幼少期編
幼少期編 第一話
春先の少し強い日差しを川岸の柳が弱めてくれる。川から冷えた心地よい風がささくれた心を癒してくれるようだ。
加納屋敷は俺の心をささくれ立たせる。あの屋敷に居ない方が、使用人たちも余計な事に煩わせることもないだろうし、俺も気が楽だ。
実際、さほど面倒を見られたこともない。加納屋敷で会話するのは養父上とひとりの下男くらいだ。飯だって自分の部屋で一人で食う。部屋まで持ってきてくれるのは仲の良い下男くらい。そいつが忙しければ他の物が持ってくるが、廊下において声もかけてこない。顔も見たくないという事なんだろうと理解している。
加納屋敷にいても、誰とも話をしない日も珍しくはない。養父上は家老職という藩でも重職を担っていて忙しい人だ。下男のあいつだって俺と仲良くしているから、他の下男や使用人から煙たがられていて、仕事の割り振りでも割を食っているようだ。
最初に気が付いたときは腹が立って文句を言ってやろうと思ったが言わなかった。
ふと考えてみると俺が言う事で、さらに悪化するだろうと気が付いてしまったからだ。
それほどに俺は加納屋敷の人間に好かれていない。養母上などは正月に挨拶をするくらいしか顔を見た記憶がない。
今、俺は紀ノ川に沿って走る大和街道の川岸の堤に腰を下ろしている。
この柳が植えられた堤防は柳堤といわれ、大和街道の一部でもある。大和街道に沿って流れる紀ノ川の氾濫を抑えるため御爺様が工事を命じたらしい。
らしいといったのは、養父上に聞いたにすぎないから。御爺様に直に会ったことはない。御爺様どころではない、実の父親にも会ったことがない。
今の親というか育ての父親である加納政直は紀州藩の家老だ。
紀州藩は親藩で55万5千石(1石は人が一人で1年間食べる量)、諸大名の中でも格式が高く石高も大きい。
その中で加納家は上から数えて四番目くらいの席次になる。
そう聞くとさぞや良い暮らしをと思われるだろうが、加納屋敷では、腫れ物に触るような周囲の態度に馴染めず、家にいる気になれない。
だから柳堤にいるというわけだ。
そもそも大人たちは俺を阿呆だと思っているのだろうか。
ひそひそと内緒話や陰口をしているつもりだろうが、話は聞こえるし、五歳児とはいえ、それなりに意味も理解できる。
「源六様ったら昨日もほっつき歩いて帰ってこなかったらしいわよ」
「よく河原で悪たれ坊主どもとつるんでいるみたいだから、それじゃないかしら」
「いくらお殿様の御胤とはいえ、もう少し手習いをやらせるべきじゃない?」
「あんな暴れん坊が手習いでおとなしく座っているなんて想像がつかないけどね」
といった感じだ。
心にもない言葉や笑みで子供は騙せると思っているだろうが、それだってわかる。
自分が子供のころ気が付かなかったのだろうか、もしくはその頃のことを忘れてしまっているのだろうか。
そんな益体もない考えが取り留めもなく浮かんでは消え浮かんでは消えていく。
「やはりここでしたか、ぼっちゃん」
どうやらお迎えが来たようだ。この男は屋敷の下男で日吉という。
下男というのは武士ではない。では何かというと武家屋敷で雇われた平民なのである。彼らの役割は屋敷の掃除をしたり水汲みをしたりと雑用をこなす仕事をする。
迎えに来た日吉は養父の領地の農家の三男坊で学はないが、真面目にお役目をこなし穏やかな性格だ。
身分差はあれど、周囲のうわさなどに惑わされず、人を色眼鏡で見ないでくれている。生まれの複雑さなどを気にせず、俺をひとりの人間として接してくれるので、俺にとって心許せる数少ない人物である。
俺が屋敷の者の言葉を碌に聞かないので、日吉は下男の仕事だけでなく、目付け役の仕事も押し付けられたような扱いを受けている。
実際のところ日吉の目を盗んで屋敷を脱出しているので、目付け役というより連絡要員か回収要員といった意味合いのほうが近い気がするが。
「さて、今回のお呼び出しは何であろうな?」
「さあ、私はお呼びするようにと言付かっただけですので。ともかくお急ぎのようでしたのでご一緒に戻りましょう」
「それなら仕方ない。あの口さがない者たちのいる加納屋敷に戻ろうか」
「そんな。皆様、お役目熱心な方ばかりですよ」
日吉はいつもこんな感じだ。出しゃばらず過不足なく悪口も言わない。
もう少し深く話せたら友達になれるんじゃないかって思うのだけれど、日吉は決して使用人としての立ち位置を忘れることはない。
物足らなくも気の置けない仲特有の心地よい会話をしつつ、碌でもないであろう要件のお呼び出しのため、加納屋敷に戻る事にしたのであった。
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