鬼夜叉

尾石井雲子

「俺の幼馴染は小悪魔系天才美少女」

1.鬼神覚醒

〈序〉


 人間ひとが鬼になるために、必要なものを知っていますか?



 嫉妬、憎悪、悲しみ、怒り。



 そして、身を裂くほどの狂気。



 いいえ。どれも違います。



 答えは、愛ですよ。



 それも反吐へどが出るほどのね。




◇◇◇



 鬼がいる。


 冥府の門よりでし、紅蓮の鬼が。


 燃ゆる血潮の如き深紅の鋼鉄が、その隆々とした体躯を指の先から頭頂に至るまで堅牢に覆っている。まるで、鎧武者のようだ。されど、四肢ある人間ひとの形を保ちながら、その甲冑は地獄に坐す鬼神の恐嚇を鮮明にかたどっていた。


 御すことのできぬ瞋恚をあらわす厳然たる形相。剝き出しにされた歯牙は猛虎の威圧を彷彿とさせ、相対する者へ逃れられぬ死の予感を植え付ける。

 三つの勾玉が凶悪なともえを巻く意匠がえがかれた紅色のかぶと。その頭部からは聖なる経典に綴られた魔物のような禍々しい双角が伸び、月夜を刺し貫かんと高らかに突き出ている。


 夜闇に弾けては舞う炎の粉塵があかい装甲を掠め、雪が溶けるように消えていく。残火が散りゆく渦中にて、吽形の仁王と見違える憤怒の面頬めんぼおの隙間から溜息のように火煙が吐き出されると、火の粉はたちまち踊り狂い、風となり、土となり、おのずと朽ちていった。


 やはり、それは鬼だった。


 赤い鬼のようだった。


 語り継がれてきた数多あまた御伽噺おとぎばなしに登場する、真っ赤な色をした恐ろしい鬼に違いなかった。


 しかし、鬼といえど手掌に握るは金棒ではない。太刀であった。人間の膂力では振るうことすら叶わない、鉄の塊のような重厚感のある野太刀だ。すなわち、これは鬼のつるぎに他ならない。


 刀と鬼。

 巴紋を模した金色の鍔から美しくも武骨に反る銀色の刃が、あやしい月光を一身に浴びて、凍てつくような殺気を振り撒く。


 それは悪鬼か。

 あるいは、武士もののふか。


 の者の正体は、鬼の背後にて白い髪をふわりとなびかせる若き退魔師、大日女おおひめ暈音かさねという少女が知り得ていた。


「〝鬼夜叉おにやしゃ〟」


 ごくりと喉を小さく鳴らして、教科書の一節を読み上げるように無心で舌と唇を動かした。


かつて鬼と崇められたモノたちのむくろより造られ、奈落の底に封印された六十六の鎧……。

 祓魔庁の切り札にして、選ばれた者だけが扱える、最強の純然たる暴力チカラの塊」


 長い睫毛に囲まれた琥珀のような瞳が、僅かばかりの興奮と隠し切れない動揺によって、せわしなく揺らぐ。


 対災特殊戦術用降霊式強化呪装『鬼夜叉』


 それは人間ひとが簡易的に〝鬼〟へと変身かわる最凶にして最強の呪法の総称。

 死後、地獄の底に封印される鬼の亡骸に鉄を注ぎ、特殊な技法で加工を施し、地獄の炎によって鍛え上げることにより、鬼の魂魄が宿った鋼鉄の甲冑を造り出す。


 これを鎧として身にまとった者は、荒ぶる鬼の魔性を精神で鎮め、鬼と契約を交わすことによって、人の身でありながら強力無比たる〝鬼〟の力を得る。


 それが鬼夜叉——退魔師が誇る最高戦力の一角。


「鬼夜叉〝神威カムイ〟」


 固唾を飲んで見守る少女は、鬼の猛々しい背中へ名を投げかけた。


「……が……ッあ……あアア……」


 神威と呼称された赤鬼の鎧武者は凶悪な歯牙が並ぶ顎部をガチガチと鳴らし、次の瞬間には豺狼の遠吠えのように上空へ解き放った。


 大地揺るがす鬼の咆哮。


 ではなく。


「ぁぁぁああああああッづううううううううううううゥゥゥゥゥゥ――!?」


 少年の間抜けな悲鳴こえだった。


「マジで熱ッ!? 中で炙られてる! 現在進行形で蒸し焼きにされてるぅ! だって焦げたお肉のニオイがするもの! おもに俺から!

 うおおおおおおッどうやって脱ぐんだ、チャックとかねえのかよおおお!?」


 あわてふためく鬼夜叉は半狂乱のままに騒ぎ、鎧の襟や籠手を掴んでは乱暴に引き剥がそうとする。しかし、炎熱を秘めたる真紅の甲冑は、それこそ皮膚や骨を溶かして完全に肉体と同化してしまったかのように固定されていた。力づくではビクともしない。


「まったく脱げねえだと……!? どうなってんだこれ!? クソがよおおおお!! あちいよおおおおおおっ!!」


 聞くに堪えない泣き言のような狼狽であった。

 赤鬼の鎧武者はその場で地団駄を踏み鳴らして不恰好に悶える。そこには貫禄も威圧も何一つとして存在せず、ただ不様な醜態を晒すようにクネクネと身体を曲げて、意味のない悶絶を続ける。


 それもいささか仕方がないことか。


 彼はまだ十六歳の少年なのだから。


信乃しのっ!」


 透明な喝が、月夜の下で響き渡る。

 大日女暈音の宥めるような声を背に浴びて、我に返ったかのように、激しく揺れる海藻のような挙動をピタリと止めた真紅の鬼夜叉──その中身たる少年こと、朝倉あさくら信乃しのは声の方向へ助けを求めるべく振り返る。

 白き美麗の寵愛を一身に受けた妖精の如き可憐な少女が、力強い眼光を一直線に向けていた。


「か、暈音かさね、これ……」

「戦って、信乃。あなたしかいないの」

「いやムリムリムリ」


 即答した。はっきりと本心から言ったようだった。

 しかし、少年の弱音を黙って聞いてやれるような状況ではない。暈音は諭すように言葉を繋げる。


「お願い聞いて。敵は私の手に余る化け物へと変貌してしまった。このままでは人里に降りて罪なき人々を手当たり次第に貪り食らう。誰にも止めらない。ただ一人を除いては」

「いやいや、そう仰られても」

「私のありったけを、私の全部を、信乃にあげる。だから、お願い。みんなのために、戦って」

「………………」


 一縷いちるの望みに懸けて天に祈るが如き儚い声色に気圧された信乃は、それ以上の問答を潔く諦めた。

 不満はある。恐怖もある。

 だが、それ以上に彼女の尊き願いを無碍にするなど、彼にできるはずがなかった。


 朝倉信乃という少年はどういうわけか、大日女暈音という少女に滅法弱かった。たとえ、損得の天秤が大きく傾いていたとしても、彼女の願い一つで簡単に覆ってしまう。それは生死を分かつ重大な決断でも例外ではない。


 理由も理屈も必要ない。


 彼のことわりの全てはそこにあるだから。


「逃げ道は最初ハナからえってか」


 信乃は寄る辺なき鬱憤を火煙の息吹で吐き出し、乱れた呼吸の拍を整える。ずっしりと重みを感じる野太刀のつかを握り直し、二本の脚を大地へゆっくり沈ませる。

 動揺は自然と消失している。むしろ奇妙な高揚感すら覚える。身体の内側から熱い何かが悪魔のような産声を上げて「戦え」「勝て」と叫び散らしているようだ。


「悪くねえ気分だ。ああ、まったくもって不愉快だぜ、この野郎」


 紅蓮の鬼夜叉は眼前に広がる巨影へ臆することなく刀尖を向けた。

 首を伸ばして見上げなければ、その悪徳に満ちた相貌を拝めそうにないほどひたすら大きい。全長八メートルは有する巨躯には手足がある。見た目は大猿に近いが、黒い長髪の隙間から覗く目玉は魚類のそれに近い。理解し難い異形の筋骨で構成された怪腕から放たれる拳打は、地表を陥没させるほどの途方もない威力を秘めており、まともに食らえば、如何いかに鋼鉄の鬼夜叉とて一溜ひとたまりもないだろう。


 朝倉信乃は、つい先程この〝妖魔〟によって殺害された。


 たしかに殺されたはずだった。殺されていなければ至極可笑おかしい話であった。


 そうして、三途の川を跨ぎ、滑り落ちるように地獄というものへ足を向かわせたはずなのに、このである。


「こちとら剣なんざ握ったことすら無えド素人だぜ。負けても文句は受けつけねえからな」

「信乃なら勝てるよ。絶対に」

「どっから湧いてんだ、その自信」

「強いて言うなら、だからかな」


 やっぱり、この幼馴染と関わっているとろくな目に遭わない。


 この危機的な状況において、鬼の冑に隠された彼の表情は笑っていた。

 それは諦観の笑みだろう。折れた者の心境だろう。されど決して怯弱の色には染まっておらず、無鉄砲な情動に押し流されるまま、太刀をそれらしいように構えてみせた。


 剣の型など知らぬ。

 戦の法度も存じぬ。


 この身にあるのは、名も知れぬ鬼がのこした甲冑だけ。


 ならば、俺にできることはせいぜい、鬼のように暴れてやることだけだ。


「へへッ、腹アくくるしかねえってんなら、いっちょド派手にブチかましてやらあ!!」


 鬼は跳躍する。

 赤いくろがねの残像を夜空に浮かべ。

 銀のつるぎに月の金色こんじきを滲ませて。

 おそれを知らぬけだもののように笑いながら。


「死いいいィィィねえええええええええぇぇぇェェェ——ッ!!」


 ただ、斬り伏せた。





 朝倉信乃は、平凡な高校生であった。

 都市開発の風潮に出遅れたどこにでもある田舎町に住む、怠惰で粗雑なチンピラのような学生だった。


 それがどうして身の丈の倍にも勝る凶悪な怪物と果敢に対峙し、挙句は無謀を承知で戦わなければならないのか。どう因果律が狂えば、こんな奇怪な状況に陥るのか。


 前世で何をしでかしたのだろうか。こんな無様な姿に成り果ててまで、自分は何が嬉しくて、こんなことをしているのだろう。


(わっかんねえーなあー……)


 鋼を纏った鬼は考える。

 夜空に浮かぶ丸い黄金と視線を絡めて。

 舌を麻痺させる鉄の鈍い味と痛烈な浮遊感に身を委ねながら。

 妖魔の巨腕に予測のできない軌道から殴打され、ホームランボールのように緩やかで呆気ない有り様で、星々瞬く夜空まで吹き飛ばされてしまった不憫な鬼は走馬灯のように思い返す。


 時はおよそ一日ほど遡った。


 それは幼馴染の来訪を告げる一報から始まった。

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