」

「浅学菲才でございました。講釈ありがとう。後朝にならぬよう頑張ります」


 *


「でも、実際に会ったら何て言おう」

「そんなのわからない。私に聞かないで」

「そんな無責任な」

「恋する女の妄想ほど聞くに堪えないものはありません!」

「まだ、妄想言ってないのに」

 それにしてもカレーと餃子の組み合わせには驚かされる。カレーに餃子が合わさることで、十全となるわけではない。共に十全たる存在同士が己の威厳を残しつつも、互いに反目し合うことなく共存している。李徴と司馬遷を私は思い出した。

 この組み合わせは速やかに人口に膾炙せねばならない。この小さな店に閉じ込めておくのは勿体無い。大成する偉人は大抵、殻を破るものだ。私は、コーメイを呼んだ。「この餃子カレー、メニューにしませんか?」

「しませんよ」

 即答であった。

「どうしてですか?」

「だって、カレーがメニューにないもの」

「付け足せばいいじゃないですか」

「嫌よ。カレーってね、少量ずつ作れないのよ。この際だから教えてあげるけど、貴方とあの男の子しかカレーは頼まないの。それでね、貴方と彼が来るようになってから、私と旦那の食事がカレーばっかりなのよ。もう、カレーは食べたくないって」

「でも、メニューにしたら、カレーの注文が増えて、カレーが残らなくなるかも」

「中華料理屋でなんでカレー食べるのよ。他にも美味しい店はいっぱいあるのに。こっちだって、看板メニューはラーメンなのよ」

「では、カレーラーメンというのは」

「貴方、手と足の指の中で、一番いらない指はどれかしら」

 ふと、コーメイの身の回りから風が巻き起こったような気がした。私と美咲の髪の毛が不規則に舞い上がる。ため息をついて、「まあ、貴方は客だから、ありがたいんだけどね」とコーメイが言うと、その風のようなものは止んだ。関田さんは厨房に戻るコーメイに目を合わさぬようにしていた。

「言っちゃいけないことだったんじゃないの」

「でも、本当に美味しいんだよ」

「中華料理屋としての考えもあるだろうし」

「そうなのかなあ」

 最後の餃子を口に含み、それをしっかりと吟味した。


 *


 大学に戻る美咲に私もついていくことにした。家では勉強できないと悟ったからである。

 七月初めとなり、暑さは猛威を振るうばかりである。殺人的な日差しと風呂場のような湿気で全身が塩水まみれとなる。申し訳程度の日焼け止めでは、この日差しに申し訳ない。肌が真っ白ベチョベチョになるまで塗りたくった。

 学内の男性諸君も思いのままに汗を垂れ流している。半袖半ズボン。まさに夏という服装に、健康的な褐色。短く切った髪と、額に浮かべる汗。Tシャツの襟から空気を送り込む様は夏の風物詩として絵になる。私は美咲の横でため息をついた。どうして、汗をダラダラと額に浮かべる女性は絵にならないのだろう。

「女性は綺麗であるべし。そういう世間の声?」

「この暑さだと、世間の声も溶けて然るべきだよ。そんなのアスファルトの上でジュージュー焼いてやる」

「でもさ、私も思うのよ。大学で大手を振るってる女ってさ、夏でも爽やかそうなのよ。多分ね、自家冷却装置でも付いてんのよ、鎖骨の辺りに」

「私は背中に付けたい。もう瀑布さながらだよ」

 図書館前で私は美咲と解散した。図書館内はオアシスのように涼しかった。閑静な雰囲気もまた、涼しさを助長しているようであった。

 図書館は地上五階から地下二階までの高さを誇り、二階以上はコンピュータールーム、各学部の資料室となっている。私は、足早に階段を駆け下り、地下二階の歴史書物コーナー付近の席に座り込んだ。

 地下二階には個人用席が多く完備されている。机の左右に木製の衝立が付けられ、簡易的な外界遮断装置である。ここでは破廉恥な勉強でも堂々と出来る。

 外国語の試験は明日から始まる。三技能ある試験はどれもが高校の期末試験以上の容量を誇り、なおかつ、一つでも落とすと落第する。落第すると、恥を偲んで、下級生と共に一文字ずつ教わるところからやり直しだ。皆さんも想像してみてほしい。一つ下の学年の少年少女と「エー、ビー、シー」なんて、死んでも発声したくないだろう。何としても、避けねばならない。

 愛ある試験が断続的に行われる外国語学部生にとって、この図書館は試験期間のみならず、日々の自習室として利用される。本学に来校し、図書館を訪れ、血眼になりながら、呪文のように何かを唱え、ノートに外国語を書き殴っている学生がいたら、それは外国語学部生に違いない。どうか、温かい目で見守ってほしい。そして、近くの自動販売機で購入した飲み物の一つをそっと傍に備えてあげてくれ。呪文を唱え続けるため、喉が渇くのだ。

 ノートを取り出し、早速私は魔導書の生成にかかる。教科書に羅列されている外国語を、無心にノートに羅列し直す。構造や文法を考えている暇はない。肉体的手法でもって、我が右手に外国語の並びを染み込ませ、記憶させる。脳筋と言えばそれまでだが、これが一番点数に繋がる方法である。無論、直前の詰め込み勉強においては、の話である。計画立てて勉強できる模範的大学生は日々の講義から復習を怠らず、試験直前では再復習をするだけにとどめているだろう。手指の筋トレは怠惰が故の罰則である。

 三十分ほど書き殴り、トイレに行きたくなった。トイレの戸を開け、用を足し、スッキリすると、無性に本が読みたくなった。こうして、私は図書館散策を始める。いつものことである。

 芥川にハマっている私は、彼の全集を求めた。図書館に置いてあるかは定かではないが、曲がりなりにも名の通っている大学で、芥川を一冊も置いてないということはないだろう。地下一階の近代文学コーナーで芥川を見つけた私は、王朝物を手に取った。

 勉強の合間に何がしかを行うことで、勉強がその行為の合間を埋めるだけの行為に成り下がってしまうという皮肉を大学生に諭すことは到底不可能だ。なぜなら、大学生は、勉強を行う場である大学で、勉強を片手間に何やら無意味なことに精を出し続けるからである。その悲劇に気付くのは決まって、卒業後だ。あの時もっと勉強していれば、なんて思い至っても後の祭り。後悔ならいくらでも出来るし、想像できる。後悔先に立たずという言葉を大学を卒業しているのに知らないのか、と将来的に言われることは想像に難くないが、残念ながら、私は芥川を読むことを止めない。

 四限を終えるチャイムが鳴った。図書館内でも学生の移り変わりが始まる。私もその機に乗じて、自宅に帰ることにした。

 地下二階から階段を登る。女性三人組が横一列になって向かいから降りてくるのが見えた。端に寄り、彼女らが消えるのを待つ。すれ違いざま、香水の匂いがした。不愉快だった。

 図書館は学生証のスキャンによって、入館を認められる。一方、退館する際はゲートをくぐるだけでよい。ゲート付近は四限の試験を終え、自習に勤しもうとする学生でごった返していた。私は少し人通りが少なくなるのを待つためにゲート付近の席に座り、その様子を凝視していた。

 高島君は、その人混みの中にいた。


 *


 結論から言うと、私は話しかけることができなかった。

 彼は一人だった。だが、何やら急いでいる風で、ゲートを抜けると、すぐにコンピュータールームへと走り去っていった。おそらく、レポートの提出期限が迫っているのだろうと私は推察した。彼の居場所はわかっていて、あとは私が一歩を踏み出すのみだったのだが、その一歩があまりにも重かった。ようやく踏み出した時には彼はいなくなっていて、安堵と消沈に揉まれながら、私は図書館を後にした。

 このことを美咲に話すか逡巡した。怒られる事は目に見えていたからだ。でも言った。自分の語彙力を駆使し、余す事なく、事の全てを報告した。

 美咲からの返信は早かった。私はそれを見て、返信する事なく、中央線の駅へと向かった。


 *


 人参になってみた。

 人参は間違いなく、女性である。カレーの中においては。

 理由は単純明快。彼女は茶に染まるスパイス世界に燦然と佇む、橙の貴婦人。紅一点であるからだ。

 私こと、人参貴婦人は本学における有名美女教授である。その姿からは輝きのようなものを感じられ、学生はおろか、教授陣をも魅了する。そんな私は理学部所属であり、男性臭が蔓延る研究室内を我が存在だけで浄化させ、花の香りさえも漂わせている。男性まみれの理学部では私は間違いなく紅一点である。

 紅一点という立場において、一番気をつけなければならないことはでしゃばらない事である。

 カレーという茶色世界、男性まみれという理学部研究室で私は存在のみで既に目立っている。暗澹とした世界に私という人参の存在が朝日を注いでいるのである。逆に言えば、私はいるだけでいい。間違っても、橙色以外の色の人参に挑戦したり、理学部に合わない破廉恥な服装をするべきではない。カレーの雰囲気、理学部研究室の雰囲気は既に完成されており、そこに私も組み込まれている。その世界観を崩す事なく、私かつ人参はそよ風を流す程度の存在であるべきなのだ。

 ただ、ありのままでもいい、というわけでもない。人参は、しっかりと煮込まないと人参すぎる味がする(あくまで私の味覚による)。人参すぎる味はカレーには好まれない。味をほぐし、味をカレーに委ねられるまで、人参は煮込まれなければならない。そうすることで、人参はカレーの一味となる。間違っても、カレーの人参を食べた瞬間、バリボリと爽快な咀嚼音が響いてはならない。

 理学部における私も同様である。美しさと慎ましさを兼ね備える私だが、スルメやビールを好むありのままの私を出してはならない。何度も言うが、私は目立ってはいけない。主役は私ではないのだ。いつまでも淑やかに、理学部の一職員として振る舞う必要がある。

 人参に幸あれ。私にも幸をくれ。


 *


 自宅に着いた私は美咲からの説教に目を通した。

「今日言ったばっかりじゃないの!」

「しょうがないもん。急いでるみたいだったし」

「連絡先くらい聞かないでどうするのよ」

「時間かければ上手くいくよ。カレーと一緒」

 堂々巡りを繰り返すだけだと察した美咲は、「とにかく、会って話しましょうね」と告げて、メッセージ欄から消えた。世話焼きだなと思いつつも、私はこんなにも自分に忠告してくれる美咲に少しだけ感謝した。

 今日は即席カレーを作ることにする。先ほどコンビニで買ったコクを売りにしている物だ。レンジで所定の時間で温め、これまた即席の白米に掛けた。安売りで買ったソーセージも乗せ、私はがっついた。勉強と恋は空腹を促すもの。どうやら相当腹が減っていたらしく、ペロリと平らげてしまった。

 その日は、少しだけ勉強して寝た。後は野となれなんとやら。


 *


 一週間にわたる試験は終了した。長きにわたる戦いは私の体を大いに疲れさせていたらしく、金曜日の試験終了後、フラフラとした足取りで美咲のアパートに転がり込んだ。ぶら下げている手提げには雲長飯店で頼んだ食事が入っている。二人でパーティーでも催そうという算段である。二十歳を過ぎていたら、酒でも持っていることだろう。

「高島君に話しかけられなかったんでしょう?」

 念願のラーメンを啜る彼女は臆することなく、私に刃をむけてきた。カレーを食べていた私は真っ向から立ち塞がる。「今日は試験の打ち上げだから、その話はいいじゃないですか」

「駄目よ。試験を乗り切っても、人生の恋路で座礁しているじゃないの。流していい話じゃないわ」

「流してくださいよ。カレーに流しましょうよ」

「駄目です。しっかりと向き合いなさい」

「じゃあ、どうすればいいの?」

 ほら、答えられまい。私と貴方は結局は同じ穴のムジナ。お互いに恋愛の場数が少ないどころか、場にすら立ったことないのだから、私達の恋愛談義は妄想に過ぎず、恋愛対策は机上の空論の域を出ない。どんなに私に言い寄っても、無駄なのだよ、美咲君。井の中の蛙同士、仲良くやりましょうや。

 そんな予想は儚くも打ち砕かれた。

「明日から夏休み。大学生の夏は長いわよ。でも、悠長に構えてちゃ駄目。積極的に、即行動よ。まずは明日。彼が好きな麻雀を打ちに行きましょう」

 私がカレーを運ぶ手を止め、呆けていても、美咲はなおも話し続けた。その顔はいつにも増して生気に溢れ、どこか余裕を感じる。そして、私が不意に目お落とした先にあった彼女の指の爪には艶やかな色がついていた。

「琉璃、麻雀打てたよね?」

「うん、上手ではないけどね」

「じゃあ今日はうちに泊まって、明日早速行きましょうよ」

「いいけど、麻雀もカレーも変わらなくない?」

「そんなことないわ。麻雀はもしかしたら同宅できるかもしれないでしょう?」

「そうだけども」

 それ以降、彼女はその話題を口にしなかった。既に決定事項となってしまったようである。美咲が連日の試験と満腹感によって寝息を立て始めたのを見計らい、私は携帯で麻雀の役を復習した。まさか、試験後も勉強する羽目になるとは。少々だが、美咲を恨んだ。

 翌日の土曜日はまさしく快晴で、雲ひとつない空がなんだか私を吸い上げそうで、不気味な様相を私は感じていた。ただ、相変わらずの暑さである。汗の染み込んだ洋服を二日続けて着るわけにもいかないので、雀荘に向かう前に、一度、美咲を連れて我が根城に帰った。

「琉璃、その服装で行くの?」

「ん? そうだよ」

 私が選んだTシャツはカレー侍という、カレーを左手に長刀を右手に提げた、幕末期を感じさせる精悍な顔立ちをした侍が白の生地に印刷された物である。試験勉強から逃れるためにネットで衝動的に購入した現実逃避品と言っても差し支えないが、存外、私は気に入っていた。下半身には無難にデニムを身に纏っている。

 私と美咲が辿り着いたのは、新宿にあるとある雀荘である。小さなビルの二階にある落ち着いた佇まいに私は兼ねてより想像していた雀荘のイメージを再構築する必要に迫られた。私が思う雀荘は下っ腹の出たおじさん達がタバコを吸いながら、黙々と牌を打ち続けているというものだった。だが、その雀荘の受付の女性は、その想像は間違っていないと言った。

「日によってだったり、店によって客層が違うんです。ここは、大学が近いので、大学生が多いですね」

 確かに、この雀荘は本学から徒歩で通える場所にある。本学以外にも数多くの大学が混在する新宿付近のこの雀荘は夢を抱く大学生を堕落させてきた場所であるということなのだろう。私は、気を引き締め、受付から卓へと向かった。


 *


「やあ、こんにちは」

 美咲と私が案内された卓にいたのは、雲長飯店の鬼嫁ことコーメイと、一週間ぶりの高島君であった。二人に直面した私が高島君の爽やかな挨拶に素直に返せるわけもなく、無惨にも木偶の坊と化した。私に代わり、美咲が呟くように言った。彼女も大変吃驚しているようであった。「え、高島君と雲長飯店のコーメイさんですよね?」

「いかにも!」声を高らかに言ったのはコーメイである。「いやあ、ここは私の行きつけでね。今日も一局って思ってたら、偶然近くで彼に会ったのだ」

「そういうわけです。お二人は?」

「いや、私と琉璃は昨日、打ち上げをして、夏休みを謳歌せんと雀荘に参った次第で」

「貴方達ね、華の女子大学生が夏を楽しむために麻雀するって間違ってるわよ」

 東家に私、南家に美咲、西家に高島君、北家にコーメイという席順で座る。よりにもよって、一番顔が良く見え、なおかつ見られてしまう対面に高島君である。彼の理牌の手捌きに見とれていると、コーメイに「早く取りなさいよ」と怒られてしまった。私は急いで最初のツモを行った。昨日に復習したことは全て忘れてしまっている。

 麻雀は黙々と行われるものだと思っていたが、この卓はそうではなかった。と、言っても和気藹々と進行しているわけでもなく、ただひたすらにコーメイが「これじゃないわよ!」や、「んもう、ありえないわ!」と心境を包み隠さず吐露し続けているのである。その心の声に美咲が頑張って応えている。ある意味、盛況している。

 私は長考する彼を眺め、「ポン」と発生する彼の声を身体の髄まで染み渡らせることに躍起であったが、いつの間にか安い手の一向聴まで仕上がっていた。だが、ツモ番ももう少ない。鳴いてでも聴牌を取り切るのが無難かと思われた。

 ツモ切りを敢行し、ふと受付の方へ目を向けると、そこにはカレーの文字があった。

 私は、仄聞したことがあった。雀荘のカレーは美味い、という言説を。

 その刹那、私の頭はカレーで支配された。雀荘のカレーは如何なるものかと。私の横で悪態をつくコーメイが作るカレーよりも美味いのかと。そのカレーは高島君も好んでいるのかと。カレーを食べずして、帰れるものか、と。

 コーメイが切った牌は私がり両面で待っている牌だった。私は、ツモをせず、その切られた牌に手をかけた。浮いた牌である「中」を切ることで、まずは聴牌である。

「ルー!」

 筒子の三四五が私のチーによって、完成した。これにより、私は索子の二五索待ちとなった。

 美咲は呆然と私を見ていた。何を思って見ているのかは判然としなかったが、苦笑を浮かべていることはわかった。私のチーがそんなにも嫌だっだのだろうか。だが、これも麻雀のれっきとしたルールである。苦情は受け付けられない。同意を求めるべく、高島君に目を向けると、彼は私の顔を見つめながら微笑んでいた。

 次局、私はライス(白)が暗刻となった。これでいつでも和了れる体制が整ったと言えよう。「中」も対子となり、わずか三巡にして、大物手が狙える中辛カレーが完成した。「発」が二枚切られているのは残念だが、まずは良し、である。

「中辛! ポン!」

 条件反射で私は中辛カレーをレベル三まで引き上げた。門前で仕上げた方が打点も高かっただろうが、この膠着状態が続く中、ひとまず上がっておきたいという焦燥感に駆られてしまった。だが、中辛とライスで既に役はある。あとは残りを茶色(混一)に染めるだけである。まだ七巡目。時間はたっぷりとあった。

 高島君の振込みにより、私の混一カレーは成った。私の控えめな「ロンッ」の発声に、コーメイは「はあっ?」と悪態をついたが、これで私のトップは確定した。

「あんた、麻雀経験者?」コーメイが訊いた。

「いえいえ。ゲームでやったことあるくらいです」

「雀荘初麻雀でトップですか。憎たらしい」

「いいじゃないですか。じゃあ、トップ記念に」高島君は受付の女性を呼んだ。「カレーを頼みましょうか」

 私は愕然とした。

 何故、高島君は私がカレーを食べたいと知ったのだろうか。まさか、顔に出ていたとか。それとも、カレーの文字に目を取られたあの瞬間を見られていたとか。理由は、色々考えられるが、私は何より恥ずかしかった。

「琉璃、そんなにカレー食べたかったのね」美咲が言う。

「うちのカレーじゃ満足できないってのかい」

「そういうわけじゃないと思いますよ。すいません、カレーを一つ」

「みなさん、どうして私がカレーを食べたいとわかったんですか?」

 三人が一斉に顔を私に向ける。偏に皆、笑っていた。

「正直であることは良いことです」高島君は言った。


 *


 その一週間後。私と高島君はどうしてか二人で会う約束になった。無論、私からのお誘いではない。まさかのまさか。彼から雲長飯店でのデートを申し込んできたのである。

 雲長飯店での邂逅後の顛末は皆さんの大方の予想通りである。

 私と高島君は週に一度、カレーを食べるというカレーデートを行う間柄となった。

 高島君と雲長飯店で初めて二人で会うその日までに、私は、玉ねぎと豚肉にも成り切って、カレーにおいての彼らの役割を自己に投影し、自己研鑽に励んだ。また、カレーのスパイス、米の適度な炊き具合等も全て研究し、まさしく急造のカレーマイスターとなって、彼との会合に臨んだ。しかし、高島君のカレーに対する一言はかくもあっけなかった。

「カレーが好きな理由かい? 決まってるじゃない。美味しいからだよ」

「そ、それだけ?」

「それ以外に理由がいるかい?」

「具材とか、スパイスとか、ご飯とか。何かしらのこだわりみたいなのはないの?」

「全てひっくるめてカレー味となって美味しい。それが全てだよ」

 ほぼ毎日、カレーを食べて、カレーを自分勝手ながらも研究してきた私からすると、カレーマイスターの風上にも置けない発言であった。だが、彼もほぼ毎日カレーを食べていル。私は複雑な気持ちだった。

「カレーが好きな人とカレーを食べると、美味しいね」

 彼は言った。

「それって?」

「家族にカレーが嫌いな人はいた?」

「ううん」

「家族で食べるカレーって美味しいと思わないかい?」

「美味しいと思う」

 高島君は雲長飯店のカレーを一口食べ、飲み込むと、すうっと息を吸った。

「だからね、君がいるとカレーがもっと美味しく感じる」

 呆けて、阿呆面を恥ずかしげもなく露見させている私を彼は大きく笑った。

「これからも一緒にカレーを食べよう」

「うん」

「やいっ。お熱いところ悪いけどね、あんた達がいなければカレーなんて作らなくても済むんだよ、私達は」

 外では蜩が鳴いている。まだまだ、夏は始まったばかりである。

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カレーの美学 @omatsusan

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