不備はない




 律はマンションのエントランスを通り、エレベーターに向かう。開きっぱなしのドアの中には、すでにスーツ姿の青年と、かわいらしい女性がのっていた。律を前に、二人とも笑顔になる。


「お疲れ様です、社長」


 ボタンの前に立つ男性は、Platinumプラチナム系列のドライバー、ミズキだ。ドアを開けたまま、待ってくれている。前髪の金色メッシュが印象強く、光が反射するたびにキラキラと光っていた。


「はい、おつかれ~」


 エレベーターに乗り込むと、扉は閉まる。


 上に向かい始めると、律の後ろにいた女性が声を放った。


「聞いたよ、社長。レミちゃんにお金貸すんだって?」


 女性は、Platiinum Sugarプラチナム シュガ―に所属しているヒナノだ。フリルのついた水玉のワンピースが幼さを引き立たせている。


 律はホストクラブで女性と話すときのように、穏やかで聞き取りやすい声を出した。


「え~? なんで知ってんの?」


「だって本人が言ってたんだもん。オーラスで毎日出勤するって条件で貸してくれるって。待機所でもみんな信じられないって話してるよ」


「そっか~。レミちゃんが自分で言ったんだぁ」


 律のあきれきったため息が反響する。ミズキが不安げに口をはさんだ。


「大丈夫なんですか? あのレミさんですよ?」


「んー、でも貸すって言っちゃったしね」


「部長とメイコさん、反対しませんでした?」


「してたよ。めちゃくちゃしてた」


 平然と答える律を、二人は微妙な表情で見つめる。意を決したヒナノが、真剣な声で忠告した


「ねえ、社長。やめといたほうがいいよ、あの子、いい話全然きかないもん。他の女の子にもお金借りてたの、知ってる?」


「まあ、なんとなくは聞いてるよ」


 部長とメイコが前借を渋っていたのは、単に金額が大きかったからだけではない。レミの金銭トラブルについては、以前から問題視されていることだった。


「じゃあなんで貸したの? 優しい子にも付け込んでたくさん借りてるような子なんだよ?」


 エレベーターの扉が開き、律が先におりる。次に出てきたヒナノに顔を向け、苦笑した。


「もしかしてヒナノちゃんも貸したの?」


 ヒナノはきょきょろとあたりを見渡し、誰もいないことを確認する。フロアに響かないよう、声をひそめた。


「少しね。でも返ってこないよ。催促したら逆切れ。まあ一万円だし、もういいけどさ」


「それは大変だったね、ヒナノちゃん」


「いや私はいいんだよ。他の子はもっと借り逃げされてるし」


 かわいらしく頬をむくれさせるヒナノを横目に、律は最後におりたミズキに声をかけた。


「確か、ドライバーにも借りようとしたらしいね」


 ミズキも周囲を気にしながら、声を潜めて「そうです」とうなずく。


「しかもやりかたがえぐいんすよ。男性ドライバーにやらしいことを条件にして金をもらおうとしてたみたいで」


「ああ、抱かせてやるから金くれ、みたいな?」


「ですです」


 ヒナノは顔をゆがませる。


「うわー、あの子そんなことしてたの? ドン引きなんだけど」


 対して律は、いたずらっぽく笑っていた。


「……で、ミズキはやったの?」


「なわけないじゃないですか。してたら大問題でしょ。レミさんの件は事務所も問題にしてるし、絶対に貸さないってことに決まってたんですから。……社長が貸すまでは」


「それはよかった。ウチのスタッフたちは優秀だな~」


 あっけらかんと言い放つ律に、ミズキはあきれ、ヒナノは息をつく。律とミズキに背を向けたヒナノは、フロア奥の待機室に向かい始めた。


「あ、待ってヒナノちゃん」


「なあに?」


 振り返って律を見るヒナノは、くりくりした目をかわいらしくまばたきさせる。


「返ってこないぶん、俺がたてかえとこうか?」


「え!」


 声が、フロア中に響いた。口元に手を当て、声を潜める。


「いや、いいよ。一万円くらいすぐに稼げるし」


「一万円だからって甘く見ちゃだめだよ。他に借りた子のことも教えて。俺がたてかえるから」


 キラキラした笑みを見せる律に、ヒナノは全力で手を振る。


「いいっていいって。社長からなんてもらえないよ! みんなそう言うと思うし」


「じゃあ、女の子たちにヒナノちゃんから言っといて、今後はなにを言われても絶対に貸すなって」


「うん、みんなそのつもりだよ」


 ヒナノは背を向け、フロアの奥に進んでいく。


 待機所に入るまで見送った律のとなりで、ミズキがつぶやいた。


「五十万貸す社長が何言ってんすか」


 反響しやすいマンションでは、つぶやき声も平気で律の耳に入る。律の表情は不愛想なものに変わり、気だるげな声で返した。


「それとこれとは話が別だろ」


「別じゃないっすよ。社長は女の子に優しいですけど、それが必ずしも女の子のためになるわけじゃないんすよ?」


「ふぅん?」


 律はじろりとミズキを見すえる。


「まるで俺より女の子のこと知ってるみたいな口ぶりじゃん」


 社長として漂わせている圧に、ミズキは身構える。


「いや、そんなんじゃないんすけど」


「……いいんだよ。俺は俺で、考えがあるんだから」


 言い切った律の瞳は、突き放すような冷ややかさとともに、力強さをひしひしと感じさせた。




          †




 Sweetスウィート Plutinumプラチナムの営業が終わり、女性たちはスタッフの送迎で家に帰っていく。


 一仕事終えたレミは部屋のカギを持ち、フロアの廊下を進んでいた。


「もう荷物は全部運んだの?」


 背後からの声にびくりと震えた。


 振り返ると、そこにいたのは律だ。冷徹な顔でレミを見すえている。


 レミは安堵あんどした息をつき、うなずいた。


「なにか足りないものがあったらスタッフに言って。買ってきてくれると思うから」


 口調は優しいが、表情と声は相変わらず冷たい。


「はい、ありがとうございます」


 レミは頭を少し下げた。律が数歩近づき、縦長の白い封筒を差し出す。


「はい、これ。五十万」


「あ! ありがとうございます!」


 なんのためらいもなく受け取り、中身をチラリと確認して、自身のバッグの中に入れる。律はクリップボードとペンも差し出し、一段と真剣な声を出した。


「受け取ったからには、ここに名前書いて。印鑑は持ってきた? ないなら拇印ぼいんでもいいよ?」


「え、ああ……」


 レミが受け取ったそれは、借用書だ。返済期日や返済方法、遅延時による対応などが箇条書きで記載されている。書面の最後に署名欄と住所記入欄が用意されていた。


「いい? 五十万って大金だから、返ってくる保証が欲しいんだ。注意書きをよく読んでサインしてね」


 と言っている間に、レミはペンを受け取って、さらさらと本名を記入していく。


「……あくまでも借用書だから、法的措置に乏しい部分も出てくるんだけどね。仮に、返済せずに仕事を辞めた場合はそれ相応のペナルティがあって」


「大丈夫です。逃げたりしないので」


 レミは使ったペンをボードのクリップにはさみ、カバンから印鑑を取り出した。律が差し出す朱肉に、ぎゅっぎゅと押し付けている。


「レミちゃんを信じてるけど、一応ね。もしそうなった場合はこの業界のブラックリストに」


「わかってますってば」


 印鑑を押し、ほら、とクリップボードとペンを返す。使った印鑑をカバンの中に放った。


 律は借用書に目をとおす。読める字で住所と氏名が書かれ、印鑑もはっきりと押されていた。


 不備はない。


「……うん。これで大丈夫」


 ひとまずは安心だ。


 レミを見ると、まるですべてが終わったかのように、すっきりとした笑みを浮かべている。借金を背負った立場だというのに。


「じゃあ、これからもがんばって。おやすみ」


「はーい、おやすみなさーい」


 レミはドアのカギ穴にカギを差し込み、上機嫌で中に入っていく。中からカギを回す音を確認した律は背を向け、静かにその場をあとにした。


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