第2章 葬送
第10話 プレイヤー
主観の中で繰り広げられたOとの密談を終えてから、すぐに現実に帰れると思っていた。自分が認知する脳の処理をはるかに超えた体験への高揚と、滾る復讐心を携えて。
あれからどれだけの時間が過ぎたか。
不思議と、Oの言葉がはらんでいた使命感と魔法的な響きは、現実味を持った事実のみが抽出され脳内で変換されていく。
ゾフィーは同じものを見たのだろうか。彼女がそばに居たならどうしただろう。そんなことを思いながら目の前に広がるのは、不鮮明な装甲区画の藍空の下、穀物が靡く実験庭園。
ここはまだ夢の中。夢と言っても、Oによる干渉ではない人工的なもの。主観と連動したもう一つの脳による、記憶の整理と再現の営み。Oの部屋から放り出された私は、無意識の欲望と再現された表出情動が生み出した矛盾の渦に、無抵抗で揉まれていた。
畑の中で黒光りするガスマスクが、反応できない速度で近づいてくる。
光を通さない仮面の向こう側で、敵意とも好意ともとれない拒絶が働き、そしてついに留め具に指がかかったとき、私の左腕が吹き飛んでいく。記憶の中の時間が引き伸ばされ、破片が目の前を舞う。
誰にも知られるな!
男か女かすら分からない声が、ゲームのルールを再び告げた。
探せ!
誰よりも早く!
5人目を探せ!
私よりも早く!
「待て!」
手を伸ばそうとすると、足下でなにかが水面を泡立たせる音がした。私は水槽の上に立っていた。黄金色の糸が儚く広がっていき、そして紅く染まっていく。数秒見下ろして、それが何であるかを思い出す。私の口が、胸の高さから意思なく声を発した。
「逃げるな、立ち向かえ!」
私たちは、戦うべきではない......
「ゾフィーはお前を敵だと言った!」
敵ではない......
「今ここで、ゾフィーの仇を!」
いずれ......
気づけば、私の右手は煽動犯が落とした拳銃を握りしめていた。遠のく黒い背に向かって、私は初めからそうであったかのように、その銃口から殺意を溢れ出させた。
いすれ理解する......
「誰よりも先に、この手で......」
裏切り者たちの......
「ほら、みて。もう躊躇しないわ!」
一方が生きるかぎり、他方は生きられぬ......
「私は、もう......!」
--ラフカ、撃つな--
私の意思が引き金を動かそうとしたその瞬間だった。水面から精霊のように湧き出るように現れたゾフィーが、両の腕を広げて間に立ち塞がった。ためらった僅かな時間に、穀物の海を掻き分ける黒い背中が消えてゆく。煽動犯、いや、未来のOが寄越した第五列は、私の夢の中から逃げていった。
私は気づいていた。
ここは紛うことなき私の夢の中。誰かが覗いている夢の中。私を抱きしめる幽霊はもはや宇宙人ではなく、私の経験が作り出した記憶の残滓。
Oに止められて奴を撃たなかったのではない。私の意識が引き金を引くことを躊躇したのだ。たとえこれが過去の再現に過ぎない、単なる明晰夢の中だということを踏まえても、敵討という結末への願望を吹き消すには十分すぎる物語だった。途方もなく巨大な何かを背負ってしまったことへの不安が、空虚な心に染み込んでくる。
「なにをしてるのかしら」
Oに託された任務を、Oの理不尽を衝動で受け入れた自分が、赤く濁った貯水槽に映り込んでいた。
「身の程を知れ、私」
そう非難しながら湿った土に寝そべる。
いつしか、幽霊は姿を消していた。
襲撃など無かったかのように、田園に静寂が戻る。
頭の隅でノイズが大きくなる。
夢の中に落ちてしまう前に、私を現実へと連れ戻すように。惑星グロムスのオーロラが、採光窓の隙間から鈍いカーテンを降ろし始めた。
目覚めだ。
------
目覚めが怖かった。ロビンやピカ、シャニーア、ホーン、友と誓った者たちを私は拒絶し続けてきた。そして彼らもまた私を疑ってきた。閉じた瞼の向こうに、この夢を構築した彼らの目線を感じる。
ひとカケラの私の不自由意思で、この夢は終わる。その時を待って、風の音に紛れる病室の電音と囁き声に耳を傾ける。
「ラフカ博士?」
オーロラが消えた。かわりに照明の灯りを透かした瞼が赤く染まった。ただ、それは清涼な目覚めではなく、麻酔の類で朦朧とした目覚めに近い。
誰かが、それもおそらくロビンや情報総局の連中が、解剖装置を用いて私の記憶を覗き見ていたのだということはすぐに分かった。
「博士、まだ動こうとしないでください」
恐らくここは警察病院の観察棟。ニューエニスの診療所で社会復帰プログラムに参加していた時に、月に一度お世話になった匂いがする。
「だれ......?」
「ロビン、博士が覚醒したみたいです」
微かな雑音がまだ外部記憶装置に残留していた。薬のせいで泣いて腫れ上がったように思い通りに動かない瞼が邪魔だった。義眼を左右に動かそうと意思を抱いても、弛緩した筋肉は緩慢な反応をする。
「だれ、だそうですよ。あはは、免許無いのに記憶解剖なんてするから」
女の声が遠のいた。なんとか、薄目でその主を探す。知っている声だが、何かが違うのだ。本人と私との間で繋がりあっていた生物的共感というものが、一度リセットされたかのような違和感。
「さて、どうするか」
これは、ロビンの声。
「どうするんですか?」
「俺も知らん」
「記憶が消えていたら最悪ですね」
「......ラフカ、俺のことは覚えているか?」
私は額に手を当てて唸って見せた。
「......どうだったかしら」
「ああそうか、わかった。ピカには残念なお知らせだが、そう伝えてこよう」
「ねえそれは待って」
「ロビン、それは禁句だと思いますが」
きりっとロビンの方を振り返って、女の赤髪があざやかに広がる。
「ともかく、ロビン博士、例の話をするなら覗きのお詫びをちゃんとして機嫌を取ってからです」
「例の......?」
「あ、えと、博士すみません。眠っていただいている間、博士の認知に過誤や介入がなかったか我々で一度ファクトチェックをしたんです。その中で重大な疑問点が色々と。そう色々と......」
細い人影はそう言って、赤い髪をかき上げながら私の顔を覗き込む。鋭く尖った鼻先と、乾いた唇、CMF社で技師をやっていそうなこだわりの強そうな目つき。ゴーグルを付けていないその顔をはっきりと見るのは、これが初めてな気がした。
「お話の前に。襲撃の瞬間のデータ欲しさあまりに、勝手に博士の記憶を覗き見てしまって。解剖中にあまりにうなされていたのでドクター・ルナを呼ぼうとしたのですけれど、なぜか心優しいロビンが手順を踏まずに解剖装置を停止させてしまって。記憶の逆行症状とか無いですか......?」
「あなたはシャニーア、ね......?」
「わあ嬉しい」
瞬間、シャニーアの瞳があり得ないほど澄んだ色を放った。
「覚えていてくれたんですね、まあ私自身もこのまま裏舞台から退場しちゃうんじゃないかとある種の期待を抱いていましたから、もし忘れられていてもそれはそれで」
「おい、シャニーア」
「私がいると気まずいですか、気まずいですよね。大丈夫ですよ、うちの爺さんは長生きしすぎたくらいです。あのとき、ケベデは確かに動揺していましたが、だけれども迫る死に抗おうとしなかった。死にたいなら言ってくれればよかったのに、私は身を張って守ろうとしたのになぁ」
「少しうるさいぞシャニーア。博士のせいじゃない」
今度はロビンがシャニーアを制止する。
「知ってます。ロビン、もしかしてこのセレスト随一の頭脳を持つ技師が、病室に閉じ込められて事件に何も貢献できないまま逆怨みして、早々に闇堕ちしたとか思ってました?」
「今のお前の気持ちは俺には分からん」
そう言って、ロビンは私の外部記憶装置に取り付けられていたコードを引き抜いた。その束を渡されて、シャニーアの以前より流暢な早口が止まる。2人の影は少しの間私のそばを離れ、そして数分後、彼女の冷たい指が、感覚の戻った私の左腕に触れて綺麗に繋がった人工皮膚を優しくなぞる。
「感覚はありますか。新しい左腕はこれまでとは違いますよ。私とケベデの愛の秘密部門が開発に携わった、CMF社の自立予測プログラムです。覗きのお詫びとして受け取ってください」
その指の冷たさは、まるでシリコン皮膚すら纏わない農作業ドローンの金属指のような、酷いものだった。声もそうだ。シャニーアの声には違いないが、まるでペグシリーズの口調が感染したような、抑揚やリズムから、文脈的な感情が排除されているものだった。
「シャニーア、その身体......」
ヒルベルトホールでの足場崩落に巻き込まれ、CEOの上に落下した技師は、喉にAIを飼うほどの重症を負って、新たな身体と共に復活を遂げていた。
「ね、ラフカ博士とお揃いですね。こんなことピカが聞いたら絶叫しそうですけど」
「ピカは?」
「機械の修理なら私の得意とするところですので」
「ありがとう。恩人だわ」
「そうですね」
変わらない外見のその奥が、生命体としてすっからかんであることを、私の義眼は見抜いてしまった。
思わず目を背けたくなるが、彼女の冷え切った瞳から視線をずらすことができなかった。私を非難するように、シャニーアはその指で彼女の新しい喉仏をつねって微笑んだ。
「ロビンが、昏睡中の私の記憶装置に事件記録を書き込んでくれたんです。生命維持装置から解放された朝は、最悪の目覚めでした。あの日の記憶で止まっていた脳内に、あらゆる過程を飛ばして知らなかった事実が一度に押し寄せてくる不快感は何と言えばいいのか」
「病室で、ずっとあの日の検証を?」
シャニーアは私の指を握り、自身を落ち着かせるようにして小さく頷いた。
「私はあなたたちを騙していた」
「知っています」
「教えて」
私は少しだけ抱いた恐怖心を隠すように、仲間であることを確認するようにシャニーアの手にすがる。
「私は間違えていた?」
シャニーアは今度は首を横に振る。
「ヒルベルトで遅れをとったのは......保安局の内通者問題を放置したヘパイストスの失態。報告を読んだとき、博士の嘘には動揺しましたが、それが作戦失敗の直接の原因ではないことは余程の正義漢か馬鹿でなければすぐに気づきます。そこから先、仲間として博士を信用するかしないかは倫理と心理学のお話。それに......」
ロビンが咳き込んで、私の方を横目で見ながら申し訳なさそうな顔をした。
「ケベデは、博士がゾフィー博士のFWチップに辿り着くよう誘導した。私はその判断を信じています」
そこまで話して、シャニーアは何かを言いたそうな仕草をすると、ロビンの方を向いてさっさと出ていって欲しそうに言った。
「ロビン、ピカの様子をみてきてくれませんか」
「わかった」
ロビンがあっさりと部屋から去る。その足音が遠のき、何台かの医療ドローンが器具を揺らす音が収まってから、シャニーアは大きく息を吐き、声色を下げてささやく。
「博士の記憶にあった、ガスマスク人間との会話ですが、標的の1人であるケベデのそばに長年連れ添った人間として興味深い点が」
シャニーアの顔が、口付けができそうなくらい近づいた。
「博士には、幽霊の声が聞こえるのですね?」
「あれは、幽霊なんてものでは......」
彼女はそんな小さな言葉の意味など気にも止めず、焦るようにさらに続けた。私への興味は、すでにシャニーアの瞳の中に一滴も残っていない。冷たさの影に潜んだ、真剣な、何かを見据えた眼差し。私が眠るわずかの間に、なにかが起きていたようだった。
「その幽霊は誰ですか?」
「そ、れは......」
「ご両親ですか、それともゾフィー博士ですか?」
「シャニーア?」
「博士の記憶では煽動犯の言葉はこう続く。ケベデは宇宙人のコンタクトを拒絶した。宇宙人の助けを得られず、ただ無意味な1人の標的として無抵抗に殺された」
「......」
「嘘だと思いませんか?」
「不可思議な点なら」
「マスクは第一標的がミケルではないとも言っていましたね。博士、真の標的はゾフィー博士だったと思いますか?」
「......ええ」
何を言いたいのか、シャニーアの口から祈りのように飛び出す言葉の行先を、私は全く予想できなかった。
「博士なら理解してくださるのでは。ケベデが、何も知らなかったはず無いのでは?」
「それは、私には......」
そんなはずはない。O自身が認めたことだ。ケベデはOの助言を拒絶した。しかし、CWF社で議論を交わした聡明な彼の顔が脳裏によぎった。彼は、Oからどこまで知らされていた?
「私思うんです。ケベデが無知と無言を貫いたことに何か意味があるのでは。5人目の標的を、知っていたとか」
話を一度落ち着かせ、検討の余地があると伝えるつもりで、私はまだ動かない身体を起こそうとする。しかし、吹かしたエンジンのように心拍が上昇したシャニーアが、私の胴に腕を絡めてさらに小さな声で囁いた。
「聞こえるんです」
シャニーアの話は、私がまったく予想していなかった仮説に至った。
耳を疑った。
「私、一度死んで甦って、それからずっとケベデの声が聞こえる気がするんです」
澄み切った瞳が私を覗き込んでいた。
「聞こえるんです。死者の声が」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます