第9話 半裂
構わないわ。逆らえば喰べちゃうから。
それは本心でもあったし、予め思案していた事でもあった。
「食べるって?」
甘利助教はその表層の理解までも到達はしていなかったし、あるいは男女の道の事とでも勘違いして、声に色が乗っている。
それにしても石女尼、なかなかやる。
先刻の猿鬼の襲撃は、私の能力を秤りにきたのだと思う。というのも、私も何故この人間を伴っているかというと、同様に餌にして石女尼の力を推し量るつもりでもあったからだ。
もし奴に喰われそうであれば先手を打つまで。
先に喰べてしまえば、この男の現時点までの知識を手に入れることができる。しかし使い捨ては、惜しくなった。私が先導をしてあげれば、もっと精度の高い望月千代女の類歴が得られそうだし、母の存在さえも炙り出せそうだ。
さらに武道の心得もあれば、こちらの手数も割かずに済む。この男は自力でこの城跡から生還出来る能力を持っていそうだ。
「敵なのか、あれは」
「石女尼よ、貴方が教えてくれたでしょう」
「馬鹿な!戦国期の話だ」
「私もよ。寛文の生まれ。昔語りをしてみましょうか」
肩を大きく揺らせて狼狽する。そう彼は信じる以外に道はない。
「雪女の裸はさっき見せてあげたわよね。冥土語りには充分なものよ。全く高くついたものね」と小声で笑って見せた。
葉を落としきった雑木林を歩んでいくが、様相にきな臭いものを感じた。尾根のように細道の両側が斜めに削られている。
彼がヘッドランプを向けると、灌木の枝が、鋒をこちらに向けて帯状に突き立っている。全ての枝が尖り、鋭い牙を剥いている。ここに滑り落ちでもしたら只では済まない。内臓や太腿を貫通されたら失血死が待っている。
「逆茂木だ。いけない,次は」と助教は私を抱き抱えるようにして、頭を伏せさせた。その耳朶の側を、左右から渦を巻いた突風が掠めていく。両岸から弓を射掛けられている。
大きな手が弾かれたように離れていく。液体窒素の衣で、指先に疼痛を覚えた筈だ。衣でよかった、直に触れたら凍傷どころではない。それが雪女の白肌よ。
「横矢掛りの伏兵がいる。この城はまだ生きてる!」
「弓手は猿鬼ではないわね」
猿の指では構造的に弓を引けない。関節構造と母子球筋の構造が違って、親指が独立して動かないからだ。つまり細い弦を摘んで引くことができない。
「人間なのか」
「もと、ね。亡霊なのよ。戦国の代からの」
この罠もかつての智慧の結集だ。つまり逃げ場のない尾根筋に晒され、両翼から横矢を十文字で撃たれている。下手を打って駆け出したら滑落して、逆茂木に縫い止められる。
ふふ。
追い込むわね。
ここに拠点を置いて、長距離で仕留めていくのがいい算段だろう。防御目的の簡易的な曲輪を作ろう。
「ここに壁を立てておくわね。このまま臥せていて」
地表からめきめきと、四方に氷壁を伸ばしていく。厚みは1尺もあればいいだろう。彼らの矢では撃ち抜けまい。
「あんなのも亡霊なのか?」
「亡霊っていうのはね、生きている雷なのよ。生命の意識は、神経系が司るわ。その神経系は微弱電気で意思を伝えるの。つまり意識は電子的な存在、それが怨念や恨みなどの強い意識が滞留して、磁場層とか静電気に宿って実体化するの」
氷壁にがつんがつんと衝撃がくる。
「これは」
「本物の矢ではないの。自らの雷撃を切り分けて撃ってくる。いずれ蓄電量が不足して、亡霊の姿も保てなくなる。ここに籠っているだけでも、充分に兵糧攻めになっているのよ。それに連中は記憶に残る武器しか使えない」
さてと。
「そろそろ討って出るわ。連中の頭目でも喰べてくる」と私は身を起した。
「危なくないか?」
「ここにいても何も掴めない。こちらの手札を晒していくばかりよ。それに・・
私の身の心配ならいらないわ」
頭髪が蛇の鎌首のように持ち上がっていく。
おそらくは凄絶な笑みを浮かべているだろう。
「種子島はあると思う?」
「寄手次第だな。真田方なら持ってる。東条方なら恐らく持っていまい。旗印は見えるか?」
私は夜目を凝らしたが、雲を呼ぶ風で月が隠されている。
現代の人間よりも夜目は効くが、両岸の逆茂木の上方に、敵方の段違い曲輪があることしか見えない。ヘッドランプの光を当ててみるが、旗刺しものの類はない。敵も這いつくばり、息を凝らしているに相違ない。
氷壁を跨いで、歩み出す。
霧絹を翻して、寄り切る。
雷撃を砕いて、踏み抜く。
その姿に、左右から投げ槍が投擲される。
しかもそれが肉を砕き、ずぶりと貫通する音がする。それが一合、二合と続く。声を押し殺した悲嘆の声が遠くでする。甘利助教の声だろう。
ふふふ。
かかったわね。
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