猫と花屋
夜狐
猫と花屋
一週間、ろくなことが無かった。
ようやくやってきた週末にそんなことを思いながら、とぼとぼと坂道を下っていく。昼下がり、初夏の日差しは少しだけ肌には痛くて、日傘を持ってくるべきだった、なんて些細な後悔でさえ重たくのしかかってくる気がした。俯き加減に、家路を急ぐ。
本当にろくなことがなかった。仕事はミスばかりして、上司には叱られて、客先では理不尽なクレームがあって、それでまたミスをして、その繰り返し。何一つ上手く出来たという手応えもない。おまけにせめて自分を慰めようと思って週末の楽しみにしていた駅前の喫茶店は、店主が旅行に出かけて臨時休業だ。
(なんにもいいことがない……)
それじゃあお昼ご飯くらいは贅沢しよう。そう思って出かければこの通り、日傘は忘れるし、お店は混んでいて入れないし。いっそ冗談みたいな不運ぶりだった。
爪先を眺めながらそんな風に胸中だけで嘆いていると、ふと視界の端に何かが入った。茶色くて、ふわふわしたもの。思わず視線を奪われて顔をあげると、生垣の隙間から茶色い毛玉が覗いている。
猫だった。
三角に尖った耳、ピンクのお鼻、翡翠色の瞳。よく手入れされた胸元の白い毛にうずもれるように、首には赤い首輪があったからどこぞの飼い猫ちゃんなのだろう。
猫はツンと澄ました顔をして、私の前を歩き出す。数歩を進むとちらりとこちらを振り返った。まるでついておいで、と言わんばかり──勿論気のせいだろうけれども。それでも瞳には理知的な色が見え隠れして、このまま見送ることは不思議と躊躇われる。
どうせろくなことのなかった一週間なのだ。
少しくらい寄り道したって、これ以上悪化することは無いだろう。
そんな考えが浮かんできて、私は思い切って、猫の行く先へと道を曲がった。坂道を途中で曲がり、生垣の続く、古い家の多い一角へと進んでいく。
ここらへ引っ越してからこっち、駅前の探索はしてきたけれど、住宅街の中はまるっきりだ。この辺りは古い家が多いせいか立派な生垣が多くて、とろりとした初夏の昼下がりの日差しの中、常緑特有の濃い緑色が目に鮮やかだった。風は殆ど無い。しんと静まり返った、舗装もされていない道路からは、微かな砂埃が舞い上がっている。
猫は、その道の先に居た。砂埃の中、ぺろりと前足を舐めて顔を擦る。それから、道を曲がってやって来た私の姿に気が付いたのだろう。ちらりと翡翠の目を上げて、意外でもなさそうにふい、とそっぽを向いた。また歩き出すその足取りは私のそれとは裏腹に軽やかだ。
恨めしいような、羨ましいような。そんな気持ちでその後を追う私は、もう爪先ばかり見て歩いてはいなかった。
少しだけ歩幅を広げて、早足という程ではないけれどさっきよりは確かな足取りで向かう先で茶色い猫が曲がり角を曲がる。生垣の切れた先には、大きな樹と、その木陰に小さな建物があった。
さらりと吹いた小さな風で、木漏れ日が微かにざわめく。
苦みのある緑の匂いが、一段と強くなった。生垣のそれとは違う。花の香りを僅かに含んだそれはどこか爽やかで、鼻腔から咽喉まで滑り落ちて行く。身体の中を風が吹いていったような、そんな気がした。
猫はちんまりと、その小さな建物の入り口に手を揃えて座っていた。私の目を見てにゃあ、と初めて鳴き声をあげる。
「……お花屋さん?」
駅から随分と外れた、こんな住宅街の真ん中に。
生垣に囲まれた三叉路の角に立つ小さな平屋の建物は、緑にあふれていた。周囲には鉢植えの緑が。店内に、沢山の切り花が。ピンクの薔薇、奥から強く香ってくるのはきっと百合だろう。強い日差しのせいで室内は暗く見えたけれど、ぼんやりとしたオレンジの電灯が小ぶりの薔薇を優しく照らしている。軒に溢れる緑の葉陰は、入り口の庇にも少し青みを帯びた影を落としていた。
猫はここの子なんだろうか。先ほど一声鳴いたきり、店内に入るでもなく、ただ私をじっと見ている。どうする? そう問われているような気がしたのは、きっと私の気のせいなのだろうけれど。
私は誘い込まれるように、大きく押し開けられた観音開きの扉を潜る。
きっと花たちのためなのだろう、店内の空気は少し冷たい。す、と息を吸えば、先ほどよりもずっとずっと濃密な花と葉の匂いの混ざり合った香りが身体に染みていくようだ。
(そうだ、花、)
ふと、思い立つ。
何にも良いことがなかった一週間だった。週末に至っても。
(……花を買おう)
そういえば随分と、独り暮らしの家では生きた花の姿なんて目にしていなかった。
衝動的とさえ言えるそんな突拍子もないアイディアは、それでも私の胸をひどくときめかせた。ようやく気持ちが上向いてきたものだから、私はここまで道案内をしてくれた猫に感謝をしようと振り返る。
猫は、もう居なくなっていた。日差しが強くて青くさえ見える葉陰が、さわりと微かに揺れるばかりだ。
猫と花屋 夜狐 @yacozen
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