第1章 自由不意思
第1話 ヤブ医者を名乗る女博士
宇宙一安全が保障された人生初の宇宙旅行は、想像していたよりも遥かに退屈な経験だった。
私が冷めた性格だというのはあるだろうが、期待した半分の感動も得られなかった。まだ離陸して15分ほどだったが、客席の丸窓を、機体を削るようにバチバチと弾ける火花と、その奥のおよそ青空とは呼べないような薄黒赤いカーテンが覆っていた。
数世代前の旅客機ならではだが、首から上に個人用の生命維持装置の感触が一切無いのも気持ち悪い。僅か数センチの装甲壁一枚を挟んで永遠に続く暗闇と虚無が広がっていることを想像する。伸縮性のある半径数メートルの筒は、内側からかかる気圧に耐えなければならないのに、そこに観光用の巨大な穴を開けた設計者を恨んだ。
ある程度慣れると恐怖心は完全に消えた。無機質な白い客室の照明が暗くなり、ガサついた機械音声が軌道に乗ったことをアナウンスする。辺りを見渡すと、反対の座席の向こうに一面氷に覆われた青白い大地が広がっていた。私が今までいたのはどこの星だろうか。機体の重たい振動が止んで背中を引かれるような強い力を感じなくなってからは、脳の興奮は偉大な銀河文明への尊敬の念へと置き換わった。完全無風の中、私の意識は滑るようにして星屑の漂う宇宙へと流れて行く。どこを目指すでもなく、ただ人類の数世紀にわたる探索の軌跡と可能性に圧倒された。窓という平面の上をひたすら流れるだけの煌めきは情報量としてはとてもチープで嘘っぽく、そして私にとっては他の何よりもリアルだった。
リアルな退屈さは現実世界に留まっていた情動に直接働きかけてきた。絶景への感動は一瞬にして過ぎ去り、今まさに経験していることとは何の因果関係もない、説明し難い不愉快さが込み上げてくる。先程までの高揚感を取り戻そうとぼんやり窓の外を眺めていて気づいたのは、機体に乗る私にも機体そのものにも能動性というものが存在しないことだった。指を一本動かせば、この不気味な程に快適で無意味な旅を終わらせることができる。そう思った瞬間、目の前に暖かな色をした小部屋が現れ、宇宙船の古臭い香りは電池と今朝ぶりのパンの匂いにかき消された。
私が今現実にいるのは、セレストの田舎町の一角にある診療所だ。
ニューエニスは古風な、より今の感情に即していうなら、停滞した街だ。第二層の三大テックの工業地帯に匹敵する容量がありつつ、居住人口は30万。コロニーの採光窓を支えるキューブの中にはホログラムの代わりに洒落た看板が店頭に並び、トラベレーターは石畳の大通りの下に隠されている。区画ごとに小規模な植物園もあり、街を満たしているのはコーヒーやインドカレーの匂い、そして昼間から顔を赤くした人々だ。
居住地区を歩くと、大きな出窓に蔦を生やしたマンションが入り組んだ路地を演出する。高速トラベレーターを降り損ねてうっかり街を出てしまうようなことがない限り、高さ2キロ近くある鉄塊の中に居ることを忘れていられた。心なしか、遥か頭上から反射を繰り返して古くなった陽も、部屋の奥に柔らかく差し込んで温かい。
旧友たちはこの一見自然的な生活を羨む。しかし実際のところこの周期化された社会はセレストの他のどのキューブとも隔離されており、見た目に反して最も機械的な仕組みのもとで成り立っている。首都で青春時代を過ごした私からすれば、ここでの生活は現状の終わりの実感が得られない学生時代の延長のようなものだった。
私は午前の仕事も特になく暇を持て余していた。今日の患者は午後に1人。同じビルに住んでいるアカデミー生が恋愛相談にやってくる。近所に流行りに詳しい歳の近い女性がなかなかいないのだという。同僚は皆仮眠をとっている時間で、起きているのは階下にいる話せない事務ドローンの2機だけ。こうした日は、ストライブ療法に必要な投影機や立体送風機、医療用チップの類が埃と磁気にやられてしまわないように適当に電源を入れて、電子神経系の設定をリセットし、自分の好みの仮想現実を楽しむのがいい。
この人1人がピッタリ入る椅子付きの円柱形マシンは、心的外傷後ストレス障害の治療用に何十世紀も前に発明された今となっては非合理的なしろものだ。それが義体化のブームに伴って「人間に本来あったはずの尻尾を生やしたい」だとか「ピアノを弾くための3番目の腕が欲しい」だとか、中には「第六感を手にしたい」など不可能なことを要求してくる輩もいたが、身体機能の拡張に対する欲望のあれこれを叶えるための訓練装置となっていた。
物理心理学者の資格証を受付に貼っているが、実際やっているのは脳科学やバイオハックの類の行為で、こんなことは私の専門ではない。物理心理学という字面だけを見た保安局の社会復帰プログラム担当者たちに、セラピストかストライブ技師かの2択から仕事を選べと言われ、仕方なくその分野に詳しい幼馴染がいた方を選んだだけだ。私の専門知識を本当に仕事に生かそうと思うなら、それは彼らと同じ立場に立つことであり、警察最大の皮肉が生まれていたことだろう。
旅行気分が味わえると思って、おそらく最後に本来の目的で再生された日は数世紀前まで遡るであろう、「航空機(正確にはスペースプレイン)恐怖症」治療用の経験を選択したことは大きな医療ミスだった。とは言っても私は特に空を飛ぶことに恐怖を感じていない。問題は窓側の席に座らされたことと、窓から見えた満天の星空だった。
マシンが出力する情報の中で、唯一感触や音を発しないそれは、私の脳が勝手に起動させた統合作用によって最もリアルな体験を生んだ。他の情報、例えば機体を再現した不規則的な振動や空調のカビ臭い匂いなどは、経験の意識の隅にも残らなかった。セレストの外にひどく魅了されていた頃の、生の脳からはほとんど情報を引き出せないような古い感覚が鮮明化されてしまい、私の精神場を包み込むように干渉してくる。せっかく最近はニューエニスの時間の流れに順応していたというのに。
マシンの電源切って、体を無性に動かしたくなって、休憩室の隅に簡易的に打ち付けられたキッチンに立った。生活課から支給された天然の卵とボウルとを手に取り、その先の工程を思い浮かべてそれらを元あった場所に戻した。気分を切り替えようと一度廊下に出て、そのままエレベーターに乗り診療所の食堂としても機能しているパブに向かうことにした。
「あ、先生、暇ですか」
食堂に向かおうと廊下に出ると、皺だらけの白衣に身を包んだ院長がノックをまさにしようとしていた体勢で立っていた。不機嫌そうな目で見上げてきた彼女の髪は左だけ跳ねていて、頬に織物の跡がついている。
「ええ、何か用ですか」
「はい。先生に客がきていて」
「珍しいですね。準備しますので5分後にこちらに通してもらえますか」
「あ、いや、そうじゃなくて」
私がドアの裏にカーテン代わりに掛けていた白衣を片手に持って、診察室に戻ろうとすると、彼女は忙しく身振り手振りを加えながら言葉を付け加えた。明るい色に髪を染めた彼女は、私より4つほど歳下だ。地方で経験を積むために首都の大学から派遣された資格をとったばかりの新人だったが、流石にその知識量は実務に限れば十分過ぎるほどで、腕も確かだった。
「患者ではないんです。今は私の部屋で待ってて」
「わかりました。すぐ向かいますね」
「あ、はい、すみません」
彼女は私に対して話すときに絶対に目を合わさない。頭ひとつ分私の背が高いせいもあるが、彼女が学んできたのは新方針に基づく純粋な心理学で、人間の自由意志を物理的に解釈することに対して倫理的に拒絶感を抱いているようだった。
私が学生だった頃には、物理心理学者は「進化ルートの開拓者」などともてはやされていたものだが、それからたったの数年しか経っていないにも関わらず、今の大学生は精神場理論を「証明不可能」な机上の空論だと教わっている。
お互い同じ技師に落ちぶれた今、彼女とは心を割って話したいのだが、なぜか人間科学者でありながら人付き合いが苦手なところまで似ていたようだ。彼女と議論すると時々学問分野的に見下されているような感覚に陥る。もっとも、私自身も物理心理学を学んだことを特段誇りに思っているわけではなく、それを自然と受け入れてきた。開拓者という称号も、響きが長くてダサいのはもちろん、かつて人類が惑星グロムスに植民を始めたと同時に廃れていった栄光の宇宙学者らの跡をそっくり追っているようで、嫌いだった。
院長室はガラス張りの部屋だ。誰かの視線がないと仕事ができないのだと言って彼女が改装させたものだ。ハーフミラーやホログラムで中が隠されている訳でもなく、いつもなら夜遅くまでカルテを整理していたのであろう院長がそこに突っ伏しているのが見えるはずだった。
事務室のドアのところでもたれかかるようにして待っていた院長と合流した。今日は、積み重ねられたフィルムを押しのけるようにしてデスクに図々しく腰掛ける男と、その前に姿勢良く立つ若い男の二人組の様子がオフィスに入った瞬間からよく見えた。1人はよく見知った顔だった。私がため息を漏らすのと同時に、肩のあたりから軽い舌打ちが聞こえた気がした。
カツカツとわざと足音を立ててオフィスの中心に向かった院長の後方で、私は立ち止まり、入り口のコート掛けの背後に立て掛けられた姿見をみる。
映っていたのは、病的なほどに真っ白な肌に、火傷跡の残る胸元、義手の継ぎ目が顕になったタンクトップ姿だった。顔とスタイルだけはいい。それ以外はあまりにも見ていて痛々しかった。落ち込んでいた気分がさらに自虐的な重みを増してきて、白衣を取りに戻りたい意欲が起こる。非現実を求めてやって来る患者たち相手になら、この格好も嫌いではない。どうしてかは分からないが彼らは乱れた格好をしている時の私を信頼と称賛の眼でじろじろと眺めてくれる。それに対して今から会う人物は、私が社会的にふつうから隔離された性格を見せることを仕事柄嫌がっている。そしてそれをすぐに口に出す。自分でも理解している物事について、本人の感想ではないにしても、責めるような言葉で指摘されるのは好きではなかった。しかし、どうせ白衣を着たとしても左の義眼から無意識に放たれる冷ややかな視線を覆い隠すことが出来ないことを思い出した。
長い黒髪を雑に纏めていたペンを襟に引っ掛け、それ以外は面倒くさくなって、やや早足な院長の後ろを追いかけた。
「ラフカ、久しぶりだな。どうだ、新体制には馴染めたか?」
「ダン、私の心配をするならまず彼女に迷惑かけないでちょうだい」
保安局生活課の制服を着た中年の男は、院長が山が崩れてしまったデスクの上をあからさまに片付け始めても立ちあがろうとしなかった。私は彼の腕を引っ掴んでしっかりと二本足で立たせた。彼は私が社会復帰プログラムの対象者になった際に担当になった監察官だった。酒癖が悪く人情のある男だ。そんなダンの連れとしては、もう1人の男はどうも似合わない。黒いコートに身を包み、制服の模様を見ることはできないが、顔を見ると青い識別子が視界の隅に映った。セレスト第一政府の官僚だ。
「初めまして。臨床工学技師のラフカです」
男は青白く頬のこけた顔でじっと私を見つめてきた。少しモジャついた油気のある髪に、私よりも頭ひとつ高い位置に広い肩が壁を作っている。しかし体格は痩せ型でいかにも研究室に篭っているような雰囲気だった。男は沈黙を続けた。院長に助け舟を求めると、彼女は大男を前にして完全に萎縮していた。不意に額から爪先まで見定めるような視線を感じた後、ブルーグレーの視線が私の目を射抜き、その瞬間男はうっすらと笑みを浮かべた。見かねたダンが彼の名を教えてくれた。
「ラフカ、君のプログラムは本日の転属命令を以て終了することになった。彼は今から君の部下になるロビンだ」
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