遺言
ユキナの母が死の床にあった時に、ユキナはいま聞かないと二度ともう聞くことが出来ないと思い聞いた。「お母さん、戦争ってどんなもの?」母親は一度少し驚き、その突然の娘からの質問をしっかり飲み込み、受け取った。そして、きっぱりと答えた。『戦争は二度とあってはならないよ。ひもじくて悲惨だよ』
ユキナの心にど直球でその母の言葉が入った。母親は戦時中。東京都目黒区の目黒不動尊に作られた防空壕に空襲警報が鳴る度に両親と幼い弟たちと何度も避難した。生きる為の日常生活を送りながらの避難生活がどんなに大変だったのかは、きっと体験したものでないとわからないだろう。
そうなのか、いろいろ聞いてはいたし、学校の勉強としての年表や出来事としては、日本のかつての大戦のことや原爆投下のことは知ってはいたが、それらはただ単に頭の知識としての出来事であった。決してその戦争の実体験者としての実感はわからなかった。今、自分の母親の戦争実体験者としての真実の言葉を、その人生がまもなく終える者として真実の言葉として聞いた重みをずっしり感じた。
かつての大戦争が終わってから79年が経過した。もう二度と起こらないはずだった核使用や世界大戦への自信や願いが揺らいでいる。人は忘却の生き物だ。その時の記憶が薄らぐ世代となり、また新たな戦いの構図が発展しなければいい。1945.3.10東京大空襲で家を焼かれた後、岡山に避難するもそこでもまた空襲に合った、1952年に文化功労賞を授与された文学者の永井荷風は、終戦直後1945年8月の「断腸亭日乗」にこう書いた。『空襲なきは、最大の幸福』『平和ほど良きものはなく、戦争ほど恐るべきものはなし』
実際、戦争中、米軍機による日本国内への空襲は北は北海道、南は九州、沖縄と日本全土を焼き尽くした。一晩に10万人の死者が出た3.10東京大空襲(その赤く燃える炎は遠く千葉県南部、茅ヶ崎市からも見えたという)の後も、東京でも空襲警報が鳴り、終戦まで空襲が行われ続けた。まるで、瀕死のボクサーが倒れているのにまだ打ち砕かれ続けているかのように。その時代に生きた日本にとって、戦争は全ての人にとっての出来事・悲劇だった。
先人の遺言に今こそ耳を傾けよう。人類がただの無知の集合体なのか、はたまた知性を進化させ困難を乗り越えていける生き物なのかの瀬戸際、であり、試される時だ。
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