第5話 汚染された高禍原

 戦いというモノは無ければ無いだけいい。しかし戦いなしに通ってはいけない場所も時として存在する。

 神域に満ちるマナの濃度は並の比ではない。明らかに奇跡の現象が起きている。

 聖痕のある所にエーテルとマナは満ちている。神がその場所にほんの少し前までいた為にその残り香が色濃く残ているのだ。

 聖都の黎神研究技局の神の構築物質の研究では、高濃度のエーテルとマナでその姿と意識が構築されていると考察されている。

 神は目に見えない物体で出来ていると言うのが最新の研究考察であるが、しかしながら過ぎた薬は返って毒となる。


「──ハァッ!」


 飛び掛かってくるバッタ型のスプリガンを頭部から両断し、舞い散るドロリとした黄緑色の血が辺り一面を埋め尽くしていた。

 スプリガン達は絶命し、肉体からマナが散り本来の大きさの虫に戻っているが、しかしながらカミラにこの光景は強烈過ぎた。

 頭の中に叩き込まれてくる高濃度のマナの残滓が知覚するだけで、吐き気がしてくる。エーテルもマナも本来は不定形をしているが、憑依し乗り移った肉体に宿る魂の形に影響される。

 それらは霊魂と言う形でカミラの目で視えている。霊魂は正直だった。ほんとうはこんな醜い姿になりたくなかった、死にたくなかった、と訴えかけてくるように喚いている。


「レディ! 。大丈夫か?」


 能動的に剣を振るうベーヴィン。この戦いで何かを見出そうと必死な様子だ。


「冷静になって……っ! 。ここはマナもエーテルも濃すぎる……っ!」


「いいこった! 。祝福の冴えが増す!」


 初陣のベーヴィンは気づいていなかった。エーテルもマナも過ぎれば毒となる事を、知らない。

 高濃度のエーテルやマナを浴び続ければ、精神に多大なる影響を及ぼす。

 空気、雰囲気とも言ってもいい。エーテルは鎮静的な精神性を与え、マナは過剰な暴力性を暴き出す。

『荒魂』、『和魂』と呼ばれる奇跡障害だ。タルタロス大戦ではこれら二つを上手く使い分けた国々が生き残った。


「ベーヴィン! 。マナに当てられ過ぎだ! 。エーテルで鎮静化すんだ!」


 魔物との戦闘中でも隊員の状態を欠ける事無く見ている隊長。小瓶に詰められたブルーのバラの花弁の入ったそれを投げて渡してくる。

 ベーヴィンもそれでようやく自分の陥っていた状態を理解したようで、小瓶の蓋を開けその香りを嗅ぐ。

 ブルーの色を持ったバラは神に祝福されし華であり、大量のエーテルを含んでいる。

 それらの匂いを嗅ぐことで体内に蓄積されたマナ、『荒魂』を落ち着かせ『和魂』へと導く。

 ベーヴィンの顔に張り付いた狂気的なまでの闘争心剥き出しの顔が気の抜けたように落ち着きを取り戻していた。

 オーラを見る限り荒魂に偏っていない。適度にマナを体内に含み、エーテルがそれを押さえて冷静でいる。


「ベーヴィン、気を確かに」


「ああ……悪い。昂ってた」


 カミラが声を掛けると落ち着いたような声で安堵のため息を付いて疲れ笑いのベーヴィン。

 仕方のない事だった。何せカミラもベーヴィンもこの奇跡認定の聖痕探索の遠征が初任務、聖ウルスール祝福学校の実習と言う名目でオルロスまで来ているからここまで激しい戦闘は生まれて初めてだ。

 互いが互いに貴族出身である為に下手な争いは今までしたことが無かった。

 剣術の訓練は相応に積んでいたが、しかしながら命を懸けた戦いは今までしてこなかったから、正しく死に物狂いで戦うしかなかった。


「もう一押しだ! 。神域は近いぞ!」


 隊長の掛け声で皆が奮い立った。目的はたった一つ、大いなる問いを神に投げかける為に我々は組織されそしてその御前に向かっている。

 神。神の痕跡。神の存在、そして我々人類の存在理由。それらを追い求めるのは人の魂が持つ悲しき宿命。

 誰も、誰もが抗う事の出来ない哲学的疑問。己の存在価値、己の種族の存在理由。問わずして何とする。

 我々は神を知覚できる、我々は神を感じ取る事ができる。

 獣にはできない事だ。自然なる本能に従い、己が命を保つため他を害する畜生、だが我々は違う、人間は、人類は他者を思い計る事の出来る生き物だ。

 目に見えぬものを崇拝し、無意味であろうと無価値であろうと、他人を慈しみ愛する事の出来る生き物なのだ。高貴で高潔たる生き物だ。

 故に苦悩するのだ。己が存在の価値を見定める為。

 朝焼けの日の陽が深く生い茂るイーストウッド森林の草草から差し込み夜明けを告げ始める。

 だが、それが露わにするのはスプリガン達の死体の山であり、混沌とした惨劇をより際立たせるだけだった。


「神域に着いたぞ……ここだ」


 隊長の一声に、皆が顔を上げ疲労困憊の中ようやく目的とする場所に到着したと歓喜しかけたが、それは一瞬にして凍り付いた。

 あまりにも、そこは不吉を思わせる。

 ──黒く澱んだ沼だった。

 水草が僅かに生えているが、それらが発する悪臭。泥の腐った匂いと動物たちの死臭がこの辺り一帯を支配しており、そこに居るだけで気分が悪い。

 カミラは匂いだけでなく、そこのオーラにも視覚的にもダメージを負わされていた。

 ここはあまりにも、マナが多すぎる。


「うぷっ……うぇっ──」


 思わず膝を折り嘔吐してしまう。

 言い表せない不快感。胃をひっくり返されたような、ひどく生理的嫌悪感を掻き立てられるそれらは、偏に言えたのは死体の腸をぶちまけたような、そんなインパクトを脳味噌に叩き込まれような感覚であった。


「大丈夫かよ。レディ」


 ベーヴィンが背をさすってくれるが、何とか誤魔化し笑い浮かべようとしたがそれも出来ないまでにここは不吉で、縁起が悪過ぎた。


「なんと言う事だ……汚染が、進んでいる」


 隊長も言葉を失ったようにそう言う。

 魔素マナ汚染。深刻なまでに土地を汚し尽くし、そこに在るすべての物を禍の一遍に変える災害だ。


「隊長……離れましょう。ここは……うっ、不気味すぎます」


 カミラがどうにかして絞り出した言葉は撤退の進言だった。人が直感で理解できる、本能でここにいては危ないと理解できる。

 魔物も寄り付かない程、深刻なまでに汚され尽くしたこの場所に長く居てはいけない。そうカミラの心が訴えていた。

 そしてそれは、間違いではなかった。


「っ? 。……っ──」


 カミラは一瞬目を疑った。そしてそれを視認した瞬間に背筋を這い上る怖ろしい感覚に悲鳴を上げそうだった。

 黒く澱んだ沼の中心の底から生え伸びて出てくるそれに、正気を失ってしまいそうだった。

 発狂してしまえばいっその事楽になれるほど、狂気じみていた。

 そこに現れたのは──エリザベスだった。


「長く待ちわびた。私を忘却し忘れ去った者たちが私を求め来た──ようやく、ようやく。よもや、よもや、我が神格を失いそれを埋める力を与えたもう器に感謝を、祝福を、そして大いなる呪いを!」


 エリザベスはそう言った瞬間に奇声を発した。

 人の喉から絞り出される音ではない。常軌を逸した怪音波。

 鼓膜を激しく揺らし頭が割れそうだった。皆が耳を押さえ蹲る。


「ぐ──ガッ──!」


「あ、頭が──割れ──るっ!」


 隊長もベーヴィンもこの堪えがたい音に耐えるのがやっとであった。そして唐突に惨劇が行われ始めた。

 エリザベスが誘うように踊り狂い、まるで手招くようにカミラたち祝福騎士たちを誘う。それに、その動きに尋常じゃない程の魅力があったのだ。

 本能を揺さぶる魅惑のダンス。耐えられなくなった仲間の騎士たちが嗤いだす。

 一人二人ではない、全員が全員、何かに憑りつかれたように狂ったように笑い始めた。カミラも例外ではなかった。

 頬が吊り上がる、笑い声が自身の口から洩れている。

 頭が割れそうにその声は病的なのに、それに異様なまでに惹きつけられる。

 騎士たちが次第に、死したはずのエリザベスと同じように踊り始め沼へと足を進めだした。

 それに抱き着かんばかりに恍惚な笑顔を浮かべ。


「はははっ──だ、だめっ──は、ハハ、アハハハハッ!」


 思考が鈍っていく。肉体の主導権が奪われていく。

 沼へ足を踏み出そうとする体を必死で抵抗し押し止めて、動かないように、案山子のように居るのが精一杯だった。

 仲間の騎士たちは抵抗しきれず、沼へと入っていく。

 ただでさえ重い鎧を着ているから、浮く事は折ろか沼の底へ沈んでいく。

 これを俯瞰してみている者が居るなら正しく騎士たちは自殺、入水を遂げていた。


「さあ、さあさあさあ! 。私を忘れるな。私を遺却するな。私を葬るな。私はここにいるわ──」


 エリザベスの悲痛な叫びに脳がどうにかなりそうだった。

 その時だった。──赤黒いそれが──飛来した。

 エリザベスの放つ不吉なマナなど何の事のないような顔で、代償磔十字サクリファイス・クロスが彫りこまれた小さな棺を抱えた男が。


「この地に住まう道祖神か。聖杯によって汚染されたか──神と崇められた者も堕ちたモノだな」


 嘲笑の嗤い顔で現れたのはあの男だった。

『残酷』の殻の名を持った『魔法使い』。アクゼリュスだった。

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