幼少期編 第二十話
◇◇加納政直 視点
これはなかなかの出来だな。新之助殿の上申書を読んで思わず呟いてしまった。家老という立場から軽々に自分の意見を言わぬよう心掛けていたにも関わらず。
それとも親の欲目というやつかの。
それを差し引いても、この上申書は良くできておる。確かにこの通りになれば利点が大きい。
これを発案した新之助殿の才か、はたまた師匠格の黒川甚助という代官の力なのか。どちらにせよ、黒川甚助という男について調べておかねばなるまいて。英邁な殿であらせられるから、新之助殿だけの考えでないことは見破ろう。
その時に説明できねば家老としては失格じゃ。紀州藩の家老職と言えば五十五万五千石の大藩。その政治を取り仕切るのが家老衆である。政治の世界に身を置く者として、下調べも碌にできず発言する者は無能を意味するのだからな。
そうじゃ、新之助殿にちょっかいを出す者についても調べておかねば。
新之助殿から上申書を預かってから一月近く経ったであろうか。折よく殿と二人きりで面談する機会があったので上申書を渡した。もちろん上申書という上書きのされた包み紙は破棄し、新之助殿の名が入った部分も切り捨ててある。
政治における足の引っ張り合いは厄介じゃ。どこにでも目と耳がある。用心に越したことはない。
「殿、面白き投書があり申した」
「どうした、さほど余計な話をしない加納にしては珍しいな」
「かつて某の屋敷に居た若さ溢れる男が世の不合理を嘆き、投書を差し入れていったようです」
「ほう、屋敷を出た男が未だそちを頼ったか」
「ええ、わだかまりは解けたようですが中々甘えてくれませんでした。この度の件はたいそう驚きました」
「そのわだかまりには、儂の方に非があるのだがな。しかしこんな事を言っていても仕方あるまい。で、どんな事を言っているのだ?」
「詳しくはこちらに。どうやら、天狗のごとく空より眺め領内の有田郡辺りを見回してきたようですな」
「そうか、奇特な天狗もいるものだ。読ませてもらおう」
「…………」
「いかがですかな?某は良い出来だと思いまするが」
「確かにあの年齢でここまでの物を仕上げてくるとはな。して、誰の差し金じゃ?」
「発露はご本人からのようです。しかし師とも仰ぐ者と出会えたそうで、その者の補佐が大きいようです」
打てば響くような会話。少々言葉を端折っても通じ合う。
軽妙な会話は主従として長きにわたる付き合いから生まれるものだ。多少の諧謔も許されるというもの。そういう特別感はいくつになっても堪らぬ。
「その者にはそれとなく褒美を出しておけ。肝心の中身は……書物としては面白いが実行は難しかろう」
「そうですかな?」
「惚けおって、おぬしもわかっておろう?」
「親の欲目という物でしょうかな」
「それは儂も持っておるよ。それを差し引いても新之助の上申は理想論じゃ。穴が多すぎる。そもそも想定の収穫というが、不作でその基準すら見込めない場合どうするのか、職務を減らされる代官や手代連中の不満をどうするのか。最低でもその辺りまで煮詰めなければ検討にも値せん」
「確かに。今の殿のお立場でも、このままでは断行できますまい」
「儂は歳を取りすぎた。今からこんな難事に取り組む気力は無い」
確かに殿はお歳を召していらっしゃるが、まだまだ我らを引っ張っていただきたい。
殿は新たな法令を敷きつつも、治水などにも熱心で民の生活を守るため善政を行っている。だから民にも慕われておる。
殿のように英邁でお優しい方にお仕えできたことは侍冥利に尽きよう。そんな殿だからこそ新之助殿を育てるというお役目も受けたのだ。
儂は、この話は終わりだと告げるように、話題を変えるように話しかけた。
「それにしても新之助殿は
「あれほど出来が良いのであれば、いずれ分家として家を立てさせても良いかもしれぬな」
「それは喜ばれましょう。新之助殿の才格は、上に立って輝くもの。しかしどうやら新之助殿を妬ましく思っているものがおるようです」
「ああ、萩を上に頂く国家老の派閥であろう。新之助が奥に来た初日に萩と揉めたようだ。萩は気位が高い。おそらく由利への矛先が新之助にも向かってしまったのだろう」
お萩の方様と於由利の方様は決定的に仲が悪い。実際のところ、お萩の方様が一方的に嫌っているだけなのであるが、国家老を抱え込んでいるお萩の方様に於由利の方様が何ができようか。
於由利の方様が殿の寵を得た段階で既に決裂することが定まったといっても過言ではないのだから。
どうにもならぬとは思いながら、縋るように聞いてしまった。
「どうにかならぬものでしょうか」
「難しいな。あれはあれで儂に尽くしてくれる。嫡子の綱教を大事にしているのも生母である以上、当然だ。綱教が嫡子であることを変える気もないしな」
殿は誰かに聞かせるように宣言なされた。おそらく、お萩の方様の耳に入ることを想定して、ガス抜きを促す意図なのではないだろうか。これでいくらか新之助殿への風当たりが弱まるとよいのじゃが。
「話は以上か? さすがに天狗殿には褒美はやれぬが、この先の希望は叶えてやれ。そうそう、最近城内にも天狗に勉強を教わったと噂のある男を雇い入れたぞ。その男に引き合わせてやれば気が合うやもしれぬ」
「かしこまりました。そのように対応いたしまする」
殿との面談は終わった。大方、予想通りの展開になった。新之助殿には悪いが致し方あるまい。儂が殿でも取り上げぬであろう。褒美代わりの天狗に勉強を習った男を紹介か。
そのような噂が出るとは変わり者じゃが優秀そうだな。変わり者同士、気が合うとよいのじゃが。
新之助殿はまともに語り合える友が少ない。これが良い機会となることを祈るのみじゃ。
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