幼少期編 第六話
人の憎しみという感情は、いつまで燃え盛っていられるのだろうか。
日課の日記を付けながら考えてしまう。この日記を付け始めて、もう二月にもなる。
そう、事の起こりは、日記の書き始めた最初のころの出来事だ。
あの日、何より強く記憶に残っているのは母上に会えたことが何より嬉しかったという事。しかし、その対面した場所での騒動がそもそもの始まりであった。
当時、俺はとても興奮していてやっと母上に会えるという事しか考えていなかった。
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、廊下を力強く踏みしめる音が重なる。
大人より軽めの音とさらに軽めな足音。何やら言い争うような声も聞こえる。
実父上との対面を終えた後、俺は水野に案内をさせ生母 於由利の方の部屋へ向かっていた。
「次はどっちだ?」
「左でございます。が、まずは先触れを。ご都合をお伺いせねば」
「そんなまどろっこしいことは良い! 母上もきっとお待ちのはずだ」
「お待ちください! 何より養父上であられる加納様へのご挨拶も碌にしていないではありませぬか」
「そんな事いつでもできる!」
「そんな事ではありませぬ! それに於由利の方より先にご挨拶されるべきお方様達(光貞の側室達)がいらっしゃいます。まずは長兄 綱教様のご生母 お萩の方様、三兄 長七様のご生母 お須磨の方様には先にご挨拶に伺わねば筋が通りませぬ。」
「後で行けば良かろう! まずは母上に会いたいのだ」
「何事ですか?」
と、突き当りの部屋の襖が開き女性の誰何する声がした。
「お騒がせして申し訳ございませぬ、お
俺はその言葉を聞いて走り出していた。もしかしたら誰何してきた女性が母上かと身構えたが水野の言葉で違うと悟った。悟ったら走っていた。この先に母上がいると理解したから。
足元がふわふわして転びそうになる。部屋までの3間(1間=1.8m程度)がとても遠く感じた。
「きゃっ」
部屋に入る際にお付きの侍女にぶつかった気がしたが、そんなこと気にも留めなかった。
目に入ったのは、部屋の奥に嫋やかに座る女性。少し瘦せていて化粧っ気が少ない。顔立ちは整っているが派手さはなく優しそうな表情をしているなという印象。どちらかというと地味な印象な女性だった。
この方が俺の母上なのか。主の人柄か落ち着いた雰囲気の部屋。しかしその主の部屋は薄暗く少しジメジメしていた、調度もあまりなく質素な暮らしぶりが見て取れる。
俺の知っている屋敷は家老の加納家の屋敷とここ二ノ丸御殿くらいだが、加納の養母上の部屋のほうが広く、作りの良い調度も揃っていたように思う。
実際、母上との対面を果たすと言葉は出ず、まじまじと部屋を眺めてしまっていた。
「他に侍女はおらず、日頃よりお秀頼みなのです。優しくしてあげてくださいね」
母上は、俺が誰かはよくわかっていない様子であったが、部屋に立ち入ったことを咎めるよりも侍女への心遣いの言葉を投げかけた。
「私は! 徳川新之助です! こちらは父上が付けてくれた水野です」
「水野知成と申します。お方様、突然の訪問申し訳ございませぬ」
とっさに出た言葉は自分の名であった。母上は知るはずもない先ほど父上から賜った名。そしてなぜか水野を紹介していた。もっと言うべき言葉があるはずなのに。
「これはこれは。由利と申します。私は無学ゆえ大変失礼かと思いまするが、徳川様とはどちらのお家でしょうか?それに水野様といえば……」
(……母上は俺が誰だかまだ分かってくれていないのか)
俺が答えない様子を見て水野が母上の質問に答える。
「附家老の水野家ではなく、太郎作家の水野知義が庶子でございます。七つの頃より殿の小姓となり早三年、この度、殿の命にて四男 新之助様付きとなりましてございまする」
「殿の御小姓でしたか。四男とは、もしや……」
母上と話したい気持ちは溢れんばかりであるのに何と言って良いかわからず黙っているしかなかった。会話に入れずにいたところ、水野がさりげなく俺の存在を伝えてくれた。水野の心遣いに感謝しつつ既に意識は母上の方に戻っていた。
「母上の子、源六です。今は父上より新之助という名を頂戴しました。お会いしとうございました!」
やっとのことで自分が誰か伝えられたタイミングで、侍女のお秀が声をあげた。
「お待ちください! 主は客を迎えております」
「侍女風情が妾に命じるのかえ」
豪華な打掛を羽織った女が入ってくる。後ろにはぞろぞろと侍女が控えている。
高慢な女だな。この女に感じた俺の第一印象はこれだった。
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