3体目の私
ヤギサンダヨ
3体目の私
出張のためカンタベリーに2週間滞在することになった私は、週末、電車に乗って30分ほどのフォークストンという町を訪れた。丘の上の商店街を散策した後、昼過ぎに古い石畳を下って漁港へ向かい、廃線のガード下のレンガ作りのパブで黒ビールとカキを注文した。滞在中のホテルでは毎日ポテトフライが主食として給されるわけだが、日本人には少々きつい。今日この港に遊びにきたのは、どうしても生魚を食べたくなったためである。この地方のレストランでは、生カキや小魚をプレートに載せて、レモンと酢で提供してくれる店があるらしい。残念ながらガード下のパブはレストランではないので、そのような豪華な一品は望めなかったが、ポテトの油に懲りていた私にとって、久しぶりの生ガキは格別だった。
ほろ酔い気分でパブを出た私は、港からすこし離れた海岸沿いのさびれた別荘地を散策した。かつては避暑地として栄えたというこの町も、今は人影もまばらで、時折カモメの声が寂しそうに聞こえるばかりだ。砂浜には朽ちかけた白い木造の小屋がいくつも建っている。その向こうには動かない小さな観覧車が見える。どうやらここには、かつて遊園地があったらしい。イギリスではこのように海岸に小さな遊園地が作られることは少なくない。今は誰もいない敷地に残る小屋、おそらく遊園地時代のアトラクションを、私は一つひとつ覗いてみることにした。日が少し傾きかけて、ドーバーから涼しい風が吹いてきた。小屋は皆白い木造の建物になっており、それぞれ入り口と出口がついていた。
一つ目の小屋の入り口の扉を開けると、部屋の中にはたくさんのロープがぶら下がっていた。どうやら、正解の一本を引くと出口の扉が開くという仕掛けらしい。私は正解がどれだかすぐに分かった。なぜなら、一本のロープだけが、手垢で少し黒ずんでいたからだ。躊躇せずそのロープを引っ張ると、みごと出口の扉が開いた。アトラクションというにはあまりにも素朴だが、昔の子どもはこんなゲームでも楽しめたに違いない、そう思いつつ外へ出た。
次の小屋の中に入ってみると、今度はなんと池が作ってあった。池の上には梯子が渡してあり、出口は橋の向こう側にあった。池の水は黒々としており、わずかに波うっているところから、海とつながっているらしかった。少し酔っていた私は、万が一落ちると嫌だから(というより私は泳げないから)、入ってきた入り口から外に出ようと試みた。でも、扉はどうやら内側からは開かない仕組みらしい。やむを得ず、私は慎重にその梯子状の橋を渡った。ほんの十数メートルだったが、ちょっと緊張した。
小屋を出ると、日が暮れかけていて、ドーバーの風も肌寒く感じたが、この素朴なアスレチックのようなゲームに興味を持った私は、もう一つだけ小屋を覗いてみることにした。
次の小屋は二階建てになっていて、外階段を通って入り口に向かうようだ。波打ち際近くに作られていたため、1階部分の壁は海水に洗われた形跡がある。
2階から中に入ってみると、部屋の中には何もなかった。壁が節穴だらけなので窓がなくても真っ暗ではない。よく見ると、部屋の中央の床に一辺6、70センチほどの四角い板がネジ止めされていて蓋のようになっている。白い大きなネジは指先でつまんで回すことができた。その二つを緩めて引っ張りあげると、下の部屋が覗けた。
下の部屋には、テーブルが一つ置かれているだけで、その足は砂に埋もれていた。どうやらあのテーブルに飛び降りれば、下の部屋へ行くことができそうだ。私は四角い板が留めてあった枠に手をかけてぶら下がりテーブルの上に飛び降りた。壁の間や節穴から夕日が差し込んでいる。部屋を一通り見回してみたが、なにやら英語の貼り紙がある以外には、とくに仕掛けはなさそうだった。高い天井からただ飛び下りる・・・。この小屋はこれだけか、と思って出口をさがしたが、1階には出口らしき扉が見当たらない。仕方なく先ほど飛び降りた穴から外に出ようと思ったのだが、テーブルに乗っても穴の縁に手が届かない。それに、バネ仕掛けで蓋が閉じてしまったようで、手をかけるところもない。どこかに仕掛けがあるのだろうと思って、もう一度部屋をあちこち見回してみたが、やはり出口らしきものはない。
そうこうしているうちに、潮が満ちてきたのか、波の音が近くなってきた。そのとき、先ほどの張り紙のようなものが私の目にとまった。張り紙には英語でこう書いてあった。
「緊急脱出:緊急の際は柱の裏側のボタンを押して、係員を呼び出してしてください。」
そうか。ここで出られなくなった客は係員に助けてもらってゲームオーバーということか・・・。私は試しにボタンを何度か押して待ってみたが、当然反応はなく、係員も来なかった。
いつの間にか海水が小屋の床にも流れ込み、テーブルの下の砂が少しずつ流れはじめた。私はテーブルの上で何度もジャンプを試みてみたが、蓋には手が届かない。
私は携帯をホテルの部屋に置いてきたことを悔やんだ。仕事の電話が来るとうっとうしいという理由で、持ってこなかったのだ。
何度も何度も大声で「ヘルプミー」と叫んでみたが、もちろんだれも助けに来ない。いよいよテーブルの上まで潮が満ちてきて、くるぶしから私の靴の中まで濡らし始めた。泳ぎのできない自分にとって、このゲームが致命的であったことを悟った。
水かさはみるみる増して、足から腰、腰から胸へと達した。
数十分後、薄暗い小屋の中で、私は首まで海水につかっていた。海水はなお増し続けていた。ここまで潮が満ちるということは、きっと大潮に違いない。まもなく満月が昇ったらしく、死を覚悟した私の足元やテーブルを、節穴から差し込んだ月光がゆらゆらと照らしはじめた。
頭まで海水に没した私の目に、最後に淡く映ったものは、テーブルの下で既に白骨化している2体の遺体だった。
3体目の私 ヤギサンダヨ @yagisandayo
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