第32話 天文塔からの眺め

 ウサギの挙動は昨晩のログを全て無くしてしまったかのようだった。セレスト時間朝の4時、寝室の天井から木漏れ日の演出が降り注ぐ。ベッドから落ちそうな位置で丸くなっていたピカが頬を袖で拭きながら寝返りを打つ。そして細く瞼を開けて、半分整ったシーツと、台所に立つ私の方をじっと見る。


「......昨日はごめん、眠れなかった?」


「いいえ。ピカこそ、目覚めはどう?」


 ベット端に腰掛けたピカにコーヒーを差し出し、配給されていた培養ベーコンを焼いて朝ごはんにする。彼女のあらゆる仕草に意識が持っていかれる。瞬きや欠伸といった些細な事が、私への警戒心の現れではないかと疑ってしまう。しかし、彼女はあまりに無防備に、差し出されたコーヒーを勢いよく口に含んで頷いていた。全てを打ち明けて壊してしまうには、あまりに美しすぎる日常だった。


「もう帰るの?」


「ロビンたちが報告を待ってる」


「何の?」


「ラフカの帰宅」


「外の護衛たちが伝えればいいじゃない」


「護衛は護衛。保安局があの有様なのよ、情報総局だって誰が信用できるかは究極のところ分からないってこと」


 彼女は事件の話はしたくないと言わんばかりに、長いベーコンをフォークでクルクルと巻いて、ニンジンで作ったオムレツを絡みつかせる。私もそれに賛同して口の中を食べ物で埋めた。


「で?」


「っ......!」


「なんでもう帰るか聞いたの?」


「それは......」


 ピカの目線は揺るがない。隠し事が全て曝け出されていく錯覚に襲われ、考えるよりも先に答えが飛び出す。


「提案が」


「いいよ、言って」


「ピカは、寝落ちした訳だし、私たちまだ仲直りしてないじゃない。1日遊びに行かない?」


 一瞬嬉しそうに口が動いたが、何か思い出したのかすぐに眉を顰めた。


「今週は出かけないほうがいい。本物の暴動が続いてるの。CMF社の支店があちこちで占拠されてる。大体昨日まで何処にいたの?」


「カオのところ。それこそジュラ・ホーンの護衛が付いてたし安全......」


「絶対やめて。あそこは第一の暴動の舞台、ことが収まるまで近づかないで」


 フォークが陶器に当たって鋭く振動する。静寂の末、先に謝ったのはピカだった。


「分かった。ごめん、何処に行きたいか教えて。それで向こうに確かめてみる」


 私は左脳で通信機を呼び起こし、早朝に彼が出てくれるかを心配しながら返事をした。


「私こそ。考えが足りなかった。でも安心して、むしろ騒動から1番離れた所だから。それに2人きりで色々と話したい事があるの。今までピカに秘密にしてた事」




 久しぶりの母校に興奮するピカを落ち着かせつつ、私は警戒体制で人気のなくなった馴染みの場所に、少しの不安を覚えていた。マディソン自由大学構内、天文塔を見上げる事ができる舞台広場、そこにピカが知らない秘密の入り口があった。


「嘘、ここ入れたの?」


「研究員ならね」


「あれ、ラフカ違うじゃない」


「だから彼に待ってもらっているの。ほら早く」


 宇宙戦闘機のような曲線美を描く耐熱素材が、庭園の人工空に突き刺さっている。この用途不明の建造物がなぜ天文塔と呼称されているかを知らない人間からすれば、ただの世代宇宙船時代の遺物の様にしか目に映らないだろう。いかに衝撃を与える見た目をしていても、いずれ慣れて意識の外に置かれてしまう類のものだ。しかし私はこの塔が、今は存在しない筈のセレスト装甲区画、それを利用した実験区域に繋がる神聖な扉であることを幸運にも知っている。怪訝な様子をみせるピカの背を押し、「サワルナ危険物運搬中」の看板がぶら下げられた小さな籠に乗り込む。空の液体窒素缶を足で退けて手を操作盤の近くに翳すと、四隅にタイヤが取り付けられた籠は警告を発することもなく、人間を根源的に不安にさせる風圧と金切り音に晒されながら激しく上昇した。



 コンクリート壁の5角形の監視室では、カオと3人の民間警備員が中央にある昇降口を向いて立っていた。緊急情勢下での無連絡の入室に、僅かに緊迫感を漂わせた彼らだったが、私の顔を見てすぐに銃を腰に戻す。ピカが唾を飲み込む音が聞こえたが、特に危うさもなく通行許可が降りた。そうして形式的な身体検査を終わらせると、職員証を胸に留めたカオが私に近づいてきて、軽いハグを交わした。


「無理なお願いを聞いてくれてありがとう。あなたの部屋を見て、もしかしたら大学の研究職も兼任してるんじゃないかと思ってた」


「いやあ、君は本当に保安局に出入りしていたんだな。正しくはアカデミーで助手をしているだけなんだけれども......それにしても第一層に旧装甲区画への連絡等があったなんて、どうしてうちの農業部の連中は教えてくれなかったんだ」


 ピカの視線を感じて私たちは絡み合った腕を解く。そしてカオはピカの片手をとって軽く振った。


「前に博物館に来てくれたと聞いたよ。入れ違いになってしまったのは残念だった。ラフカから色々聞いていたから、こうして一度会ってみたかった」


「......よろしく」


 困惑と警戒にピカの可愛らしい顔が険しく歪み始めたので、カオはそれ以上会話を続けることなく手荷物をまとめ始めた。私は壁に掛けられていた彼の上着を手にとって肩にかける。


「カオ、本当にありがとう。お礼もかねて今度ディナーでも」


「勿論。君の願いならなんでも聞くさ。今回はおかげで素敵な場所を知ることもできたしね。僕とのデートでないのが残念だけど」


 カオは襟を直すと、押し黙ってしまったピカの方を向いて爽やかな笑い声をあげた。


「邪魔してしまって申し訳ない。だが僕のことなんてあと少しとすればきっと忘れてしまうだろう。僕の恋人のセンスは完璧だ。では、楽しんで」


「ええそうするわ。本当に。じゃあ」


 ピカの機嫌は、昨夜言い合いになった時のそれよりも遥かに危険な状態になろうとしていた。私はカオに心の中で謝りながら、エレベーターに押し込む様にして別れを告げた。




 カオを乗せた籠が落ち、監視室のモニターに彼が映り込まないか見ていると、代わりに下層で彷徨くスーツ姿の人影が2、3ほど確認できた。私は一瞬警備員たちから距離を取るが、彼らは事情を知っているかの様に落ち着いた反応を示した。


「大学敷地内の事情に口は出させません」


 別の1人が立ち入り禁止のホログラムを折りたたみ、望遠鏡室に繋がる螺旋階段の保安ゲートを緑に点灯させた。


「ただ星はもうすぐ夜明けです、望遠鏡を覗くのはお勧めしません」


「大丈夫、今日は畑に」


「分かりました。ではルールは数年前と変わりませんから。第5号採光鏡を目安に実験区画の外に出てしまわないよう気をつけてください」


 コンクリートのトンネルを通り抜け、冷気の籠った望遠鏡室に出る。これがセレストの砲塔と言われても疑わない。巨大な円筒がドームの蓋に指向されたまま放置されていた。観測室に続く鉄梯子を登ろうとしたピカの腕を掴み、床に敷かれたレールに沿ってもう一つの出口を目指す。


「なに急いでるの?」


「きっと、もっといいものが見れる」


「ただの畑がそんなにいいものなの?」


「ゾフィーと私の秘密の園を、ただの畑なんて言わないで」


 私の言葉に、ピカの足取りが軽くなった。私たちは消毒液に浸ったマットの上を音を立てながら走り、気圧差に背を押される様にして、低く唸る庭口を潜った。


--セレスト号装甲区画・空上実験庭園--


「さむい!」


 望遠鏡ドームの土台に、灰色のペンキで大きく文字が書かれていた。踏みつけると塗料が粉になって飛んでいく。背中に感じていた風はいつのまにか、もっと大きな一つの流れの中に組み込まれていた。


 私たちはしばらく口を開けないまま、崖のように途切れたコンクリート壁の上に腰掛ける。白い息が私の前を流れて横目でピカを見る。見開いた瞳を紫に染めて、足は地平線の方に突き出されていた。


「目に見える壁が無いってこんなに怖いのね」


「居住区画の外に来たのは初めて?」


「直接グロムスを見た人なんて、数えるほどしかいないのよ。それを、まさかこんな近くで、こんな景色で。まるで本当に.....」


 複合映像なら彼女も経験したことがあるだろう。屋根はなく、地表を植物が彩る星のそれを。しかし不都合を残したリアルはその経験を遥かに超えてくる。並行脈の幅広い葉がドローンの散布に合わせて擦れる音が、彼女の無意識に呟くような言葉を霞ませる。植物は工場で組み立てられるもの、その非意図的に植え付けられた理解が彼女の困惑を生む。そしてキューブの隔壁を取っ払って造られた最外殻と、自然の微風が、真実を隠していたベールを心地よい音を立てて剥がしとっていく。


「信じられない」


 ピカは目線をセレストの地平線の方に下ろす。ところどころ採光窓や溜池で途切れているものの、数千メートル続くモロコシは圧巻だ。その縞模様が忽然と途切れた場所に、千年の旅に耐えた装甲殻の、継ぎ接ぎして修復された骨組みが吸い込まれていく。巨大生物の銀の肋骨の中に閉じ込められているようだ。その先に広がるあまりに広く黒い海は、人間の支配の欲望から護られるように隔離されていた。幾層もの靄が神秘的な暖色を纏い、幕となって新銀河の絹のような輝きを扇情的に隠している。ピカの目にはまだ手の届かぬ理想郷として映っているのだろう。


 もうじき、その幕を乱暴に捲る奴がやってくる。


「ぎりぎり間に合ってよかった。綺麗な星でしょ」


「これを見せたかったの?」


「そう。じきに終わるけれど」


「終わる......?」


 グロムスの自転周期はセレストの1日よりも3倍速い。変化はすぐに訪れる。艶やかな強酸のカーテンは雨となり、山吹色に色褪せたレースが細かくはためく。次第に地平線から新たな光のカーテンが現れ、霧が燃えるような青に染まっていく。


 ピカが立ち上がって、彼女の顔の半分だけが青くなった。


「青空だ」


「朝日の青よ」


 無音で霧の下に沈んだ海は、その表面から繊細で強大な白い炎の壁を育んでいた。パリダの朝日だ。海と空との境界が曖昧に溶け合ってゆく。懐かしかった風景が、破壊的な世界へと姿を変えてゆく。ここが第二の地球にはなり得ないことを知らしめてくる。眩しすぎる光は世界を刹那に美しく照らし、そして再び色を奪っていく。


「青じゃない。黒い太陽ね」


 ピカが本能で目を瞑ったとき、空を囲う巨大な肋骨がゆっくりと息を吸うように軋み音を立てると、外界の色が赤混じりの青に切り替わった。そして庭園上空のガラス壁のさらに外側で、今までただ大気流に煽られていた遮光盾が意思を持ち、ゆっくりと動き始める。作り出されたのは、セレストで日々過ごす中で慣れた人工空の色だ。それでも本物の太陽光は、畑の風景を再び望郷的な美しさに染め上げる。草の間から溜池の水面が繊細な光を散らし、私たちを呼んでいる。彼女は満足した様に溜息をつくと、塀からゆっくりと脚を下ろし、モロコシの茂みの中に全身を隠した。


「......こんな星、住めるわけないのは分かってるのに」


 私も塀から飛び降りる。ピカはしゃがみ込んで黒い土を掻いていた。人工的な団粒を指先に摘んで深く息を吸う。KMT、グロムスの鉱物とセレストの微生物が創り出した地球の大地だ。ピカの真似をして、モロコシの絹糸が頬にまとわりつくのもお構いなしに地面に手をついた。ひんやりとして冷たい。


「この畑もまやかし?」


 ピカがふと尋ねてくる。


「そうで無いと信じたい人たちが作ったものだけれども」


「素敵な考え方。未来が決まっていても、できると信じることに意味がある」


「褒めすぎね、運命も努力の先にあるというだけ。それを理解できる人は少ない。もし皆がそれを信じているなら、きっとまやかしが上手く出来すぎているのよ」


 それからしばらく、私たちは茂みの中をうねるように散歩した。望遠鏡の影を目印にまっすぐ地平線を目指し、ドローン散布機の音が近づいてきたら方向を変えるという具合だ。初めは手を繋いでいたが、葉っぱがくすぐったいというので、今は少し距離をとって彼女を追いかけている。だんだんと土を蹴る音が強くなって行く。転けないように、ピカの目に止まる美しい髪を追い続ける。そうして、生まれて初めて、息が切れるまでかけっこをした。


「ラフカ、セレストの意味は知ってる?」


 大きな溜池に突き当たって行く先を決めあぐねていると、ピカが水面を覗き込みながら私に尋ねてきた。


「色だったかしら」


「そう。元はチェレステ。意味は空の色。地上に降り立ち、それを再び見たいと願った人類が、私たちに負わせた崇高な使命」


「セレストの空は、青いわね。太陽が青いから」


「これで私たちの旅の目的は果たされたのかなって、ふと思って」


 答えられなかった。カオやこの庭園を作った人たちは、きっとそう信じて次の使命に立ち向かっている。私もカオたちとの関わりを通じてそれを目の当たりにし、残されたわずかな希望と彼らがもたらす運命に身を委ねたいと、心のどこかで思っている。しかし未来を悲観し、諦め、奮闘する科学者を馬鹿だと罵る人もいる。そして私はどちらかと言えば、後者としての立場を掲げて生きてきた。


「セレストの意味だけど、もう一つある」


 言葉に詰まっていると、ピカが続けた。


「メアリー・セレスト。有名な難破船。彼らは私たちがこうなることを予言していたのかもしれない。使命の代わりにそこにある結末は、人類の自己満足と、必然の消滅。その地球の帆船の乗員は、難破と同時に姿を消した。まるで、レーダー号のように」


「けれどレーダー号は帰ってきた」


「レーダー号はどこにも行ってなかった」


 パリダの白光を反射する透き通った池を背にして、ピカが私の方に向き直った。


「教えて」


 穀類の葉がざわめき立つ。実験を終えたライ麦の茎を押し倒して作った足元が、放電するような音を立てる。


「教えて。ゾフィーとラフカの関係を。なぜ私の親友は死人に囚われたままなのか。なぜ自分を生きようとしないのか」


 私は池の上を跨ぐようにかけられていた木の板からマリーゴールドの咲いた鉢を動かし、板橋がズレて行く前にその上に座った。くるぶしが冷たい水にくすぐられる。水音を立てていると、木の板がゆっくりと沈んで、隣に優しい体温を感じた。


「共感はいらない。理解して欲しいだけ」


「理解するだけ」


 ゾフィーに教えてもらった2人のプロトコルを確認して、私はこの場所の話から始めることにした。




「この場所は、ゾフィーに教えてもらった」


「それは、修士号を取ったとき?」


「いいえ。もっと前から。ゾフィーがCMFのラボを離れてマディソンで教えると決まった、その日のうちに。初めての夜は、あの天文塔のてっぺんに」


 振り返ると、私たちが出てきた望遠鏡が蓋をしてモロコシの畑に巨大な影を落としていた。


「ゾフィーは夜空を見るのが好きだった。研究資料の入った鞄を私に持たせて、惑星農学の教授と3人で何度もこの実験区域に登った。当時は系外探査計画の最盛期で、ペイル基地から飛び立つ無人探査船の光が霧を突き破っていく様によく涙したわ」


「覚えてる。回帰派のテロの直後でしょ、打ち上げのセレモニーはあの悲劇を忘れられる麻薬みたいなものだった。私もシアターで何度も見送った」


「そうね。あの時は誰もが人類による宇宙支配の再来を予感して、希望を求めて展望台に集まった。でもゾフィーは、ただただ宇宙に思いを馳せるのが好きだった訳じゃない。確かに客観的生命体の概念を生んだ、いわゆる宇宙人論文を発表したときから、彼女はこう呼ばれる様になった。心を宇宙に置いてきた心理学者。それは間違いじゃない。けど」


 私はシャツのボタンに手をかける。ピカは私の手の動きを追って静かに視線を下ろしていった。


「ゾフィーが宇宙を好きだったのは、私に対する贖罪の念があったからなのよ」


「ゾフィーからラフカに......?」


「私は幼い頃、小説を読むのが好きだった。特に人類が大地を飛び出し星々を開拓する冒険物語が。そして漠然と、太陽系宇宙探査船の乗組員に憧れていた。15になってアカデミーに入学したときも、その夢は私の大切なアイデンティティだった。だけど直ぐにそれが、他の可能性を排除して作られたものだったと知ることになった。家にあったのはを舞台にした小説や雑誌ばかり。もちろん本の内容に嘘はなかったし、歴史は大事。それにこの通り賢い娘に育った。だから客観的には悪いことじゃない。だけどこの手の知識は、幼い脳に植え付ける目的によっては猛毒になる。本に書いていることを超えた知識は、怪しい大人たちの手でいとも簡単に捻じ曲げられる。そして本当に不幸なことに、私の両親は回帰派のメンバーだった」


 水面に投影された自分の顔が醜く歪むのが見えた。チタン製頬骨を入れた時の縫合部が剥がれるような気がして、何度も唾を飲み込み口の形を元に戻す。ピカの視線が離れて行くのが分かる。冷静にならなければ。記憶を言葉に変えてただの事実に落とし込むのだ。


「新政権下の平和の50年、その終盤に差し掛かったあの1日、あの年唯一の重大犯罪が起きた」


「回帰派の、暴動」


「あれは暴動じゃない。グロムスの放棄を訴える回帰派閥の連合パーティーが市民を騙し、3層警備隊と政府高官を巻き込んで起こした集団抗議自殺。中央ドックの発着口露出は、文化地区とドックの隔壁を閉じてから行なわれるはずだった。テロになったのは、騒乱を起こすためにカルトを引き込んだ馬鹿がいたから」


 息をついて、ピカの様子を確認する。彼女は黙ったまま唇の両端を尖らせて笑ってくれた。


「知ってると思うけど、私も、あの日あの時間、酸の雨が降り注いだ文化地区にいた。私の両親もそこにいた。親は2人とも逃げ惑う人に押し潰されて死んだ。それを目の前で見ながら、肺が焼けるように熱くなって、腐った匂いに息ができなくなって、体から感覚が消えていったことだけを覚えている。それでも私は歩き続けていたらしいわ。そのおかげかしら、偶々審議会に出席していたゾフィーが、死の泉と化したドックの方へ向かう1人の若者を見つけて、自分も火傷を負いながら彼女を輸送車に乗せてくれた。この話をすると皆同情してくれる。私や両親がテロリストとしてその場にいたということは、誰にも言った事がなかったから」


「ラフカはテロリストじゃない」


「テロリストよ。本気で、セレストは惑星グロムスを捨てて、他に住める星を探すべきだと信じていた。それを妨げる議会は人類の敵だと」


「違う! 悪く思わないで。でもそれは全部親のせいでしょ」


「親のことは当時も自業自得だと思ったわ。それでも、思想は私を形作る不可欠なピースのひとつなのよ。当時の私には、自分の過去を否定することはできなかった」


「......ゾフィーに助けられてからは?」


「ゾフィーは決して私の穢れた夢を否定しなかった。人に対する憎しみも、自傷癖も、それを否定して欲しいと言うと、彼女の仕事ではないと。ゾフィーが私に命令したのは、ただ一言、これからは自分を母親と思って欲しいとだけ」


 私はシャツを脱いだ。丸めて岸に投げる。左肩にピカの指が優しく触れて離れた。彼女の目線が、首の付け根から私の左眼に這うように登っていった。


「ゾフィーの宇宙好きは全て私のため。物理心理学を教えてくれながら、審議会がある月末には必ず技能総局の宇宙工学部門に私を投げ入れてくれた。研究が煮詰まったら私を連れてこの庭園に登り、将来の夢を語り合った。いつか2人でハードプロブレムを解決し、そして2人で宇宙に飛び立とうと」


 この場所もそうだ。ゾフィーと語り合いながら、何度も泳ぎの練習という名の水遊びをした。天文塔のカバーがブザー音とともに閉まるのを見て、2人で慌てて体を乾かしあったものだ。よく覚えている。この場所を訪ねて記憶に蘇る彼女は、コンマ秒の隙もなく、正真正銘私の母親だ。私は立ち上がる。ピカが慌てて木の板の端を手で掴む。


「有人系外探査プロジェクトの話が議会で持ち上がり、乗組員の意思決定補助システムの設計者としてゾフィーが指名されたときは人生で1番幸せな瞬間だった。2週後には、彼女はレーダー号の搭乗者候補として選ばれた。私の夢は、ゾフィーが先に叶えることになった。あの日は初めて、探査機の射出を文化地区で観たわ。そして別れ際にゾフィーが言ったの。それまでの彼女の信念からは考えられないことだったわ。最悪の記憶を最高の経験で上書きしなさいって。例え過去と同じように未来はもう決まっているとしても、そこに正しく辿り着くと信じるために、人生を新しくするターニングポイントを逃してはならないと」


「でも......」


「そう。ゾフィーは私の夢を叶えた引き換えに、帰らぬ人となった。私に残されたのは、ゾフィーの夢と、彼女が成し得たはずの正しい未来。他人の人生を生きた1人の恩師の、成し遂げられなかった方の人生」


「ねえ、聞き飽きた質問かもしれないけど、許して。本当にゾフィーは、それを望んでるの?」


「望んでないでしょうね、でもゾフィーはもう死んだのよ。彼女の意思なんて知らない。私は自分の意思で自分に使命を課しているの。だから、私が今死者に囚われてるなんて誤診もいいとこよ」


「ならどうしてそれを望むの?」


「さあ。ただ、物理心理学を極めて自己の存在に切り込んだゾフィーが、どうして私如きのために自分の人生を投げ出したのか、同じように生きることでその理由を知ろうとしているのかもしれない。でもこれは無意識の意思よ。そう望むのは過去の経験からもたらされた必然」


「じゃあ、ラフカの夢は......?」


「ゾフィーの夢を叶えること。それが煽動事件やレーダー号事件と繋がっている気がするから、私はその真相を追う。ゾフィーは私の知らないところで、最後に何かに辿り着いた。そして自由な未来を諦め、自由不意思の存在を否定した。けどそれは絶対に彼女の到達点じゃない」


「つまり、ラフカのやり方でゾフィーを否定するってこと?」


「いいえ。ゾフィーのアイデアは受け入れることはできないけれど、言葉は正しいと思うわ。だって主観の正体が不意思だとしたら、自分らしさってただの枷よ。そんなの馬鹿らしいと思わない?」


「何か成し遂げるなら、枷は外さないとね」


「そうでしょ」


 私は板から落ちないようにバランスをとりながら、今度は靴を脱いで岸に投げた。ピカも履いていたサンダルを蹴り飛ばす。


「私のこと理解した?」


「理解した」


「嘘つき」


「ちゃんと理解した。ラフカはラフカだった」


 私が水に飛び込むと、板がひっくり返ってピカも背中から水中に沈み込んだ。下から見た世界は音を失い、白泡と波の動きに合わせてカオス的に動く光の模様が粗暴な太陽の下にいることを忘れさせてくれる。義手で重くなった体で池の底まで沈み、浮力を感じながらピカと戯れた。ピカが少し鬱陶しそうにオレンジのシャツを脱ぐと、それは透明な水の中で生きているように皺を作った。


 それから突然、目の前で何かが翅を広げた。


 思わず手を伸ばす。指をすり抜けたカラスアゲハ色のビロードは、水分子の振動に細やかな繊維に分かれる。虹色の膜を帯び、水槽の底に沈んでいく。暫くぼうっと見つめて、それが何であるかに気づく。FWチップだ。


 私の、いやゾフィーの?


 ピカのものであるはずがない。


 家に置いてきた、禿男のチップか?


 ピカが大きく水を蹴って浮かび上がる。それを追って上を向くと、覗き込む黒い人影が見えた。大きな傘を頭に被り、シルエットでは誰であるか全く判別できない。判断が遅れた瞬間、ピカの体が再び水に沈み始め、その右肩あたりから太く赤い糸が繰り出されていた。


--敵よ、接触して--


 本能とともに水槽のへりに爪を立てる。壁を蹴って水面に顔を出す。ガスマスクをつけたおどろおどろしい顔面がぬっと私を覗き込む。


「そいつよ!」


 泡を吐く音で途切れながら、ピカの甲高い叫び声が反響した。


「撃って、ストレンジのっ......!」


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