第7話 半裂
ノックの音がした。
私はさっとホテルのベッドから立ち上がり、ドアを開いて彼を招いた。
「すみません。こんな時間にお呼びだてして」
「いえ。構いません。何か急用かと伺いまして、そのままこちらに参りました」
甘利助教は、昨日会った時のままの服装だった。誠に無粋で、無頓着で申し分ない。これがもう少しの時間の余裕があれば、きっと一丁羅のスーツでめかし込んでくるだろう。
私からの、今晩どうしても貴方だけに相談があるの、に抗えない男性はそう居ない。
対して私の様相は、ざっくりと胸元の開いた深紅のドレスなどではなくて。ベルクロで足首を締めた黒パンツに厚手の橙色のパーカー、カーキ色のサファリハットに黒髪を納めていて、今にも山に入っていきそうな風態だった。
いや、実際にそうするつもりなんだけど。
「実はこんな時間に申し訳ないとは思いますが、尼巌城の馬待曲輪、そう問題の古井戸まで登りたいのです。宜しければガイドをお願いします」
「この時間からですか!現地までは夜の山中です。案内は可能ですがニ時間は見て頂かないと。そうなると深夜の一時を回るかと」
「構いません」
「ただ午前中にはお祓いを済ませていると聞いています」
「あれでは祓えてません、私の姪の命に関わります。是非ともお願いします」
声に、色を忍ばせる。眼にも潤みを持たせる。はあ、と甘く吐息を漏らしてみた。大きく冠を振る彼をみて、罹ったと思った。
びょうびょうと木立が風に唸っている。
山に蓋をするかのように、曇天が覆っている。
月が厚い雲から朧に見えているのが幸いだった。
剃刀を当てたように、寒風の鋭さがあった。ヘッドランプの光軸には、行手に交差した枝が織り成して、闖入者を阻んでいるのが切取られて見える。その障壁を甘利助教は全身で受け止めている。山刀を右手に持ち、見事な手際で枝を打ち、幹を払い路を拓いていく。
彼は拾い物かもしれない。
山育ちの私にこんな奉仕はしなくたって。足場が悪くとも足裏の地表を凍結しながら歩むので、落ち葉溜まりに滑ることもなく、しっかりと踏みつけてられる。雪女の小技のひとつだ。
雪女とはいえ空は飛べない。
登山口までは彼の軽ジムニーで向かった。乱雑に物が転がっているかと思ったが、キチンと整頓されていて驚いた。
そして彼は山に登る前に、トランクの道具箱から山刀と発火装備と、コンパクトな寝袋を選び、ディパックに詰めていた。
深夜ではあるが、鳥の警戒音の囀りや、小動物が跳ねていく音がする。
その枝に燐光のような光を灯して、黒々とした影が、葉を散らした後の枝に留まっている。生い茂る枝の影で何匹いるのか検討もつかない。
「チッ、猿がいる」
ほう、ほうと威嚇の啼き声がする。
「連中は見かけによらず、凶暴なんです。ちょっと待ってください」
ディパックから発煙筒を出して、甘利助教は火を付けた。薄暗がりに赤紫の煙を引いて、目にも眩しい火花が噴き出した。そして彼は、うっと呻いた。
それは猿ではなかった。
猿球であった。
寒さを防ぐために集団になって塊になっている様子ではない。
それぞれの肉体が絡み合って、球体となった巨大な塊から数十本の手足が生えている。肉玉に埋もれた首もまともに生えているものから、斜めに露出している不完全なものもある。その全ての目が血走って、赤い口中から乱杭歯の牙を剥き出し、轟々と敵意で染め上げて吠えている。
その猿球は三体もあった。
「な、何ですか? あれ!」
「言ったでしょう。私はこれからが本業なんです」
それでも彼は背を向け、私を護る気のようだ。
殊勝なことだと思った。
その逞しい背の陰で、私は靴を脱ぎ、さらに下着ごと黒パンツを脱いだ。パーカーを肩から下ろし、セーターも剥ぎ取って全裸になった。
その気配を察し、彼はどきまぎとして視線を後ろに乱している。
「一体、何を」
瞬時に私の肉体は薄青い結氷の霧絹に覆われた。人間の服は、この超寒気に触れると、繊維を冷凍破砕させて粉々になってしまう。事実、サファリハットは粉塵となって散っていった。うっかりしちゃった、服は大事に取っておかないと。ホテルに帰るときに周囲を困らせたくない。
「あれは唯の出迎えよ」
呼気を槍状に固めて、その猿球に同時に放った。
一瞬で貫き通すかに見えたそれがいくつもの影に分かれた。超寒気の槍が樹の幹に突き立ち、たちどころに氷柱になった。
猿球は肉体が完全に融合していたわけではない。歪な、不定形に歪な肉体になって塊になっていた。手が三本の個体もあれば、頭蓋や体がが半分の個体もある。それが群体となって球を形成していたらしい。
超寒気を針状に固めて、その個体それぞれに数百本を打ち込んだ。
通常の肉の身を持つものならば、その細胞の水分が瞬間凍結して膨張し、その細胞を破砕するはずだった。
しかしそうはならなかった。
この猿鬼には水分がなかったのだ。
石女尼、貴方の能力がわかってきたわ。
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