第15話 覚醒

 かなり長い間、夢の中にいた。


 そこで行われていたのは記憶の再現だった。そこには特定の「いつ」というものはなく、私の経験に幾重にも刷り込まれた時間の投影に近しい。主観と客観の混在する不確定な立方体の空間だった。


 暫く観察して、太陽の斜陽から漂う古めかしさから、マディソン大学の研究室かと思われた。いざそう思い込むと、前後に連続する事象についてアイデアが浮かび出す。そして、それが既知のことかのような感覚になっていく。


 私は、ゾフィー教授が講義から帰ってくるのをずっと待っていた。体感では数日もの間、記憶の中には残されていない、壁一面に取り付けられた本棚の前を延々と行ったり来たりしていた。不思議と疲れは感じなかった。


「ラフカ? ごめんなさい、待たせたわね」


 あるとき、ゾフィー教授の像それ自体は現れなかったものの、部屋の中で彼女の声がした。声に違和感があった。柔らかで、記憶に残っているものよりも随分と若々しかった。ゾフィーが亡くなった後、私の記憶の中で彼女が歳を取っていたのだろうか。あるいは声の主は私が実際に出会うよりも以前のゾフィーなのかもしれない。しかしその振る舞いは、研究室で寝食を共にしていた時の彼女そのものだった。


「ラフカでも分からないことって、一体なにかしら」


「私は......」


 言葉に詰まる。既に頭の中に用意されていたのは、ここ数日で出会ったあらゆる人から向けられた、同じような疑念の数々だった。私の意思を信じて良いのか。精神場の在り方を信じて良いのか。私は、他と違うのか。しかしこれらは所詮他者に持ちかけられた問いに過ぎない。もっと本質的な、誰かの主観に投影された私ではなく、純粋な私の心に引っかかる疑問を探す。結局口から出た言葉は、私が思う中で最も最悪で無駄な問いかけだった。自分の作り出した精神場との対話に過ぎないと分かっていたが、どうしてか大切な選択を取り違えたかもしれない焦りが背を伝う。しかし一度出した言葉は、いかに夢の中であるとはいえ取り消すことはできなかった。


「私は、夢を見ているのですか」


 返事の代わりに、水に溺れるような感覚がする。振り返ると、数日間白光を放ち続けていたとは思えない速さで窓の向こうが青ざめていく。その青は沈みかけた太陽光の散乱のようで、しかしそこから更に色が暗くなることはなく、最後にはまるで質量を持つかのようにうねり出した。


「難しい質問ね。見えているものしか見えないのだから、人は今この瞬間を信じるしか無いわ。それとも、ラフカの見ている世界には、疑うべき何かがあるのかしら」


 轟音と共に窓が割れる。白泡を立てて流れ込んできた蛍光ブルーの液体に飲み込まれて、私は目を覚ました。




 ドーム状の治療室に私は横になっていた。恒星パリダを思わせる真っ白な間接照明が、頭上から半球空間を清潔に照らし、グロムスの自然の朝を演出している。寝起きとは思えないほど妙に冴えた目であたりを見渡すと、取り外され、水槽に沈む私の左腕が見えた。だんだんと現実の記憶が鮮明になってゆく。ゆっくりと、ホルモン受容パックや義体整備液に浸された下半身から、胸の上に伸びた医療ドローンのアームの方へと視線を動かしていく。そのとき、部屋の隅に立っていた1人の男と目があった。


「どうも、対面では初めましてだね」


「......ジュラ・ホーン委員」


「そろそろ起きる時間だと聞いて。ああ、起き上がらないで。身体はあと少しの部品さえ揃えば完全回復と言っていいが、まだ薬の方が抜けきっていないだろうから」


「どれくらい経ちました?」


「それほど長くはない。だいたい30時間だ」


 私は軽い目眩を感じながら、再び、生物学的に清潔が保証された硬いベッドに背をつけた。


「エドメは生きていますか?」


「なんとかね。あれは、話せるようになるまで数日はかかるだろうな」


「もう1人の男は?」


「逃したよ。だが君に付着していた体液から身元は分かった。船外農地開拓シミュレーターを開発していた、プシケ社系列の社員だ。それから念の為、保安局監査部門が現場にいた警察職員全員と、ホログラム参加では無かった会議参加者の記憶装置を解剖しているが、何か出てくれば私に知らせるよう言ってある」


「そうですか」


「......ロビン君のことも気にしてあげなさい」


「彼は大丈夫なんですか?」


「もちろん。何か閃いたらしい。早速ベッドの上に地図を広げて、暴動と同時発生した事故事件を整理してくれている」


 ジュラ・ホーンは私のベッドの枠に腰掛けた。私は静かに、彼の報告を待った。


「君に話したいことは2点ある。まずは謝罪をさせてくれ。色々あってリント委員が囮作戦に成功したものだと早とちりしてしまってね、興奮する彼を鎮めるために、私の立ち会いで博士の記憶装置の解剖を行った。ところで君もあの時、煽動犯によるFW干渉の有無を確かめるために、本当に彼を殺そうとしたね?」


 私はなんと返事をしたものか困ってしまった。幸い、やや血圧が上がっているらしい委員はすぐに口を開いた。


「よくぞ思い留まってくれた。あの状況でトリガーを引いていても、環境要因が多すぎて作戦成功とは言えなかっただろうね。唯一の証人を死なせた挙句、怪我とペグによる薬品投与が君の判断能力を低下させただけだったとなれば、この作戦は打ち切りになるところだった。暫く内務総局からの監視が強化されるだろうが、これは博士の判断について責任を問うものではない。むしろヘパイストス(かっこいいだろう? 私が名付けたんだ。関連部門の頭文字のアナグラムだよ)は今回の件で君を高く評価している。博士を招聘してたった5日。たったの5日で、FWを克服した人物の身柄を拘束したんだ。今後もおおいに期待しているよ」


「光栄です」


 私が銃を撃たなかったのは、ただペグに邪魔されたから。そう確証を持って言うことはできず、私は頷いた。それから、ペグと聞いて気がついた。視界が明瞭な気がするのは、目に映る風景の中に青文字の通知が一切ないためだった。


 ロビンが撃たれた時、ペグが私に出したコマンドは、マスターである私に対して現実の危害が及ぶ可能性が容易に予測できた類のものだった。ましてペグは私に昏睡覚醒周期を操作する興奮剤を投与したのだ。こうした動作をAIが故障せず実行できることは絶対的になく、更に修理の際には人の手によるプログラムの矯正を行う必要がある。次の支援型AIは無口な性格だといいのだが。


「もう一つは、君にとって嬉しい話だ。こちらも私の独断で、2人の新メンバーを正式に雇うことになった。随伴技師としてシャニーアを、そして行動員にピカ君を。ああ、ほら、怪我人は起き上がっちゃだめだって」


 額を押さえて呻き声を上げた私を、委員は優しく寝かせてくれた。


「ピカ君を外で待たせている。次の任務は君たちが回復して、かつエドメが目を覚ましてからになるだろう。ゆっくり話をしてわだかまりを無くしておきなさい」


 委員と入れ違いに、治療室には不釣り合いな格好をしたピカがゆっくりと入ってきた。靴は履いていたが、一昨日シアターで会った時と全く同じ服を着て項垂れている。入り口で立ち止まったままこちらを見ているが、何も喋ろうとしない。普段の酔った姿とはあまりにもかけ離れた様子の彼女を一目見て、わずかな安堵感とおかしさがあった。なぜ技能総局の執務室にいたのか、そしてなぜ二度も私を疑ったのか、その訳を問いただす言葉を用意していたが、それはどこかに消え失せてしまった。


「思ってたよりも大分早かったわね。待ってたわよ、ピカ」

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