幼少期編 第九話
◇◇◇お萩の方 視点
奥の序列を軽視し、礼儀も弁えぬ憎たらしさ、武士にあるまじき感情のまま行動する有様、どれをとっても許しがたい。
先日の対面した際のやり取りを思い返すだけで腸が煮えくり返る。
下賤な女から生まれたのだから、素直に辞を低くして、下に付けば良いものを妾に口答えするばかりか暴力を振るおうとするなど言語道断じゃ。
このまま引き下がっては、この奥を仕切る妾の沽券に関わる。
幸い、紀州の領地であれば湯浅の影響力が大きい。あやつはこれから藩内の色々な部署で使いっ走りになるようであるから、足を引っ張り無能の烙印を押してやろう。
そして妾に頼らねば仕事が回らぬ事を理解させるのだ。
ひいては我が子 綱教との立場も明確になり変な気を起こすこともなかろう。
とはいえ、妾であっても奥からは自由に出入りできぬ身。となれば国家老の久野に下知しておけば、そのあたりのことをうまくやってくれるであろうの。
しっかりと妾の力の差を見せつけ頭を垂れさせてやるわ。
「誰かある、お初はおらぬか!」
「はい、只今……、御前に参りましてございまする」
「お初よ、主の父に話がある。妾が呼んでおると伝えよ」
「かしこまりました。早々に父に申し伝えます。父が参ります場所は、いつもの所でよろしいでしょうか?」
「それで良い。それと下がる前に、誰ぞ墨を擦らせておけ」
とりあえず、小僧への意趣返しはこれで良いか。あの下賤な女は癪に触るが大して害はない。三男の長七を生んだ須磨の方は妾と同じ湯浅の流れをくむ者、奥の序列も理解しておるし、こちらの邪魔はすまい。
全くあの小僧が来たせいで奥の平穏が揺らいでしまったわ。
次男の次郎吉が死んだのには驚いたが、これで奥の体制は元通りになるはずじゃ。
お初が下がった後、文机に向かい文を認める準備をする。
この文机も国家老の久野に用意させたものだ。京の漆職人が漆と金をふんだんに使い、脚には螺鈿をあしらった物で大層良い出来じゃ。金のことは知らぬ。妾が欲すれば用意させるそれだけのこと。
「誰かある、墨を持ってまいれ」
さてどのような文面にするか。少しの間、思案したが悩むのが億劫になり、気の向くままに書き連ねる。
文面にこだわらないのは、自分が上位者と認識しているから。役職としては領地のトップである国家老に対してもこのような態度でいられるのは訳がある。
主君である夫は、参勤交代があり国元を不在にする期間も長いので必然、居残り組が力を持つことになる。
そもそも藩祖頼宣様がお連れになった家臣団以外の中級・下級武士は土着していた現地の侍が雇用されている。となればその勢力は必然と多数派になり上級武士共も無視できぬ集団となっている。
しかも実際の実務を担当するのは中級・下級武士なのだから至極当然のことと言える。
「妾はこの地で古くから高貴な血筋。家臣の大抵の家にも湯浅の血が混じっているが妾ほど上り詰めたものはおらぬ。仕官を望むもの、出世を望むもの、はたまた城で使う備品の商談に関わる事まで妾を頼ってくる。何とも心地の良いものじゃ」
「……この館の秩序のため、異端分子は取り除かねば」
国家老の久野に宛てて進之介が、いかに愚かで非常識極まりない小僧かと書き連ね、職務を妨害し貶め、自らの行いを後悔させるよう促し、妾の力を見せつけよと締めくくった。
文面の最後の方は感情が高ぶり、字が乱れてしまった。
「妾としたことがみっともない文を書いてしもうた」
書き直すか……。まあ良いじゃろ。久野風情に渡す程度の文であるし、妾の自筆の文であるというだけでありがたがるであろう。
しかしこれだけでは味気ないか。つい先日、京友禅を差し入れさせたばかりだしの。少々香の匂いでも付けておけば、妾の魅力と心配りに感じ入り、泣いて喜ぶに違いない。飼い犬にも少しは褒美をやらんとな。
明くる日、二ノ丸御殿の庭を散策する形を取り、外に出る。
奥には男は出入りできぬが、庭園に出れば庭番(庭園の管理や清掃を行う役職)の者がおる。庭番がいた所で風景と変わらぬ。
当然、妾がそのような下賤なものと口を利くことなどない。そのようなことは考えるだけで恐ろしい。
妾は池を眺め、花を愛で、いつものコースで散策する。そしてとある場所で昨晩、認め小さく折り畳んでいた文を、素知らぬ様子で下に落とす。そして何事もなかったかのようにゆっくりと散策を続けるのだ。
「恐れながら、お付きの方に申し上げます。お方様が懐紙を落とされたようでございます」
「これは林様、ありがとうございます。お方様、庭番の者があのように申しておりますが、いかが致しまするか?」
「それはゴミじゃ。いつものように捨てておくよう伝えよ」
「かしこまりました。林様、それはお方様には不要のものにて、いつものように捨てておくようにとのお言葉です」
「はっ、御意のままに」
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