宵闇花ざかり

大塚

第1話

 母が死んだ。長く病を患った末の死だった。僕は22歳で、両親と三人で暮らしていた。葬儀の支度は僕と父が手分けをして行い、そう遠くない父の実家から伯父もやって来て細かい仕事を手伝ってくれた。


 兄が帰ってきた。5つ年上の、27歳の兄。17歳で出奔し、今日まで10年何の報せも寄越さなかった兄。正直、生きていたことに驚いた。

「ただいま」

 まるで昨日も顔を合わせた相手に言うように、兄は笑って見せた。喪服を着ていた。

「母さんが亡くなったって聞いて」

 誰に、どこで、いつ、どのタイミングで。尋ねたいことは色々あったけれど、今の僕たちは忙しかった。それこそ猫の手も借りたいほどに。それで、兄も葬儀の支度に参加することになった。

「あれ、てつ? おかえり」

 父より先に兄に声をかけたのは伯父だった。伯父と兄も10年は顔を合わせていないはずなのに、ふたりは僕や父よりもよほど打ち解けているように見えた。


 母の葬儀はごくごく一般的な仏式で、滞りなく行われた。学生時代の友人たちや、看護師として勤めていた病院の同僚、それに近所の人なんかが集まって、すべての儀式は慎ましく進行した。喪主である父は静かに頬を強張らせており、泣くこともできないのね、芙美子ふみこさん若かったものね、つきちゃんお父さんのこと支えてあげてね、と顔見知りの参列者たち──多くは女性だ──に声をかけられた。言われなくとも、これからの父を支えるのは僕の役目だ。兄、鉄が10年ぶりに帰宅したとはいえ、生まれてから22年、父と母の子どもとしてふたりの側にいたのはこの僕なのだから。

 葬儀には、伯父とふたりで暮らしている祖父も参列した。背筋はピンと伸び、動きもかくしゃくとしていて、60代後半という年齢よりもずっと若く見える。

 父と伯父に挟まれて座布団に座る祖父は、葬儀の間中ずっと俯いたまま、手の中の黒い数珠を繰っていた。念仏を唱えているのだろうかと思ったが、そのくちびるは固く引き結ばれたままだ。黒喪服の背中を丸めた祖父の体は、いつもより少し小さく見えた。


 俺、今日からここで暮らすから、と兄が言った。葬儀の翌日のことだった。

 四十九日が明けるまでという意味かと思ったのだが、どうやら違うらしい。

「俺の部屋まだある? 物置になってるかな?」

「え、いや、まあ、あるにはあるけど」

 物置にはなっていない。というか正確には何もない。17歳で兄が家を飛び出して、それから数年は勉強机や本棚、箪笥なんかがそのまま置かれていたのだけど、やがて何の連絡も寄越さない、家を出た当時持っていた携帯電話の番号も不通になっている、と判明し、それから僕と父と母で少しずつ部屋を片付けたのだ。個人的に買い集めていたらしい書籍やCDなんかは勝手に処分するのも忍びなくて押し入れの中にしまってあるけど、参考書とか当時通っていた高校の教科書、塾の教本なんかは皆捨てた。服もたぶんほとんど残っていない。だってそれぐらい兄は完全に姿を消してしまったんだ。どんなに連絡を取ろうとしても無駄だった。

「げ、ベッドも捨てちゃったの? 参ったな〜。誰も使ってない布団とかあったっけ? 来客用のやつとか……」

 母さんが。母さんが死んで。葬式をして。火葬にして。骨壷に入って戻ってきたばかりだというのに、兄の口調は驚くほどに明るかった。なんでだ。悲しくないのか。10年離れて暮らしてた相手が生きようが死のうが関係ないってことか? それならどうしてこのタイミングで帰ってきたんだ?

「いや、悲しいよそんな、当たり前じゃん。何言ってんの月」

「だって」

「悲しくなかったらこうやって帰ってくるはずないだろ」

「ていうか、誰に聞いたの? 母さんが、その……」

 ずっと引っかかってた疑問を口に出せば、今日は喪服ではなく持参した私服──ボタンシャツにデニムという至って普通の格好だ──姿の兄はひょいとスマホの画面をこちらにかざして見せた。そこには僕も登録している、というかおそらく世界中のだいたいの人間が使っているであろうSNSのアプリのホーム画面が映し出されていた。

「中学ん時一緒の部活だったやつが連絡くれた」

「陸上部?」

「そう。副部長だった海老原。あいつ、今薬剤師やってるんだよ」

「そうなんだ」

 全然知らなかった。薬剤師ってことは。

「母さんと会うことも多かったみたいで。すぐDMで知らせてくれたよ」

 SNS、DM。そんな手軽な手段で昔の友人とは繋がっているくせに、僕たち家族にはどうして何の連絡もくれなかったんだろう。兄は、何が気に食わなくてこの家を出たのだろう。

「気に食わなかったとかじゃなくて」

 と、彼は言った。僕の心を読んだかのような口調で。

「そうしなくちゃいけなかったんだよ」

 何を言っているのか全然分からない。


 ここで暮らすと兄は気軽に言うが、彼のこれまでの生活はどうなるのだろう。たとえば仕事とか。たとえば学業とか。実家を飛び出しているあいだに積み重ねてきたものが、多少なりともあるはずだ。

 僕に軽トラを出させて近くのホームセンターに行き、布団やカラーボックス、衣装ケースなど当面の生活に必要と思われるものを買い揃える兄の横顔は穏やかだった。

「あのさ、鉄兄……」

「仕事の話?」

 心を読まれでもしたようなタイミングだ。自宅に到着し、助手席から飛び降りた兄が手の中のスマートフォンを僕に向かって放り投げる。

 先ほどとは違う動画アプリだ。アメリカ資本の有名なやつじゃなくて、国産の、もっとミニマムな、でも結構有名、中学生とか高校生がメインの客層、あと新人アイドルの子たちとかも使ってるアプリ。テレビでCMを見たこともある。このアプリが、何?

「作ったの俺」

「え?」

「開発とかまあ色々……今は一応取締役ってポジションでやってるし、うちの会社全体基本在宅だから、俺が引っ越ししても特に問題なし」

「ええ……!?」

 そんなこと急に言われても理解が追いつかない。それにこんな、みんなが知ってるアプリを作ったのが僕の兄? 嘘だろ?

 その晩、こっそり自分のスマホでアプリの開発、運営をしている会社の名前を検索した。代表取締役社長・阿佐美野あざみの鉄。たしかにそう書かれていた。

 今年大学を卒業する僕も、一応就職先は決まっていた。実家からは電車で1時間とちょっとかかる、東京の割と真ん中の方に本社がある印刷会社。仕事を始めたら実家を出なくてはいけないと考えることもあった。亡くなった母は看護師で、父は5年前まで小さな新聞社の記者をしていた。早期退職後の今は自宅からほど近い場所にある大学で教鞭を取っている。


 僕も父も、そろそろ、それぞれの大学に復帰しなくてはならない。49日が過ぎるまでは悲しみに暮れていたいけれど、そう簡単にはいかないものだ。


 そんな生活の中に、兄は軽やかに飛び込んできた。


 かつて自分の部屋であった場所を自室兼オフィスとして使い、毎日のように誰かと会議、我が家には山のような封書が届くようになった。兄は大抵はオフィス自室で、時にはリビングに手元に届いた紙の束を広げ、サインをしたり、スマホで連絡を取ったり、返送したり、シュレッダー(小型のものをわざわざ近所の家電量販店で取り寄せていた)に掛けたり──とにかく、僕よりも父よりも忙しそうにしているのが兄だった。そうして、これはわざわざ言うまでもないことなのだけど、居酒屋でバイトをしている僕より、大学で教授だか助教授だかをやっている父より、きっちり金を稼いでいるのも兄だった。共働きの両親はそれぞれ手分けをして家事を行っていたし、僕もそれなりに手伝いはしていたけれど、

「ハウスキーパーを頼もうか」

 と言い出したのは兄だ。ハウス……と小首を傾げている父に兄はにっこりと微笑み、

「お手伝いさんってこと! ほら、正直さ、母さんがいなくなってみんなまだ本調子じゃないじゃない。そういう時こそ誰かに家事を手伝ってもらった方が、絶対にいいと思うんだよね」

 兄は東京でもハウスキーパーなる人を雇って家のことをやってもらっていたのだろうか。アプリを開発し、会社を立ち上げ、会社自体は完全在宅制とはいえ代表取締役というポジションはそんなに暇なものではないだろう。10年ぶりに僕と父、そして母の前に現れた兄はこざっぱりと爽やかで、生活に苦労しているようには見えなかった。お金を持っていて、お金の使い方をきちんと心得ている人間の佇まいだった。


 父の同意を得て、兄は実家を出てから暮らしていたマンション──僕でも知っているほどの大都会、芸能人とかが住んでいる土地──を引き払い、雇っていたハウスキーパーさんを派遣していた会社と交渉をして、ひとりの女性を我が家に迎え入れた。僕は、その時少しだけ邪推していた。一人暮らしの頃に雇っていたハウスキーパーさんの写真を見せてもらったのだけど、その人は僕たちの母親ぐらいの年代の女性で、兄曰く既婚で、もう孫までいて、料理がすごくうまいという話だった。で、今回我が家、阿佐美野家に来てもらう女性は大変若かった。僕よりは年上だけど、兄よりは年下。いや、もしかしたら同世代ぐらいかも。

 兄は、自分の恋人をハウスキーパーというポジションで実家に連れ込んだのではないだろうか。

「えっ、阿佐美野社長と……? やだぁ、そんなはずないじゃないですか!」

 そう思い込んだら、問い質さずにはいられなかった。ハウスキーパーさん──沢海さわみあゆ子さんは今日の夕食と、それから明日の朝食を仕込みながらコロコロと笑った。

「絶対有り得ないです」

「本当に?」

「なんでそんな疑うんですか〜。あたし、阿佐美野社長とそんなにお似合いですか?」

 お似合いとかお似合いじゃないとかは僕にはちょっと分からない。でも、電車に乗ってこの町にやって来た沢海さんを兄は僕の軽トラではなく自分のクルマ(名前は知らない、なんか高そうなやつ)で迎えに行ってたし、母の墓前に手を合わせる沢海さんを示して「良さそうな子でしょ」なんてニコニコしてたし……。

「残念でした〜。月已つきやさんの勘違いですよ」

「そうなの?」

「そうですよ。あたしがここに来たのは、うちの会社の中でもいちばん身動きが取りやすくて、つまり独身って意味ですけど、それでできるだけ若くて健康で、ちょっとぐらい田舎でも我慢できて、しかも──」

 

「それが条件。全部に当てはまる従業員なんて、なかなかいませんよ? でも阿佐美野社長はお得意様だから、うちの上の方も頑張っちゃって……」

「そ、そう、なんだ」

 沢海さんはうちの実家から徒歩すぐの場所にある小さなアパートに部屋を借りて暮らしている。社宅って扱いになるらしい。歩いて来ることもあるし、自転車に乗っていることもある。自転車が好きらしい。料理は上手だ。掃除もしっかりしてくれる。朝の8時から夜の6時、から8時ぐらいまで、休憩も取りつつ家の中を綺麗にしておいてくれる。もちろん母さんの墓前も含めて。父は最初母がいなくなったばかりの家にすぐ人を呼ぶなんて、とかなんとか言って渋っていたが、沢海さんがいる生活には割とすぐ慣れたようだった。少なくとも僕よりもずっと早く。


(亡くなられた奥様に似てない女……)


 沢海さんの言葉を思い出す。兄が出した条件。つまりそういう意味なのか? 父が心置きなく母との思い出に浸ることができるように、母とは全然違うタイプの女性を雇った。そういう、心遣い、なのか?

 僕には兄のことが分からない。


 母が亡くなり、兄が戻り、沢海さんがやって来た。僕と父はそれぞれの大学に復帰した。変わったことがもうひとつある。父の兄、伯父が頻繁に我が家を訪れるようになったのだ。阿佐美野ふじ。藤伯父さん。独身で、僕にとっては祖父、父と伯父にとっては父親に当たる人とふたりで暮らしている。祖父の名は八凪やなぎという。

 藤伯父さんは作家だ。そこそこ売れている。著作が映画化されたりドラマ化されたり、舞台になったこともある。それに何より、顔がいい。50手前の渋さと青年のような溌剌さが同居した──これはネットで見かけたインタビュー記事に書かれていた記者のコメントだが──不思議な魅力を持つ小説家。どんな媒体にも平気で顔出しをするし、SNSに自撮りも載せてるからそういうファンも多いらしい。そういうっていうのはつまり、伯父さんの作品じゃなくて伯父さん本人に魅力を感じてる、っていう意味。

 前に著作が映画化された時、主演の女性俳優と熱愛を報道されたことがあった。普段はどんなに作品を馬鹿にされたり、作品は大したことないのに顔がいいから調子に乗ってる〜とか言われても全然怒らない伯父さんが、その時だけは嘘の報道を流した雑誌と出版社を相手に裁判を起こそうとしていたのを覚えている。結局出版社側が非を認めて記事を取り下げ、伯父さんと相手の俳優に謝罪をすることで話は落ち着いたのだけど、あの人があんなに怒り狂っているのを見たのは後にも先のもあの件だけだ。

 その、藤伯父さんが、週に一度はうちに来る。曜日は決まっていない。時間も。だから僕は会ってないけど沢海さんがお土産だけを受け取ってる、なんてのもしょっちゅうだ。ああ、あと、基本的に家にいる兄は会ってるみたいだけど。

「伯父さん、何しに来たの?」

 リビングにお土産がある日は必ず兄にそう尋ねる。

「母さんにお線香上げに」

 兄は毎回そう答える。


 母さんの四十九日が明ける日。

 偶然、藤伯父さんの来訪に居合わせた。

 台所でお茶の準備をしていた沢海さんが「藤さんいらしてますよ」と教えてくれたのだ。僕はたしか大学から一旦帰宅して、バイトに出かける直前だった。

 伯父さん来てるのか。それじゃあ挨拶しなくちゃな。そんな風に思って客間に足を向けた。

 客間から会話が聞こえてきた。

「鉄はよくやってるな」

 伯父さんの声だった。

「ああ」

 父が応じていた。

「あの何、アプリ? 俺の編集もよく見てるって言ってたよ」

「編集さんも使うのか?」

「いや。意外とああいうアプリの中に金の卵が眠っているんだそうだ」

「ふうん」

 父はもともとそうお喋りな方ではないけれど、伯父さんと相対すると余計に無口になる。今もそうだった。伯父さんは良く回る舌で兄と兄の会社を褒め、父は短く、うん、うん、とだけ答えていた。

まり

 伯父さんが呼んだ。鞠已まりや。父の名前だ。

「──分かってるな?」

 ひどく高圧的な響きだった。あの時、雑誌記者にキレまくっていた時の響きに少し似ていた。

 客間に入ろうとしていた体がぴたりと止まる。今、中に、入ってはいけない。そんな気がした。

 足音をできるだけ殺して、後退りをしてその場を離れた。自室に戻り、バイト用のトートバッグを肩から提げて家を飛び出した。行ってきます、と言う僕を、行ってらっしゃい、とお茶と羊羹が乗ったお盆を手にした沢海さんが見送ってくれた。

 その日はバイトが終わっても家に帰らなかった。ちょっと家族と喧嘩したんだよねとかなんとか言ってバイト仲間の家に泊めてもらった。


 バイト仲間の家から学校に行き、夕方家に帰った。玄関を開けたら煙草の匂いがした。

「おかえり」

 沢海さんはいなかった。台所の換気扇の下で、兄が煙を焚いていた。

 兄はなぜか上半身裸だった。僕よりもずっと鍛え上げられた体をしていると初めて気付いた。背中には引っ掻き傷のようなものが幾つもあった。下に履いているのはデニムとかじゃなくて寝巻きにしているジャージだった。

 女の人を、連れ込んでいたの?

「何言ってんだ」

 僕の間の抜けた問いを、兄はいっそ不自然なほど爽やかに笑い飛ばした。

「それより月已、おまえこそ。気ぃ遣ってくれたんだろ、ありがとな」

 兄が何を言っているのか、一瞬理解できなかった。いや。一瞬だけじゃない。今も理解できていない。灰皿代わりの缶コーヒーの空き缶に吸い殻を放り込んだ兄は、

 と付け足して、風呂場に去って行った。

 僕はしばらく、何がなんだか分からなくてその場に立ち尽くしていた。


 いい初夜だった?


 兄と、誰が、初夜を? 沢海さん? 沢海さんとセックスしたのか? だから沢海さんはいないのか? 僕は沢海さんの連絡先を知っている。メッセージを入れてみた方がいいのか? でも、沢海さんと兄が正式に交際しているのなら、いずれ僕にも紹介されるだろう。だったら今の僕は余計なことをしないで黙っていた方がいいんじゃないのか? もう何がなんだか分からない。父さん。父さんに相談しよう。そうだ。それがいい。だって父さんは父さんなんだから。分かってるはずだ。全部。


 それで僕は父の部屋に向かった。書斎、と呼ばれている資料室にはいなかった。父が新聞記者だった頃からずっと使っている、本棚と机とパソコンしかないシンプルな部屋。まだ大学にいるのかな? でも確か今日は講義がない日じゃなかったっけ。それじゃあどこに? 寝室かな? たまの休日だからまだ寝てるのかな?

 父は、父の、いや、父と母の寝室にはいなかった。

 それで僕は初めて、ものすごく嫌な予感を抱いた。

 自分の部屋に戻って、レポートの仕上げなんかを始めれば良かったのかもしれない。でも僕はそうしなかった。愚かだった。知りたいなんて思わなければ良かった。


 僕は、兄の部屋のドアを開けた。


 ホームセンターで買ったセミダブルの低反発マットレス、その上に敷かれた布団の上に座り込んでいたのは、全裸の、父、だった。

 見るからに自失していた。白髪混じりの黒髪が乱れて、汗で濡れた肌に貼り付いていた。色の白い父の肌に、誰かが強く掴んだような手の跡が付いていた。誰か? 誰かだなんて。兄だ。兄がやったんだ。

 腰が抜けたようにぺたんと座り込む父の足元に、コンドームの袋が落ちていた。よく見たら布団の周りにも点々とティッシュだとか使用済みのコンドームそのものもあって、僕はそこで初めて吐き気を催した。

 悪い冗談だろ。

「……月」

 両手で口を押さえる僕を、父が見上げていた。

「月已」

 応じる言葉を僕は持たない。裸足のままで家を飛び出していた。

 行く宛はない。

 いやある。

 藤伯父さんの家だ。


 よー月ちゃん珍しいねどうしたの、と尋ねる藤伯父さんは何もかもを承知している、そんな顔をしていた。

 この家に足を踏み入れるのは久しぶりだった。そういえば祖父にも、母の葬儀で本当に久しぶりに会った。なんでだろう。家だって近いし、僕も兄も祖父のことは大好きだったはずなのに。

「真っ青だよ、お茶飲む?」

 はい、と肯く僕に、先にお風呂かな、と藤伯父さんは笑う。僕の足の裏は泥まみれで、体は汗でびっしょり、見るからにひどい状態だった。

 藤伯父さんの、というか祖父母の好みで建てられた平家の邸宅、お風呂は広くてバリアフリー仕様になっていた。おじいちゃん今幾つだっけ。まだ70にはなってなかったと思うけど。

 汗と泥を流して洗面所に出ると、真新しい下着とTシャツ、それに部屋着のハーフパンツが置かれていた。ありがたく身に着け、リビングに顔を出す。藤伯父さんがアイスコーヒーを準備していた。

「ま、座んなさいな」

「はい……」

 おじいちゃんはどこにいるんだろう。おじいちゃんに会いたい。おじいちゃんにもこの場に同席してほしい。無性にそんな気持ちになっていた。でも今僕の目の前にいるのは藤伯父さんだけだ。さらっとした夏物の着物……浴衣? を着ている。名前の通り綺麗な藤色の浴衣。父とは違って白髪が一本もない黒髪をゆるく撫で付けた藤伯父さんが、僕を見て小さく笑った。

「座って、月ちゃん」

 優しい声だった。でもほとんど命令だった。座らないわけにはいかなかった。

「鉄のことでしょう」

 藤伯父さんが言う。鉄。鉄兄さん。17歳から母さんが死ぬ日まで実家に戻って来なかった僕の兄。

 兄の部屋を思い出す。ぐしゃぐしゃに乱れたシーツの上に茫然と座り込んでいた、裸の父を思い出す。吐きそうになった。


 藤伯父さんは僕の言葉を待っている。喋り始めた。


 言わなくても良いことまで言った気がした。でも罪悪感はない。僕は兄に腹を立てていた。気色悪いと思っていた。こんなことをするために戻ってきたのなら、今すぐ出て行ってほしい、僕と父の静かな生活を返してほしい──そう、思っていた。

「そうかあ」

 藤伯父さんが妙に間伸びした声で言った。

「鞠もそう思ってんのかなぁ?」

「そんなの決まって……え?」

 父が、どう思っているかだって? そんなの僕には分からないけれど、いやでも、僕の母さん、父さんの奥さんが死んで、まだ四十九日と少ししか経っていなくて、兄が戻ってくることで生活は少し変わって沢海さんっていう全然他人が参加したことで更に変わって、僕たちはずっと落ち込んでいられなくなって、少し明るい気持ちになることも増えて、父も僕も日常を取り戻して──

「鉄は17で出て行ったんだっけ。俺は15の時だったな」

「え?」

 何。言ってるの。

 目の前で冷たいコーヒーを飲む藤伯父さんが、知らない人に見えた。

「俺も15で出て行って。10年ちょっと経って……オフクロが死んで2年過ぎたぐらいの時に戻ってきた」

 意味がわからない。何の話をしているの。

「おまえたちももう生まれてたよな。甥がいるってその時初めて知ったよ。ほら、昔は今と違って、スマホとかなかったし。俺がどこにいるのか鞠もオヤジも知らなかったから、知らせる手段がなかったんだよな」

 そろそろかな、と思って戻ったんだよ。藤伯父さんはそう言った。

「そろそろって……?」

「そろそろオフクロが死んだかなって」

 思わず席を立っていた。

 何を言っているんだ、この人は。

 自分の母親が死んだかもしれないという予感とともに、捨てた故郷に帰ってきたって?

「そうだよ」

 藤伯父さんはふんわりと笑う。世の中の人たちがカッコいい、イケメン、モデルみたいなハンサム、小説家じゃなくて俳優になれば良かったのにとか好き勝手に言う美貌が、僕を見上げている。

「オフクロがいなくなれば、オヤジは俺のものだろう」

 そんなルール聞いたことない。

「月、おまえが知らなくても阿佐美野家にはそういう約束事があるんだよ。オヤジの兄貴だってそうさ、もう死んだけど」

 頭の中がぐるぐるする。どういうこと。それっておかしいじゃん。だって親と子どもなのに。母親がいなくなったら父親は息子のもの? 気持ち悪い、気持ち悪いよ。

「いや、違う。オヤジはになるんだ。息子のものじゃない。わかるか? 月、残念だけど鞠はおまえのものにはならない」

 そういう話をしているんじゃない。

「それに、長男は将来オヤジを手に入れるために、絶対に女と番わない。だから月、おまえは──」

 聞きたくない。これ以上聞いていられなかった。

 床を蹴って逃げた。自宅には帰れない。バイト先の友だちにもこれ以上迷惑をかけられない。それなら。

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