生まれて始めて降り立った北の大地は、涼やかな涼風吹き抜ける過ごしやすい土地かと思いきや、ややおもむきが異なっていた。

 午前にも関わらず、アスファルトが熱気で陽炎が立ち、容赦なく降り注ぐ陽射しに向日葵の花は夏バテのように力無く項垂れていた。

 私が押す車椅子の上で、私がプレゼントしたつば広の帽子を深めに被ったあきバアは、北海道に着いてから何度も何度も連れてきてくれてありがとうと、感謝してやまなかった。


「今日は思い出のラベンダー畑に行くからね」

「ああ、嬉しいわぁ。まさか場所を調べてくれてたなんて思いもしなかったもの」


 シワシワの額に浮かぶ汗を拭き取ってあげると、チェックアウトを済ませた日除け対策バッチリの母が、親の敵のように空を見上げて話しかけてきた。


「もう、せっかく涼めると思ったのに、北海道って案外涼しくないのねぇ」

「今日も最高気温が30度超えてるみたいだからね。仕方ないよ」


 送迎タクシーの後部座席にキャリーケースを詰め込むと、大振りのサングラスで隠れる顔を手で仰ぎながら、都会とさほど変わりない真夏日を超える気温に、早速愚痴を漏らし始めた。


 私が旅行の説得に失敗した翌朝、顔を合わせた母は開口一番、「北海道には私も一緒についていくから」と条件付きではあるが、一転してあきバアとの旅行を認めてくれた。その裏で実は父が母に説得を試みて、かつ成功したことにお土産の一つでも買っていってあげようと思う程度には感謝をしていた。


 翌日にはすっかり旅行モードの母を引き連れ、三人で一路、北海道へと飛び立ち一泊して、今に至る。

 残された時間は三日――なるべく意識しないようにしていると、隣に座るあきバアが「これでもう悔いはないわねぇ」と、自分の寿命を自覚しているような達観した声色で呟いて、お気に入りの歌を口ずさみ始めた。

 未来はわかっているくせに、そんな顔しないでよと思ってしまう私は未練がましいのだろうか――。



       ✽✽✽



 牧歌的な緑一色の景色の中を二時間半ほどひた走ると、腰が痛くなり始めた頃にようやく目的地のラベンダー畑に辿り着いた。

 写真で見たようになだらかに続く丘一面に、遊歩道を挟んで腰の高さほどの紫の花がどこまでも敷き詰められていた。ちょうど見頃の時期に差し掛かっていたようで、絵に描いたような景色とは当にこのことだった。天国を地上に下ろしたとしか思えない光景に、恥ずかしながらあきバアよりも圧倒され、息を呑んでいた。


 旅行前に事前にホームページで、このラベンダー畑の成り立ちを調べていた。なにもない土地で栽培を始めたのは、戦後間もない時期だという。

 物資も食料も乏しい状況下で、ゼロから作り上げる平和な未来を願って一本一本植えていった紫の大地に、当時新しい家族を築いて幸せの真っ只中にいたあきバアは、一体何を見たのだろう。

 そこかしこで肩を寄せ合い、写真を撮るカップルや親子の姿を遠くに見ていたあきバアは、声を震わせると曾孫の私も見たことのない涙を流し、亡き家族が花畑の中に佇んでいるかのように名前を呼んでいた。


「あきバア、折角だから一緒に写真を撮ろうよ」

「あら、いいの?」


 私の申し出に、涙を拭いたあきバアは乙女のように恥じらっていた。


「いいに決まってるじゃん。ねえ、お母さんもいいでしょ?」

「そうね。それじゃあ誰かに取ってもらいましょうか」


 通りすがりの観光客に声をかけ、写真を取ってもらってもいいか尋ねると快く受け入れてもらえた。三世代――いや、四世代が一枚に収まるとポーズも三者三様で、仕上がりを見た三人は思わず笑いあった。

 あきバアとのツーショットも撮ってもらい、刻一刻と消えつつある思い出に触れながらラベンダーのソフトクリームを食べたりして存分に愉しんでいた。


 愉しい時間はあっという間なもので、帰りの便が近づいてくると突然あきバアが、「サキちゃんと話があるの」と、母に二人だけにしてくれないか訴えてきた。

 自分から誰かに頼み事をすることがほとんどなかった人だったから、驚いて母に目配せすると、母も同じように目を丸くさせていた。


「それなら飛行機の時間に間に合うように話してきなさい」

 私に告げると、その場を離れていった。


 二人きりになった私は、一体どうしたのか尋ねた。「母さんを外させて、一体どうしたの?」するとあきバアは、「どうしても伝えたいことがある」のだという。


「サキちゃん。死ぬ前にもう一度この景色を見せてくれて、ありがとうね。口にはしなかったけど、実は人生の最後に訪れたかったのよ」

「ちょ、ちょっと、何縁起悪いこと言ってるの。来年だってまた見に来れるじゃん」


 未来を知っているからこそ、自分の言葉に虚しさを覚えつつ精一杯の笑顔を作ってで答えた。


「不思議となんとなくわかるものなの。もう間もなく、私はこの世を去るんだってね」


 私の手を借りて、少し疲れたわと車椅子に腰掛けると、魂が抜けていくように体が一回り小さくなったあきバアがゆっくりと目を閉じて会話を続けた。


「私の人生は波乱万丈だったけど、最後に悔いなく幕を降ろすことができて本当に良かったわ。サキちゃんも、これから先長い人生をあるんでいくことになる。だけど、辛いときに私は側にいてあげることは、残念だけど出来そうにもない。だからね、周りの人達を存分に頼りなさい。サキちゃんは決して独りじゃない。私が死んだとしても、あなたには支えてくれる人達がいるのよ。それさえ忘れなければ、人生そう捨てたものじゃないからね」


 東京に帰ってからの私は、多くの人に頭を下げて無理を通してもらった。夜間もあきバアの側を離れず、一人では決して逝かせやしないと襲ってくる睡魔に耐えながら小さな手を握りしめて、そして窓の外が白み始めた頃にあきバアの最期を看取った。看取ることが出来た。


 


 

 

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