幼少期編 第三十一話

 川の増水による水害について調べていた俺たちは、手詰まり感を感じて養父上の家老 加納 政直に相談することにした。

 何となく問題の大元を見つけた気がするのだが、そこからどうして良いか皆目見当もつかないのだ。


 そこで養父上との話し合いの結果、勘定奉行支配の職務が良かろうという結論になった。


 勘定奉行は領内の治水事業も担当している。治水工事は長期かつ大規模な工事となるため、予算編成、工務管理、人員に手配など資金に関わることが大きいことが理由に挙げられる。


 そういった事情を知った俺は藩内で詳しい人がいるであろう勘定奉行支配の職務への異動を願ったのだ。


 それとは別に養父上は俺と同期といえる存在で農家出身の男を紹介してくれた。俺と気が合うだろうとの事。どんな侍なのだろうか。


 そしてここは和歌山場内、勘定奉行支配の役人達が詰める間。


「お初にお目にかかります。徳川新之助と申します」

井澤弥惣兵衛いざわ やそべえです」


 この人は、養父上が紹介してくれた男だ。担当する職務につく前に、今しかないと挨拶をしに行った。

 養父上曰く、彼は俺と同じ時期に城へ上がったらしい。とはいえ歳は二十歳ほど上で落ち着いた青年といった風情。彼は今まで会ってきた男達と違い、色白で物静かであまり喋らない。寅と正反対と言ったらわかりやすいだろうか。


 彼は勘定奉行支配の勘定方で働いている。在地で優秀さが評判になり父上に招聘されたほど。あまりにも優秀すぎて天狗に勉強を習ったのでは、と噂されたほどらしい。(現代的にいうと天狗≒宇宙人あたり)


 尋常ではない頭の良さと言う事だろう。

 勘定方では治水工事に携わっており生来の優秀さに胡座をかかず、熱心に藩務に取り組んでいるらしい。


「井澤殿は治水にもお詳しいそうですね。私も河川の増水による水害を何とかしたいと考え、視察をしてきました。宜しければ後日お話をお聞かせいただけないでしょうか」

「私の専門は農業と用水です。お役に立てぬかと存ずるが……」


「それでも井澤殿の素晴らしい見識に触れられれば望外の望みです」

「そこまで言って頂けるなら後日、拙宅へお越しください。私も実際視察をされた話を聞きたいものです」



 今回、俺が担当するのは納戸方といわれる城内の備品を調達管理する部署だ。本当は井澤殿と治水に関わる職務に携わりたかったが、治水関連の職務は扱う金額が膨大で、おいそれと新人がつけるものではないそうだ。


 井澤殿は城へ上がって数ヶ月。それなのに既に治水事業の担当ってどれだけ優秀なんだ。


 納戸方は勘定奉行支配の役人でも下っ端が担当するようで、詰めている間は少し狭くて奥まっている。

 そこには、一人の侍しかいなかった。その男はやっと来たかという表情でこちらを見た。

 俺は、待っていてくれたらしい納戸方の指導官らしき人物に挨拶をする。


「徳川新之助と申します。本日より納戸方として勤務することになりました」

谷地やち新右衛門です。不慣れな城内に知り合いがいて嬉しかったのかもしれませんが、私のところへ、いの一番に挨拶にくるべきですよ」


「申し訳ございませんでした。本日よりよろしくお願いします」

「まあ、いいでしょう。あなたには草鞋の管理発注を担当してもらいます」


「草鞋ですか。いきなり管理や発注を担当しても良いのでしょうか」

「私どもは多忙です。猫の手でも借りたいほどにね」


「そうですか。他の方々はどちらに?」

「半数は在庫の見回りと商人どもとの商談ですね。残りの半数は、あちらで別部署のお手伝いに精を出しています」


 他の部署の手伝い? 猫の手も借りたいほど忙しいのではなかったのか?

 全く理解不能な説明に谷地殿へ質問を投げかける。


「お忙しいのでしたら、他の部署のお手伝いをせず自らの職務に励んではならぬのですか?」

「馬鹿おっしゃいますな! 納戸方風情の仕事と他の皆様の仕事、同列にするなんて失礼です!」


 谷地殿は、やけに声を張ってこちらの質問を打ち消す。どうやら他の部署の方への意思表明のダシに使われたようだ。


 そして何より、紀州藩における納戸方の地位が途轍もなく低い事を何となく察してしまった。

 そこで確認のため小声で裏を取る。


「もしや他の部署のお手伝いをして自分の能力をアピールするのが狙いですか?」

「なんだ。わかっているではありませんか。そうですよ。顔を売ることで、より人気の部署へ引き抜いてもらうためにお手伝いに精を出しているのです」


 わかりたくはないが、実情はそうなってしまっているようだ。そしてその実情のせいで、いきなり担当を割り振られてしまった。

 不承不承、納得の表情を作ると谷地殿は、これで話が終わったと席を立とうとする。


 百歩譲って担当するのは良いが、今回はしっかり内容を指導していただかねば。


「草鞋を担当することはわかりました。せめて場所と用向きをお教えいただけませんか?」

「納戸方が用意する草鞋なんぞ参勤交代の旅路に使う分ぐらいですよ。簡単な事でしょう」


 ちょっと待ってくれ。参勤交代で使用する備品をいきなり担当するのか。全くもって知識がないのに何をどう用意すればいいんだ。


ここで谷地殿を逃すわけにはいかない。何が何でも説明してもらわねば。


「いきなり参勤交代の備品の担当ですか?荷が重すぎます」

「なによ、腰抜けね。参勤交代の予算は藩の年収の一割、約一万三千両よ。草鞋なんて、どうやったって五百両くらいなもんよ。数さえそろっていれば、金額に多少誤差があったところで大したことではないわ」


 五百両か。充分大金だな。紀州では、慎ましやかに暮らせば、五十世帯が一年は生きていける。そう考えると参勤交代の費用はとんでもないな。


 藩の収入は九割残るとはいえ、大半は家臣たちの俸給に使われるはずだし、参勤交代で向かう先の江戸藩邸で使用される費用なんかもかかると考えると、うちの藩は、そんなザルの様な金を取り扱いをしていて良いものなのだろうか。


 全体のことはわからないが、伊澤殿のような優秀な方もいらっしゃるのだから大丈夫なんだろう。

 俺は俺で無駄遣いしないようにすればよいのだ。


 後は聞いておくことは何だ?いきなりすぎて確認すべき事が有りすぎるが思いつかない。


「納戸方では、どこの商家と懇意なのですか?」

「うちは尾藤屋かしらね。あそこに任せておけば大丈夫よ」


なんだかんだ説明が好きなのかな。聞けば教えてくれて助かる。


「ありがとうございます。あと、帰国時に用意して余った草鞋はどこに保管しているのですか?」

「そんなもんないわよ。来年使う頃には傷んでしまうから廃棄に決まってるじゃない。もういいわね? あとは尾藤屋にでも聞きなさい」


 結局は説明より他部署へのお手伝いを選択したらしい。あまりの発言に茫然としていると、谷地殿は声をかける間もなく、立ち上がり他の部署のお手伝いへ向かってしまった。

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