第4話 人間性

「ねえ、いったいピカは何を知っているの?」


 ピカの小さな身体を隠す無機的な一枚布は、純白の照明が頭上から降り注いでも影を作らない。このドームの中には、生物学的に、私とピカ、そしてそれぞれの体内で管理された微生物以外の生命体は存在しない。空気は澄んでいて、血の匂いもしなければ荒い吐息も聞こえない。


 今このまま治療室を飛び出してロビンに全てを打ち明けて、自分は事件から身を引いて、そうして何も見なかったふりをし続けていれば、数日経った頃には彼女が全て終わったと報告しに部屋に来てくれるような気がした。


「私が伝えるべきことは何?」


 私の理性は、現実から隔離されたどこかに情動を封印してしまっているようだ。ピカを見ているようで、自分の背を見ている。なぜか悲しみも怒りもない。


 私の問いかけに指先ひとつ動かさない友人に対して、詫びるべきか許しを乞うべきか、或いは彼女の無念を背負う覚悟をここで宣言すべきか、その選択を急かされるほど、複雑な判断に理性が介入していく感覚に陥る。それが脳の愚かな自己防衛であることは理解しつつも、私の脚はすでにこの場を離れる方へと筋肉を張り詰めさせていた。


 それでも私が立ち去らないのは、昨夜の出来事、ひいてはここ数日間の彼女とのあらゆる関わりが、私の経験に一生掛けても抜けないだろう「罪悪感」という杭を打ち込んでいたからだ。やり残した懺悔をしないままでは、結局この場を離れたところで正常化バイアスに身を溺れさせることすら叶わない。そんなエゴが、私を惨めさの谷間に突き落とすことと引き換えにして、目の前の冷たい身体に向き合う機会を与えてくれていた。


「あなたは昔、誰よりも私のことを知ってるって言ったけれど」


 硬そうな枕元から溢れた、若葉の儚い面影を見せている金の絹糸に手を触れる。ゾフィーの寒々しい金とは違って、無防備で暖かな金の髪。これまで何処かで重ねていた2人の人間は、同じであるはずはなかった。


「私が親友を殺せる人間だと、分かってた?」


 昨夜、私と仲直りしたいと言ったピカを最低な方法で裏切ったこと。ピカを守ろうとしたペグを脅して、その脅しが通用したこと。


 私を襲った禿男もガスマスク野郎も、その背後の真実に目が眩んで引き金を引けなかった私が、ピカの小鳥のようにか細い首を絞めることに躊躇を感じなかったこと。躊躇はしたが、客観的にそう見えなければ意味がない。まだこの世界では、行動こそが人間の本性なのだから。


 AIすらも認めた純悪人。


 結局それこそが、FWという主観の覆袋を剥がした瞬間に堰を切ったように溢れ出した、どうしようもない私の人間性だということ。


「私は親友だった? それともひとりの依頼者?」


 もしも彼女の答えがただの依頼者というなら、私の罪は軽くなるのか。そんなはずはない。それでも一言憎いと言せてしまえば、私という呪縛から救ってあげられる気がした。


「私たちは共感し合えない関係を保ってきた。お互いを守るために。なのに私はあなたに親友以上のものを求めていた。でもそれは搾取的で、わたしは、あなたの......」




 自己満足的な懺悔の言葉は、不意に唇に押し当てられた温度のない指によって遮られた。幻覚のような、しかし確かに血の通った冷たさ。


「......ピカ?」


「それ以上聞きたくない」


 ピカの声が時間をかけて耳に届く。彼女の先天性の赤い瞳に非難の色はなく、振り絞った眼光が私を見上げていた。


「どうして」


「私死んでないのに、なんかきもい」


「きも......」


 計測類の電子音だけがしばらく治療ドームを支配する。


「あぁ、それは、悪趣味だぜピカ」


 私よりも先に事態を飲み込んだロビンが笑い声をあげながら枕元に手をついた。


「だってラフカがあまりに可哀想だったから。ラフカ、ロビンが聴いてるってこと忘れてたでしょ。感謝して」


 ロビンの吐息から逃げるようにして、ピカは首から上だけを忙しなく動かした。途端、変な笑い声が口から漏れ出た。文字通りに身体から力が抜け去り、薬品の匂いがする床に崩れ落ち、どこから出ているか分からない片目の涙を拭うふりをしてピカから顔を隠した。


「......ロビン、いつからいたの?」


「一緒に来ただろう」


「全部知ってたの?」


「知ってるも何も、ピカ、実際のところ傷はどうなんだ。この薄情博士がここまで取り乱したのは、医者が治療不可能とかなんとか適当なことを抜かしたからなんだが。なあ、そう言わしめた理由を聞かせてくれよ」


 ロビンの問いかけにピカは沈黙を使って返事をし、再び全ての感覚が遠くなる気分を味わう。


「俺は医者の言葉を理解できないんだ、頼む」


「大丈夫なんでしょう、だってピカは」


「私は、そう作られてるから」


 ピカの腕が私の頬に当たった。柔らかく、一才の乱れもない肌。今すぐその無垢な指を握り返したい。だけど私はまだ彼女の赦しを得ていない。彼女の目を見れなかった。彼女が私に触れる指もまた、私が火傷をしないか怖がっているかのように小刻みに震えていた。


「なんのことだ?」


 何も分かっていないロビンが私の方を向いて、不安に駆られた犬のような顔をした。


「私も分からない」


 頬から指が離れていく。私はそれを追って彼女の顔を覗き見た。目が合って、涙で紫に滲んだ瞳に呼吸を奪われた。


「ラフカ、私にとってもラフカは親友以上の人間。契約なんてもってのほか。そんな事を言って、意識のない私がそれを否定しないのをいいことに惨めな自分に酔いしれる弱いラフカは大嫌い。けど、私にそれを怒る資格はない」


 ピカの手が滑らかな無菌布を攫って、量産細胞シートが貼られていたであろうマーカーで描かれた跡と、止血処理止まりで皮膚の裂け目が捲れ上がったままの腹部を晒し出した。真っ白な肌をジェル層が血色に濁し、何本かの黒いチューブが無気力に垂れ下がっている。彼女がこの部屋に運ばれたのは、その特殊な免疫体質のせいだろう。ならば医師はその治療の手段も平易さも分かっているはずだ。精卵子バンクを通じて遺伝子開発会社に一言、彼女の本名だけを伝えれば、明日には完治する身体だ。彼女がまだ警察病院に収容されていること事態、考えればおかしなことだった。


「本性なんて絶対にみんな醜い。自身に対する悪意をFWは裁くことができないから。ていうのは、ラフカが昔私に言ったことだけど」


 傷を再び布で覆い隠して、ピカは私の腕に縋るようにして指を絡めてきた。


「設計された、誰かと同じ殻が、私の経験までもを作るのが許せなかった」


「だから、わざとその身体に傷をつけたの?」


 ロビンが立ち上がり、そっと後ずさって退室する。構わない。今ピカは私しか見ていない。


「マディソンの研究室に連れ込んでくれた時、ラフカが自分の身体を自分で切り刻んでいるのを見て、このやばい女はきっと私の何かを変えてくれると思った。色仕掛けして仲良くなって、やっとラフカがストライブ技師の資格をとった時、網膜を移植して磁覚の使い方を教えてくれた。汚い思惑通り私の殻はラフカというたった1人の人間がいなければ存在しないものになった。そのときから私の本性はこの左眼なの。私はラフカのもの。ラフカは私自身。ラフカの夢は私の夢。ラフカが見ている主観的世界を私も知りたかった。自分だけが知ることができる主観的世界を。そのためには私という大工が指揮を取るテセウスの船になるしかなかった。私が私であることを、一生かけてラフカに見ていてもらいたかった。好きだった」


 気づかないうちに、私は彼女の手を振り払うようにして立ち上がっていた。ピカは拳でベットの枠を何度も殴った。治療室の扉が開き、ドローンを連れたロビンが駆け込んでくる。


「でも最近私を置いていってばかり!」

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