1話 決して売らない人気の絵
ヴァイオレット家は男爵の爵位持ちだ。爵位は公爵、侯爵、伯爵、男爵、子爵の順で格があり、爵位と同格か一つ下の身分の者同士でしか顔を合わせることがない。ましてや、格上が格下に対してお願いをするなどありえないことである。
「お願いします。一枚だけ、どんな小さな絵でも」
「申し訳ございません。絵は売ることは出来かねまして、侯爵様どうか頭をお上げください」
口ひげを生やした紺の衣服に金の刺繍が入った身なりの良い紳士が、身分も年も二回りも下の私にテーブルクロスに額を擦り付けるほど首を垂れていた。私ヴィルシーナ・バイオレットの前にいるのは、アクターズ侯爵。王族から覚えめでたく、国内最大の工場を持っている大人物である。その大人物が二つも位が下のバイオレット家に訪れたのは、私のおじい様であるオルファン・バイオレットが目的だ。
オルファン・バイオレットは絵師として国中に名が知られている。おじい様の絵は繊細な色遣いと大胆な表現が評価され、高値で取引されている。おじい様の絵が売れているのは本来なら喜ばれることだけどそれが高過ぎると混迷する。なにせ絵一枚だけで屋敷を売っても足りないと言われるほどの価値のある。その結果、金持ちや貴族たちが金銭での殴り合いによる争奪戦が日々繰り広げられている。
「非礼をお許しくださいませ。しかしオルファン殿の絵はセカンダリーには中々出回らず、バイヤーはそれをいいことに足元を見て値を釣り上げる次第。あの素晴らしい絵画をマネーゲームの道具にするなど許しがたい所業でございます。もちろん金銭はセカンダリーの価格と同等の金額をお約束いたします。前金もご用意しております。どうか絵を一目見させてくださいませんか」
「侯爵様、おじ、いえ祖父は不在でございますのでお売りすることは」
おじい様が不在であることを理由にするのはこれで十二件目、どの人も謳い文句はどれも同じ。本心は金銭での争奪戦に敗れたから、直接絵師本人に買い付けに来ただけ。マネーゲームを批判しているのに、結局出し抜くために少ない金で解決しようとしているなんて。
絵画の売買は、作者と契約販売するプライマリーギャラリーとそこから買った絵をオークションで売るセカンダリーに分けられる。プライマリーギャラリーとは画廊や商会のこと。セカンダリーはプライマリーを通じて買うため、より値段が高くなる。果物を直接農家に行って買うと安く済むが、市場に行けば少し高いのと同じだ。
しかし侯爵様の主張も一理がある。これほど絵画の価格が高騰している原因は、おじい様の作品が近年出ていないことにある。物の数が少なければ、価格は上がる。値段が上がったものをまた高値で買えば、残っている作品の数が減ってまた上がる。これの繰り返しである。
私が何度も侯爵様からの頼みをあの手この手で断っている隣で、お母様ディーナ・バイオレットは、ふわぁと隣で手に口を当ててあくびをしていた。
「ヴィルシーナ、一枚だけでもお売りしたらどう。侯爵様大変苦労なさっているそうですし。こうしてお父様の絵を高く評価しているようですし」
「お母様、私に売る権限は」
「でもお父様の絵に詳しいのはあなたでしょ」
と投げやりに決裁権を投げ渡した。おじい様の絵の販売は名目上はお母様が管理していることになっているが、お母様は絵画に興味がなく、絵に詳しいからと言う理由で娘の私に一任という名の丸投げしている。絵に詳しいのは、売るためじゃなくおじい様の絵が好きだからなのに。
「足代としてオークションの価格から少し値引きでもしたらいいんじゃないの」と余計な一言を付け加え、私は心の中で汗をかく。
先ほど果物で例えたが、果物と違って絵を直接客に売るのはご法度。お世話になっている画廊やバイヤーからの信用を無くすだけでなく、絵師の匙加減で価格を釣り上げてしまう危険性もある。そうなれば元の木阿弥だ。
気が重いなぁ。侯爵という二つも身分が上にお断りなんて、一歩間違えれば家がお取り潰しになるかもしれない。そんな綱渡りなのをお母様は自覚しているのだろか。ないんだろうなぁ。
居直って、スカートの皺を直して侯爵様に向き合う。
「絵を高く評価していただき感謝申し上げます。ですがこちらで保管しています作品の数は少なく、すべて売約済みの状態でして。遠路はるばるご足労頂き申し訳ございませんが」
「ふぅ、では絵が一枚できましたら、ご一報ください。これ、私の屋敷の住所と希望購入価格です」
侯爵が手持ちの紙に住所と絵の大きさを表す号数に対する希望価格を書き、私に渡して来賓室から出ていく。とりあえずこの場は切り抜けた。一応嘘はついてないんだけどね。
肩を落として馬車に乗り込む侯爵の姿を見届けると、お母様はごろりと琥珀色のソファーに体を横になって沈めた。
「ヴィヴィいつまでお父様の絵を売らないでいるつもりなの? 今日も絵は送られてきたんでしょ。それを侯爵様にお売りすれば、侯爵様もお喜びになるし、大金が入って両得じゃない」
「でもおじい様は全部売らないようにって言われているから」
「手紙でしょ。あなたが絵にお熱になるのも、お父様好きなのも構わないのよ。金銭が絡まなければ。連日、伯爵や侯爵の身分の方がうちに来訪されては肩を落として帰っていくこっちの身にもなって。位が上の方なんて社交パーティーでもお目通りできないのに、胃がキリキリしっぱなしで。お父様もお父様よ、こっちから手紙を送っても返事を寄こさないくせに、一方的に送り付けて……」
おじい様へのボヤキが途中から消えると、すぅっとお母様は寝息を立てて眠りに落ちていた。連日の来客で疲れてしまったのね。起こさないよう毛布をかけて。
ソファーで眠りに落ちているお母様を起こさないよう来賓室を後にし、おじい様からの郵便物を確認するために屋敷を出る。
屋敷の庭にある花壇は赤青のパンジーが咲きほこり、春の季節を伝えていた。そこを越えて、一転太陽の明かりが少ない森に入ると窓が一つもない小屋がポツンと建っていた。
ここがおじい様のアトリエ。六十を越えて余生を送るために趣味の絵を描く拠点として一人で建てた。だがその主はもういない。絵が売れ始めてから数年経ったある日、突然家族に連絡もなく行方をくらました。捜索してはみたのだが行方はわからず、代わりに絵と手紙が送られてきた。
『私の絵が欲しい人がいるなら、それを売りなさい』
それ以降、定期的に手紙と絵が送られ続け、言われた通りにそれを売り続けていた。
アトリエに入って小さな木窓を開ける。暗いアトリエに光が差し込み、赤や黄色などの絵具の痕がべったりついた木製の机が発光するかのように輝き、その上には一枚の茶色の袋が置かれていた。袋を閉じていた紐を開けると、蝋で封された祖父からの封筒が一枚、そして鉛筆の下書きだけしか描かれてないほぼ真っ白な絵がまた入っていた。
封筒をペーパーナイフで開けると、そこには短い一文が書かれていた。
『下書きの絵は好きなように描いてくれ。一人でできる オルファンじいちゃんより』
この前と同じ内容だ。
去年の冬ごろから祖父は下書きの絵しか送ってこなくなった。下書きということは未完成の絵、とても人に見せるものではない。
だがアトリエには色が入った絵画のキャンバスが所狭しと敷き詰められていた。
それらは、私が筆を入れた絵たちだ。
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