第十三話

 宮地殿の紹介で山波政信と初めて会ってから一月ほど過ぎた。

 あれ以来、幾度となく彼の屋敷を訪れ、藩の運営に関わる政策や方針について議論を重ねてきた。

 最初は色々と問題があったが、二回目以降は順調に議論へと進んでいる。


 ここまでに話し合ってきたことといえば、まず問題点を確認、検証した。問題点を大きく分類すると、藩運営、人事評価、情報収集に分けられた。


 藩運営には、政策面に収益改善、費用意識が主題となる。

 二つ目の人事評価については、家柄主義をどこまで薄められるかと言う点が主題だ。

 そして情報収集。これは現状の紀州藩でも不足している点で最重要課題と捉えている。

 今の段階で正確な情報というのは入手できない。さらに言えば、入手した情報を評価する術もない。情報収集については無い無い尽くしであるから考えねばならぬ事が盛りだくさんだ。


 山波政信は古今東西の書を網羅し、人物評も確かで、とても頼りになるやつだ。

 世の中を斜に見る癖があるのが欠点といえば欠点だが、彼のように問題点を探り計画を策定できる人物は俺の側にいなかったから、とても助かっている。水野は、そういう話し合いになると、俺に決定権を委ねるから話し合いといった感じにはならないのだ。

 水野には他の面で助けてもらっているから、適材適所で役割分担といった所と認識している。何より水野と山波どっちを取るかと言われれば、考える間も無く水野を取る。水野には全幅の信頼が置ける。それは一緒に過ごした時間の多さなのかもしれない。理由を考えれば、他にいくつもあげられるが、彼のことを俺が兄のように思っているからだろう。血を分けた兄上は二人いるが、その二人とは比ぶべくもない。


 そうだ山波政信には、もう一つ欠点があった。大きな大きな欠点だ。


 それは初めて彼の屋敷を訪れた日の事。


 彼の住む拝領屋敷、父親の山波隆信殿がお役目柄預かっている屋敷に着くと訪いを入れた。話を通していたからか、すぐに案内された。

 案内してくれたのは、政信の兄上である勝信殿。下男はいないようだ。暮らしぶりを見ると苦労が偲ばれる。屋敷の手入れ具合や劣化具合を見れば下男を雇う余裕も無い事が見て取れた。

 確か政信は離れで暮らしていると言っていたが、この拝領屋敷では離れなんて高尚な物がありそうに見えない。

 そう思って勝信殿の後ろについて歩いていると、屋敷をぐるりと回って裏手に向かう。見えてきたのは、物置だよな。渡り廊下もない。完全に独立した小さな建物だ。確かに母屋からは離れているが、これも離れというのだろうか。

 そうこうしているうちに勝信殿は物置もとい離れの戸を叩く。


「政信、お客様をご案内したぞ」

「お通しくだされ」


 勝信殿は、戸を開け、入るよう促す目線を送ってくる。政信の声がしたから間違いないのだろうが、どうみても物置だ。まだ騙されているのではと心のどこかで考えている。

 入ってみると、さもありなん。倉庫の雰囲気が色濃く残っている。床は土間の上に素人大工で作ったような板の間。壁の二面には壁面棚が覆いつくしている。

 そして残りの壁面には土壁を無理くり穿って明かり取りとして窓を作ったようだ。これもまた、素人大工感のある突出し窓からの明かりが部屋を照らす。

 その中央に政信殿が座していた。書を読んでいたようだ。部屋には文机と布団以外は棚くらいしか見当たらない。


 その棚にあるのは竹簡だろうか。本ではなく丸めれた竹簡が壁面棚に所狭しと積まれている。ここまで多くの竹簡を見るのは初めてだ。

 離れというより物置小屋といった感じだが、よく言えば書庫といえるだろうか。政信はそこに住み着いただけといった印象を持つくらい壁面棚は部屋を圧迫している。人が座れる場所は、三畳から四畳程度ではなかろうか。


 驚きはしたものの悪く言うのは失礼だろう。彼にとっては、ここは自身の城なのだろうからな。



「竹簡がこれほどあるとは珍しいな。独立した自分の部屋があるのも良い事だ」

「誰にも邪魔されず書に没頭できる環境は何事にも変えがたいのです。これらの竹簡は私の宝です」

「失礼します。茶をお持ちしました」


 この声はさくら殿か。少し遅い時間だったので手習いも終わり在宅だったようだ。


「久しぶりだな。さくら殿」

「これは松平様でしたか。兄に来客とは珍しい事と思って、見に来たのですが、まさか松平様だったとは」


 さくら殿は、大層驚いた様子で、こちらの顔見た。会ったのは一度だけだったが覚えてくれていたようだ。


「団子屋で会ってから、それっきりだったものな。あの時、日葵殿の兄上を紹介してもらったのだが、その兄上の六右衛門殿が優秀な男がいると紹介してくれたのが政信殿だったのよ。それでこれからはこちらにお邪魔して色々相談することになった」


「では、これからは沢山お会いできますね!」

 何故か嬉しそうだ。さくら殿のようなきれいな子にこのように言われて悪い気はしない。いや、かなり嬉しい。


「そうなるな。時間も遅い事もあるし茶など出さずとも良いぞ」

「そんな訳にはいきません。それに私は、この離れの書物の匂いが好きなのです。とはいえ、我が家には紙の書物などなく全て竹簡なので竹の匂いですけどね。」


 所狭しと棚を竹簡が占めている。それだけでなく、棚に入りきらない竹簡は棚の上や床、窓の桟にまで置かれている。


「さすがにこの量の竹簡には驚いたよ」

「うちは本を買うお金どころか写本に使う紙すら用意できないほど家計が苦しいので、兄は山に竹を取りに行って自分で竹簡を作るのです。そして数えきれないほどの書を書き写し、すべてを諳んじています。兄が外出するのは珍しいんですよ。ほとんど竹を取りに行くためか本を借りに行くくらいで。あとは、ひまりちゃんのお兄様の六右衛門様に誘われて、お蕎麦を食べに行く事は稀にありますね」


 ああ、あのさくら殿にお小遣いをもらっていくやつですね。

 確かに竹ならいくらでも手に入るから紙を買うより安上がりだろう。それにしてもこれだけの数の竹簡を作るとは書物に対する情熱は凄いものだ。


「うぉっほん! お二人で盛り上がっているようですが松平様は私に会いに来たのではありませんでしたかな? まさか私をダシにしてさくらに会いに来たわけではありませんよね? さすがにそれは許しませんよ。まあ普通に来ても許しませんけどね」


 親の仇の如く俺をギロリと睨む。その目付き怖いぞ。先ほどまでの自分の部屋自慢をしていて満足そうな顔はどうした。

 下手を打つと初日から物別れになってしまいそうな雰囲気だ。しっかり否定しておかねば。


「まさかそんな訳あるまい。俺は政信に会いに来たのだ。さくら殿に会えずに帰っても政信と話し合えれば、それで満足しただろう」


「そこまで否定しなくても良いではありませんか。私はお会いできて嬉しかったですよ」

「……すまん!」


 しっかり否定したことで、さくら殿の機嫌を損ねてしまったようだ。

 しかし謝る事しかできない。下手に弁明すると、もう片方の機嫌が悪くなる。


「んん?? 何か良くない匂いがしますね。花より美しいさくらに会わずとも良いという感情は理解できませんが、まぁ良いでしょう。さくら、茶は受け取りましたから下がりなさい」


 とこんな感じで、さくら殿が顔を見せたことで、初日の相談は、なんやかんやとゴタゴタしてしまい碌に話し合いはできなかった。それは政信が妹自慢に終始したからだ。他の男に取られたくないのに、自慢を繰り返し妹の評判を上げる。一体どうしたいのだお前は。

 ちなみに、それ以降、茶は政信が母屋に取りに行くようになった。そこまでさくら殿に男を近付けたくないのかと呆れたものだった。

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