幼少期編 第十八話

 和歌山城下へ戻ってきた。黒川殿に助言をもらいながら作成した上申書を携えて。


 内容はもちろん検見法の問題点と新たな租税法について。この上申書は養父上である家老の加納政直かのうまさなおに提出することにした。


 黒幕は定かではないが、俺自身への政治的な圧力のようなものがある以上、相応の役職者である必要があり、それを満たす人物は養父上しかいなかったからだ。


 藩主である父上にとも考えたが、実務を取り仕切るのは家老衆であるから彼らを飛び越して上申したとして結局は彼らに委ねられることになるからだ。

 本音を言えば、直接父上に訴えるのはズルをしているように感じてしまい、それを選べなかっただけである。


 が、その前にお役目の復命に行かねばならぬ。上申書を早く提出したい気持ちが心を占めるが自制する。


 城下で水野と別れ、俺は二ノ丸屋敷へ向かう。水野は旅装を解いた後、養父上の屋敷へ行き、今夜時間をもらいたいと伝えに行ってもらっている。


 養父上も執務中であろうが、郡代見習の俺がいきなり訪れるわけにもいかぬ。私的な訪問として加納屋敷に訪れることにした。それは、未だ顔の見えぬ黒幕、俺に何かしらの悪意を持つ者がいる以上、内々に事を進めたいからだ。


 ただでさえ内容的に厳しいであろうことは予測できるから万難を排除して臨みたい。



 二ノ丸屋敷の表(藩庁にあたる場)にある郡代の詰める間。この廊下を進むと、もうすぐだ。ここまで来ると母上にも会いたくなってきた。いかん。


「失礼いたす。郡代見習 徳川新之助入ります」


 中を見ると、少し薄暗い部屋で数人が机に向かって書き物をしていた。代官からの報告書であろう書類が、そこかしこに山積みとなっている。


 一番ひどいのが入り口手前の机、宮川殿のところのようだ。面白いことに、奥へ進むごとに書類の山は小さくなっている。


 一番奥は郡代古参の藤堂殿。ひときわ書類の山が小さい。一人だけ詩でも書いているような趣だ。誰もが忙しいはずなのに不思議なものだ。ともかく、田野の件は藤堂殿に相談するつもりだったのでいてくれて助かった。


「おう、戻ったか。郡代の仕事の大変さがわかったか! おぬしの足では移動だけで難儀したであろうなぁ。かといって物見遊山に行った訳ではあるまいし、仕事なのだから、なんか見つけてきたんだろうな?」


 とニヤニヤしながら一際大きな書類の山のヌシが声をかけてきた。宮川殿の様子を見れば、視察に行かずとも郡代の仕事の大変さを体現しているように思えるが。


「はっ、後ほどまとめた書類を提出いたします」


 宮川殿は、また書類が増えるのかと嫌な顔をしたが、こればかりは致し方ない。しっかり山の高さを積み増しておこう。宮川殿との会話をサラッと終わらせ古参の藤堂殿へ帰着の挨拶をする。


「郡代見習、徳川新之助です。只今、視察より戻りました」

「ご苦労でした。報告には、すでに書類をまとめられているのですね」

「はい、宮川殿に提出しましたので、明日の朝にはお手元に回ってくるでしょう」


 宮川殿への仕返しとばかりに、勝手に期日を切ってやった。大変だろうが仕事なのだから頑張ってくれと言いたい。


「ふふ、そうですか。楽しみにしております」


 藤堂殿もわかっていて周りに聞こえるように応じた。宮川殿は顔でも引きつらせているだろうか、はたまた睨んでいるだろうか。俺は背を向けているのでわからない。が振り向く気はない。


「それとは別件で報告と相談がありまして、少しお時間を頂きたいのですが……」

「構いません。私も少し外の空気を吸いたいと思っていましたので休憩がてらお話を聞きましょう」


 俺が話し辛い様子を察したかのように席を立った。

 出立前に呼び止められた部屋へ移動すると藤堂殿が口を開いた。


「ここなら大丈夫でしょう。どうされたのです?」

「ありがとうございます。まずはこちらをお返ししたく」


 出立するときに預かった巾着を返した。使ったのは、飯代くらいで、ほとんど残っている。田野のせいで野村では多めに支払ったが、それでも結構余ってしまった。


「これは?」

「? お預かりしていた銭です。使わずに余ったものをお返します。それとも使途の明細もお付けしてからの方が良かったでしょうか?」


「いえいえ、大概のものは、そのまま懐に入れてしまいますよ。大変な視察の旅をするので、その役得といったところでしょうか」

「それは考えてもみませんでした」


「まえ、良いでしょう。その方が正しいのですから。お話というのはこれのことですか?」

「いえ、実は野村という村を訪ねた時のことです。そこの代官の田野通利たのみちとしという者の所業について、申し上げたき事が」


「田野何某がどうしましたか?」


「実は…………」と野村での顛末を藤堂殿に話した。

 できる限り私情は省き客観的に伝えたのだが、藤堂殿はというと、


「その程度の話はよく聞くことでありますな」

「その程度とは! 藤堂殿、それはあんまりです。村人は困っていました。なんとかならぬのですか」


「何とかといわれても……そのような事、代官連中は心当たりがありすぎて、厳粛に対応でもしたら大半の代官を罷免せざるを得ないでしょう。代官は下僚とはいえ武士ですから、現実的にそこまでのことはできませぬ」


「そんな事が罷り通る世の中でよいのですか」

「良いとは思わぬが世の中はそれで回っておる。それを止めようとすれば大きな反動が出てしまうでしょう。今まで大ごとにならずにこれたのですから、このままでよいのではありませぬか?」


「そんな……」


 しっかりと話を聞いてくれる藤堂殿は、宮川とは違い話の分かる人物だと思っていたし、自らが矢面に立たずとも、何かしらの助言をもらえるのではと考えていたので、ひどくがっかりした。


 となると、どうすれば良いかと思案していると、父上なら何とかしてくれるのでは、と思いつき居ても立っても居られず、踵を返して歩きだしていた。


「おそらく御父上に話されても変わりませぬぞ」


 そう投げかけられた声を背中で聞き、足を止めるほど素直に聞き入れられずその場を離れるのだった。


 素直に返事をすることはできなかった俺だが、さすがにこんな内容で父上の所に乗り込むわけにはいかぬ。というくらいは頭で理解できた。せめて今夜会う予定の養父上には伝えねばと考えを改めたのだった。

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