第2話 半裂
その井戸は山城の深奥にあった。
かつては尼飾城という小山の中腹だった。今では尼巌城といかめしく表記するようになってるけど。
長野市の建設課の案内でその裾野までやってきたが、現地に登っていくのは急峻なのでお勧めは出来ないらしい。黒々と太いセルフレームの眼鏡をかけて、ほっそりと細身の物静かな担当者だった。橘係長と名刺にはあった。
「近年のゲリラ豪雨の対策がありまして。この山に砂防ダムを建設する計画で、山中の実地調査と地割りをしている最中に見つかったのです。歴史資料によると城の馬待曲輪という地点です。まあ所謂、陣地防御の砦跡で、そこの古井戸ではないかと」
彼が車を停めた場所までは舗装されていて、小さな鳥居と祠があり、その傍から苔むした石段が立木のなかに伸びていた。石段の両端に落葉した広葉樹の葉が吹き溜りになっていて、そこの足元も危険だった。場所にもよるけど、人間の身長ほども溜まっている箇所もあるはずだ。
寒々とした裸の幹に木枯らしが打ちつけ、各々の枝が蜘蛛の巣のように絡み合い、乾いた音を立てている。
「この先からは自然林のままなので、林道も大して整備されていません。処理出来てない倒木があちこちにあるので、巫女装束での現地到達は厳しいです。こちらの祠でのお祓いでお願いして宜しいでしょうか」
運転席からの声に、聞こえないくらいの溜息で色葉は返した。
「すみません。出来ましたら現地まで普段着で登って、そこで着替えても構いません。やはりその場所でないと、異変の浄化は難しいと思います」と私は答えた。
「とはいえ着替える場所なんてありませんよ」
私にしては珍しく厚着にしてる。久しぶりに下着を付けて、辛子色のセーターに足首をベルクロで止める黒いパンツを履いてきた。上着に紺のダッフルコートもあるが、寒さは快適なので袖を通してはいない。
「構いません。神様しか見ていませんから」
私には食餌を摂る絶好の機会なので、この場所では鬼を取り逃がす恐れがあるので避けたい。やはり現地で巫女舞を行う必要があった。
「今度こそボクも同行したいなぁ」と色葉が小首を傾げて甘えてきた。
彼女は制服で来ているが、脚をストッキングで武装している。厚手のパンツなどの私服はディパックに収めていた。
「危ないって橘さんも言ってるでしょ」
この娘は、私を拾ってくれた神社の後継者になるので、修行と称してここまで嘴を突っ込んでいる。ただこの仕事を繋げたのは主家なのも承知している。
私が心配しているのは、彼女の能力の発動だ。それがまだ微々たるものであればいいの。あの気魄のあった祖母のレベルであれば、まだ人間の個性としての範疇に収まる。
私の様な化け物に覚醒させてはならない。
病室は4人部屋で、澱んだ昏さで息苦しかった。
どの病床も乳白色のカーテンで封をされていて、その区画の天井だけが光を反射して明るい。
右手奥の患者と見舞客がぼそぼそと声を細めて話している。姿は勿論見えない。誰の興味も引いてはいないが、重要機密でも語らっているように、語句を切っては周囲を伺う気配が漏れていた。
私たちが訪うたのは手前右のカーテンの奥だった。
「田所さんですよね」と声をかけた。意外にもはっきりとした声で、「はい」と答えた。
中年の野太い声だった。解体業者の事務員さんという経歴が、成る程と実感できた。この声なら現場からの電話でも意思疎通出来るだろう。
「お邪魔します」と声を揃えて中に入った。
「あれ、まあ。美人さんが二人も。ご姉妹さん?」
「私は姪です」と色葉が判で押したようないつもの自己紹介をした。
「鳴神 六花です。あの建設課からお話を伺うようにと言われて、ここに出向きました」
「あれ、まあ。お若い方で」と声が弾んだ。
田所さんはクリーム色の病院服を着て、油っぽい髪をした小太りの中年の婦人だった。入院している割には口調には快活さがあった。
「まあこんな小母さんのとこにわざわざ来なくてもねえ。あの症状の確認にいらしたのでしょう。まあお医者も不思議がっているのよ」
そう言ってあっさりと病院服の片肌をあっさりと脱いでみせた。
「ここなのよ、ここから反対側まで広がっているの。太腿にもあるのよね」
大きめの下着を摘みあげて、脇の下から背中に拡がる赤紫の腫瘍を見せた。湯浴みが出来なくてお湯で拭いているだけらしく、女のこもった臭いがした。
赤黒い血液が凝固したか、腫れた皮膚が爛れたような肌。あの半裂きのような痘痕だらけの皮膚が帯状に背中まで這っている。
「気味が悪いでしょう。痛いのよ、これ。火傷したみたいという感じでしかも神経にピリピリくるの。もう寝れなくってねえ」
そう言って布団をあげて、脚元をめくってみせた。
その瞬間に「くっ」という苦悶の声が聞こえた。
先刻までは張り切っていた、色葉が倒れた。
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