第十五話

「殿、お役目中に失礼いたします。少しお時間よろしいでしょうか?」


 水野が城内での執務中に声をかけてくることは珍しい。何かあったようだ。そうでなければこんな時に声をかけてこないのだから。

 こういう時は大抵悪い事が起きたのではと考えてしまう。大半は杞憂であることが多いので、これは性格なんだろうと思う。


 少し区切りの付いたところで席を立つ。俺は藩主ではあるが、和歌山の紀州藩庁 和歌山城にいる。同じ時期に分藩して藩主となった兄上の頼元も同じように和歌山城にいる。

 これは普通の事ではない。徳川家の統治制度からすれば例外的な対応と言えるだろう。普通、藩主は領地と江戸を一年毎、参勤交代で行ったり来たりするものだ。でも俺らは江戸にもいかず、和歌山から一歩も出ることは無い。

 そして藩士は紀州藩の意向で派遣された人間のみ。そのこと自体は、ありえなくもないが、押し並べて皆が俺の意向を無視するのは普通ではないだろう。


 葛野藩に割り当てられている部屋には、当然俺の部下しかいないが、まだ心許せる関係を築けていないから、部屋では水野と話すことはできない。自分の部下だというのに。こういうところに虚しさを感じる。


「どうしたんだ? あんな風に声をかけてくるなんて珍しいじゃないか」

「それが、その……。まだ未確認事項なものでご報告すべきか悩んだのですが。あまりにも山波政信が血相を変えて駆け込んできたものですから」


 普段の水野にはあまりない、迂遠な口籠るような話しぶり。政信は、いったい何を伝えに来たのだろうか。


「はっきりしないな。いったい何があったというのだ?」

「さくら殿がお使いに出てから戻らないそうなのです」


 さくら殿という言葉を聞いて、すうっと血の気が引く思いだった。さくら殿に良くないことが降りかかるかもしれぬという事実に俺は酷く動揺した。その動揺した自分に驚きを感じる。


 最初に屋敷を訪問した時を除き、兄の政信の妨害? もあって、ゆっくり話す機会はほとんどなかった。それでも同じ屋敷内にいるのだから顔を合わせたり、少し立ち話をしたりすることは多かった。

 むしろ男と女が町中を連れ立って歩く事すら珍しいこの時代、外で会うより自然に話せる環境は、周囲を気にせずにいられる分、二人の距離を縮める要因になったのは必然だった。


 無論、外で受ける周囲の目線より厳しい兄の目線を搔い潜る必要はあるのだが。それが二人の共通した目標達成意識になり、さらなる進展に拍車をかけることになっていたのは、政信にとって皮肉と言えるだろう。


 そのさくら殿が帰っていないという。


「状況は聞いているのか!?」

「戻らないと気が付いて半刻ほど。買い物に出て戻らぬとの事。当初は日葵殿と話し込んでいるのではと考えていたそうですが、あまりにも遅いので宮地殿の屋敷へ確認したところ……」

「日葵殿と一緒ではなかったという事か」

「さようです……」


 話を総合すると、予定の時間より帰りが遅れている分と、こちらへ報告するまでの時間を合わせると、少なくとも一刻ほどは帰ってきていない状況だ。

 立ち話には長すぎる。しかし、さくら殿は手習いの師匠をやっている事から顔が広いとも考えられる。日葵殿以外の友人と茶をしていればそのくらい遅れることもあるかもしれない。だが……。


「何事も最悪の想定をして動こう。まずは山波屋敷に赴き、状況を確認するぞ」

「はっ、かしこまりました」



「政信! 状況はどうか」


 普段あまり外に出ない政信が屋敷の門前に立ち尽くしている。


「未だ音沙汰ありません……」


 見るに堪えないほど憔悴している。あれほど愛していた妹の所在が不明なのだから当然ともいえる。俺は今さっき聞いたばかりだからまだマシだが、あと一刻、連絡も無く帰りを待つ身となれば政信と同じように憔悴した姿になるだろう。


「ひどい顔だぞ。ひとまず屋敷に入ろう」

「屋敷になど居れませぬ!」


 そうだろう。何もせず待つだけなんて辛いだけだ。

 かといってここで立っていても状況は好転しない。朝からの経緯を確認して何でもいいから手がかりを見つけねば。


「門前にいて解決するのであれば、屋敷の中にいても変わりなかろう。俺らは、状況が掴めていない。さくら殿の朝からの行動など詳しく教えてくれないか?」

「そうですね。私としたことが。門前に待ったからと言ってなんだと言うのでしょうね。ただ単に坐して待っていられなかったのでしょう」


 少し落ち着いたのか自分の事を顧みる余裕が出てきたようだ。今回はいつものように正信の部屋である離れに行かず、母家に入る。同居している母上にも話を聞きたかったからだ。


 ひとまず正信から話を聞いてみる。


「今朝から買い物に出るまでの行動や経緯を教えてくれ」

「それほど珍しいことでもないんです。私は自室に篭る事も多いので、母にも同じような質問をして状況確認はしています。まず朝起きてからですが……」


 できる限り普段通りに話そうとしているようだ。しかしかすかに語尾の震え、表面上の態度とは正反対の内面の感情を推し量る事ができた。

 政信の話は理路整然としていたが確認のため整理する。


 朝起きてからのさくら殿に特段変わった様子も無く、昨日のうちに母親から頼まれていた、お使いに出たらしい。日用品の注文だけだったから、一人で出かけたようだ。といっても日頃から供が付く事は無い。山波家では供をするような家臣や下男などいないからだ。


 そして目的地が日用品の商家という事からも分かる通り、屋敷から店までの道のりはさほど遠くではない。

 多少、道草を食ったところでここまで遅くなる事はない。それに遅くなる場合は何某かの連絡が入ると言う。

 となると、さくら殿は連絡を取れる状態にないか、伝言を預かった者が連絡できる状況ではない事になる。どちらにせよ、さくら殿自体に問題が起きているのは確実なようだ。


 色々な可能性を総合すると相当まずい事になっている。それは間違いない。

 直接さくら殿が狙われたのか、無差別なかどわかしなのかなのか、何か不味いものを目撃してしまったのか。十中八九、拐かしなのだが、その発生原因次第で方向性が全く変わってくる。


 最悪だ。どう考えても、さくら殿の身に良くない事が起きている。しかも手がかりは今の所ない。これから足取りを追うにしても、さらに時間がかかってしまうだろう。


 それで手がかりが掴めるのならば良いが。

 表情が渋くなる。水野を見れば同じような顔をしているようだ。あやつもこの状況がいかに難事か理解しているのだろう。だからといって手をこまねいているわけにはいかぬ。


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