20話 私による絵
鉛筆の先がキャンバスに擦られる音だけが聞こえる。こう……じゃないか。記憶の中にあるアトリエを描いているせいかなイメージ通りに描けない。ふうっと息を吐き、描いたばかりのところを消しパンで消していく。消しゴムが普及した今ではもったいないからと、パンで消すやり方は廃れてしまった。私も普段はゴムで下絵を消している。でも、今描いているのはおじい様の絵。おじい様の下絵は、消しパンで下絵を修正していた。
「ヴィヴィどう筆の進み具合は?」
「ぜんぜん。おじい様に似せようと考えるほど行き詰まっちゃって」
クリスが私を心配しに部屋に入ってくると、酸味漂うレモンティーとクッキーをテーブルの上に置いてくれた。
「王都のクッキー持ってきたよ。根詰めると余計に足踏みするから一息入れないと。だいたいあの伯爵も無茶な注文をつけたものだよ。オルファンの絵に似せた絵を描き上げろなんて」
「でもこれが私にできる復讐だから」
私が目覚めたあの日、オブライエン様が伝えたのはレオナルド夫婦に贋作を売りつけるという到底不可能な復讐計画だった。
「贋作っていったいどこにあるのですか。おじい様の絵は」
「絵はないが、絵師はいる」
「私?」
こくりとオブライエン様は自信ありげにうなずいた。いや、いやいやいや。確かにおじい様が一番評価されていた作品は、私の色塗りによるものだけど。一から描いたものはおじい様のものとはかけ離れた作品だって仰ったのはオブライエン様本人じゃないですか!
「レオナルド夫婦が来た時、何の絵と交換したいと言ってた」
「たしか春の展覧会に出た絵だと」
あの春の展覧会で、何人かが私の絵を欲しいって手を挙げていた。そこに参列していたレオナルド夫婦もいて、そこで目撃した作品が欲しいと。なんの作品か伝えられてなかったけど、それも全部燃やされてしまったけど。
「欲しかったのは、お前の絵だ。あの時ミロカルロス・レオナルドが隅の方で飾られていた絵に大そう御熱心だったぞ」
「私の絵を欲しいと」
「絵を見る目が合ったとか豪語していたが、相手はただの欲深成金だ」
初期のおじい様の絵を購入されたから審美眼に自信がある人なら、私の絵なんてすぐに見抜かれてしまうと思われたけど、たまたまだったのか。しかも私の絵はおじい様の絵といっしょにアトリエに保管されていた。自分の持っている絵の値段を吊り上げるために欲しい絵を燃やしてしまうなんて……もしかして私に自信を持たせるために?
「それでは私が描いた絵を直接レオナルドご夫婦のお宅へお売りすると」
「いや、直接はだめだ。火災ですべての作品が燃えた後、希望の絵が新作で売りに来たなどと怪しまれる。それも一度追い返された人間が、急に手揉みしてだ」
「確かにそんなうまい話私でも手が出ません」
「加えて、直接売買ではそこまでの値段にはならない。アトリエ、道具、そしてお前とオルファンの絵画の数々、オークションの最高値の価値すら届かない。それで他の贋作を売りつけてもだめだ」
「売る場所はオークションだ。オークションならオルファンの新作と言うだけで最高値を更新するのは容易だ。屋敷一つ分金千枚を余裕で超えれる。青天井だ」
「でもほかの方に取られでもしたら」
「そうはさせないよう、根回しはこちらでする。君は全身全霊で、オルファンの絵とそっくりに一からの新作を描くんだ」
一から新作をだなんて。今までおじい様の絵とそっくりに描いたことはあるけど、それはおじい様が描いた下絵があるからできたこと。私の技量では色塗りはできても、基となるモデルすらも上手く描けないのに。
それにオークションの場ではおじい様の絵など絵の評論家など目の肥えた人だっている。その人に私の絵だと看破されたら、復讐や筆を持つどころか、私の家が潰れてしまう。そんな危ない橋を渡ってまでも復讐を実行に移すだなんて。断ろうと口を開こうとした時、オブライエン様が接近し、彼の眼が映った。彼の髪と同じ黒目には、仮面はなく、燃え滾っていた。
「お前が守ろうとしてきたものへの怒りは、その程度なのか」
かけてくれた言葉は、優しさでも奮闘を煽るものでもなく、挑発だった。私はまんまと彼の言葉を買ってしまった。今思い出しても、軽率に乗ってしまったなと思う。でもお母様に潰されないよう守ろうとした大切なアトリエを、私利私欲で潰してしまう欲深さに泣き寝入りで終わりたくない。
この計画のため私はクリスにおじい様の絵の秘密を話した。最初は半信半疑だったけど、おじい様の手紙を見せたら「納得した。色がなぜかオルファンに似ているとは思っていたけどね」と頭を抱えているのが印象的だった。
「で、どこ辺りで詰まっているの?」
「えーっとモデルに下絵の描き方にかな」
「つまり最初で躓いちゃったというわけね」
知っていたと言いたげな顔で、クリスはレモンティーに口をつける。おじい様の絵は印象派、見たままではなくイメージの世界を紙にアウトプットする描き方だ。もちろん何も見ずに描くわけではなく、モデルとなるものがある。そこを頭の中で補正をかけて、見たもの以上に美しい絵にするという工程が必要だ。長年の技術や研究より感性が物を言う、見たままのものしか描いてこなかった私にはその感性が育ってなく、描いては消してを繰り返していた。
色に関してはみんなから太鼓判を押されてはいるものの、肝心の下絵が描けなければそれにたどり着けない。見よう見まねでおじい様が描いた時の様子を再現したけど、しょせんはモノマネでしかなかった。
「印象派の絵を見たことはあるし、頭の中にも記憶はあるんだけど、いざ形にしようとしたら写実的になってしまう」
「絵師のストレスの原因は産みの苦しみと言われてるけど、まさにその壁にぶち当たっている最中ね。ヴィヴィは何を描こうと考えているの」
「身近にあるものを考えていて、屋敷とか農園とか描いてみたんだけど」
どれも見たままのものにしか描けない。そうして堂々巡りとなり消しパンがどんどん増えていく。ベッドの中で頭の中を整理しても結局同じような絵しか出てこない。
「怪我治ってから、外出てる?」
「いや。描くのに集中したいから最近は」
「外……は」
「ノンノン。創作は歩くことで産み出されるんだよ。様々な絵師を渡り歩いたクリスさんのアドバイスを信じなさい」
クリスに無理やり背中を押されて、二週間ぶりに屋敷の外に出ることになった。
久しぶりに外に出てみたが、屋敷の周辺は何も変わっていなかった。ただ、少しアトリエのあった林の方を向くと、一部が黒く焼け落ちた木々が視界に入ってくる。アトリエは撤去されたものの、木々は完全に焼けてしまったもの以外はまだ木が生きているからと残されてしまっている。来月になれば赤や黄色に紅葉する木々たちが、一生変わらない炭の色のまま生きていく、いつもの光景がもう記憶の中でしか見られないのだと、外に出るのに二の足を踏んでしまった。
「創作意欲のための散歩か」
屋敷の入り口からオブライエン様とエドワード先生が馬車から下りてきた。毎日欠かさずうちに来ていたオブライエン様だが、この二週間、屋敷に足を踏み入れてこなかった。何をしているのか聞いてみようと思ったが、返信で絵の進捗とか聞かされると思い、こっちからも出していなかった。
火事の時以来となるエドワード先生だが、前の時にはなかった目の下にクマができていた。
「エドワード先生、目の下が黒くなっていませんか」
「いやぁ、急に仕事の依頼が入ってさあ。数日以内に描き上げろなんてぶちゃぶりされて」
「お前の個人的事情は言う必要ないだろ。知らせを持ってきた。来月の十月、王都で開催される美術オークションにレオナルド夫婦が参加すると噂があった」
「その日に『雪原の雪だるま』を」
「確実に売るだろうな。で、進捗はどこまで進んでいる?」
私が首を横に振ろうとした時、クリスが前に出てきて遮った。
「伯爵様、絵師に進捗を聞くのはご法度です。プレッシャーをかけては、よりよい絵が描けません」
「またあなたか。まあ報告はどちらでもいいエドワード」
「は~い。どうぞ」
エドワード先生が取り出した一枚の布に包まれたキャンバス、覆われていた布を取り外すと絵が現れた。色の濃い黒鉛のみしか描かれてないからエドワード先生のだと一目でわかるが、いつも見ている作品と比べると勢いや圧力が薄い。
「もし行き詰まっているなら、この絵を使って描いてくれ」
「オルファンの絵に近づけるように描き上げたんだよ、昨日中にね」
眼の下のクマはオブライエン様の無茶ぶりのせいでできたのか。ありがたく先生の作品を受け取る。色が薄いのは下絵に使えるよう調整しているんだ。描き方もおじい様のによく似ている。似ているけど、これじゃない。
「先生夜分まで描き上げて申し訳ありませんが、こちらの絵はお使いいただけません」
「ええ!? せっかく徹夜で描いたのに」
「何がダメなの? 絵の構図もいいと思うのに」
「先生、この絵の修正に消しパンを使いましたか」
「ううん。パンを使うなんてもったいないじゃん」
「おじい様の絵は消しパンを使って、優しい描き方をしていました。これでは勢いがありすぎて、オルファンの絵になりません」
おじい様は絵を直すときは、勢いをつけず丁寧に消しパンを擦って消していた。そうしてあの優しい描き方が……そうか、オルファンの絵に似せるなら、考え方も模倣しなければならなかった。
「先生はこの絵のモチーフはどこでお描きになられました?」
「え? もう急ぎだったから、うちの窓から見ながら描いてたよ」
「おじい様の絵は、おじい様が体験したものから着想を得ていました。先生の体験ではありません」
『雪原の雪だるま』も領地で積もっていた雪と私がつくった雪だるまを見ながら、春に仕上げた作品だ。つまり見たままでなく、見たものを思い出の中で補正しながら描き上げたんだ。
「それで。参考となるものもなく、何を見て描く?」
二人の間を割ってオブライエン様が入ってきた。オークションの時間まで後一月、それまでに私の今の実力で描けるものと言えば……
「アトリエを描きます。私の思い出にあるアトリエなら、イメージ通りに描けると思います。私もオルファンですから」
私の意志を伝えると、オブライエン様は「わかった」と告げた。
「勝負は来月だ。それまでに頼むぞ」
うなずき、アトリエのあった林の方を再び向き直る。思い出の中で、一番きれいだった夜空に照らされて、星空が瞬くアトリエを。
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