終焉へのフロントライン

草薙 刃

プロローグ~雪山にて~


 西からの風に流されていく小さな雲の群れが続く。その向こう側には吸い込まれんばかりの蒼穹そうきゅうがどこまでも広がっている。

 視線を下げれば水平線までを埋め尽くすように、未だ多くを雪化粧に包まれた木々が生い茂る寒冷な大地がひっそりと生命を育んでいた。

 辺りの針葉樹林帯には春の芽吹きを待つ植物だけでなく、小さな虫から鳥、それから大小の動物と魔物・魔獣が混ざり合い、ひとつの大きな生態系を織り成している。


 深山の小さなせせらぎから端を発した流れは静かに渓谷を下り、次第に川幅を増していく。そうして緩やかになった流れはいくつかの沼や湖、湿地帯の間を通りながら海へ向かい流れを続ける。

 惑星が生まれてから繰り返してきた営みのひとつが、この山岳地帯から始まっていた。


「イヤな空気だ……」


 小さなつぶやきが冷えた空気の中に消える。


 時をほぼ同じくして低い鳴き声が山間やまあいに響き渡った。次いで一羽の大きな鳥が空気の薄い虚空を静かに滑っていく。

 翼を広げて空を舞うのは、鳥類に詳しい者が見れば目を見張ったであろう、“アルター・レイヴン”と呼ばれるワタリガラスの一種だった。

 本来であれば、このミズカルズ共和国から遥か南方のアウリク大陸の沿岸部から奥地にかけて分布住するはずの種が、なぜ北半球の空を悠然と舞っているかは定かではない。

 不意にワタリガラスは翼を鋭く畳み、目的の場所を目がけて一直線に舞い降りる。獲物を狙う速度ではないが、その姿は大空を支配する者の威容にも似ていた。


「……ご苦労さん。あまりよろしくない気配だな」


 降り立った崖のふちで、小さく鳴いた鳥に応じる声。よく見ると斑模様まだらもようの衣服に包まれた腕が伸び、そこにワタリガラスがそっと掴まっていた。

 もしもこの場に余人がいれば、ここで初めて岩肌と同化する色合いに染め抜かれたカンバス生地を被った男の姿に気付いたかもしれない。

 また男とわかったのも声が発せられたからで、たった今“相棒”の帰還に反応しなければ、身じろぎひとつしない男の存在は世界からも切り離されたままだった。


「なんだか近頃山が騒がしくなってないか?」


 独り言にしては問いかけるような声の響きは、年若い青年のものだった。

 カンバスに身体を隠しながら双眼鏡を覗き込んでいるため容貌は把握できないが、言葉の端々から感じられる気配はまるで世間を倦んで隠遁した老人のようにも感じられた。


「生物災害の兆候じゃあるまいし、また馬鹿どもが魔獣の生息領域で何かやらかしたんじゃないだろうな……?」


『それはないのでは?』


 すぐ近くでもうひとつの声が上がった。

 人の姿はどこにもない。他の何者かが男同様周囲に同化しているのかといえばそうではなく、彼以外に人の気配は存在していなかった。

 なによりも――男の視線が向いた先には、今しがた舞い降りたばかりのレイヴンの姿があるだけ。

 そう。喋っているのはカラスだった。

 もっとも、鳥の喉では人間の言葉は発することができず、魔力の波に思念を乗せているに過ぎない。


『おまえが十年前、帝都ベンゲルンを派手にぶっ潰して以降、あんな無茶苦茶な魔力フィールドはこの世界に発生していない。なんでもかんでも誰かの思惑が絡んでいると疑うのはいただけないぞ』


 煩わしそうな感情の波が男に寄せられる。

 この場の会話だけでなく、もっと他の何かがカラスにそうした物言いをさせているとわかる響きだった。


「へいへい、そうですかい。“大戦”帰りの悪い癖だよ。……だけど、何度も言ってるが、俺は自分の好き嫌いでベンゲルンをぶっ潰したわけじゃないぞ。


“相棒”とはまた別の感情――昔の記憶を掘り起こしたくないのか、男は表情を歪めながら答えた。


『わたしは知らないよ。あとから話に聞いただけだ。あいにくと


 小首を傾げてカラスは飄々ひょうひょうと語る。つくづくどうしてこの妙な相棒と自分が一緒にいるのか、付き合いはそれなりに長いがいまだにわからない。


「……当時はそうだったか。だったらもっかい説明してやる。首都を直接攻撃されないよう、帝国のアホどもが対軍防御結界と使役獣波増幅装置も兼ねた魔力装置にしやがったからだ」


“相棒”の反応にわずかな苛立ちを交ぜつつ男は答えた。あまり積極的に思い出したくない記憶だった。


『わたしが言いたいのはそこじゃない。そもそも無茶苦茶な方法で結界を突破したんだろう? そんな人間が今さら釈明しても白々しいだけだぞ』


「ああそうかい。だったら当時参謀本部にいた連中に文句をつけてくれ。これでも俺は業界じゃあミスター常識人で通ってるんだ。アレだってたまたま上手くいっただけさ」


 発案者は自分ではない。だからこそあのように無茶苦茶な作戦を他人にやらせやがったのだ。

 せめて一発殴っておかなかったことが今になって悔やまれた。


『命令があったとはいえ、そのまま実行するのがおかしいと言っているんだ。普通なら結果は同じでももう少し穏便な策を考えるものだろう?』


「それは結果論だろ。ああでもしなきゃ今頃この大陸は焦土になっていても――」


 溜め息交じりの声を塗りつぶすように、遠くで山の斜面が“爆発”した。

 周囲から羽を休めていた鳥たちが驚き飛び立つのと同時に、腹の底を震わせるような咆吼が上がり大気そのものが震える。


『フム、この反応……。結構な大物が出て来たな』


 レイヴンが語気を鋭くしてつぶやいた。

“ふたり”のいる場所から少し離れた場所に現れたのは、遠くから見れば大型の蜥蜴のような生物だった。

 もっとも双眼鏡なりを覗けば、すぐにその見た目が生易しいものでないと気付くはずだ。

 頭部からいくつもの刃物を思わせる鋭い角を生やし、背中には鎧としか思えない鱗が変形したものが背骨に沿って並んでいる。身体の大半は海棲生物を思わせる硬い体毛に覆われており、どう見ても人類の生息域で見られる尋常の動物とは異なる仕組みで動いている。

 それが今――人里を目指して木々を薙ぎ倒しながら突き進んでいる。


「くそったれ! 竜もどきデミ・ドラゴンじゃないか! 大型魔獣の生息域は山向こうだぞ!? やっぱり何か起きているんじゃないだろうな!」


 青年は上体を起こして忌々しげに叫んだ。

 人間が個人でどうにかできる相手ではない。軍隊を呼ぶべきだ。

 それでも男は、常人ならば本能が恐れを抱き身動きすらできなくなる化物を前にして怯まなかった。

 西のふもとにはいくつかの村落、もうすこし北上すると小さな町が点在し、絶え間なく流れていく外界の出来事から逃れるように、ひっそりと住人たちが暮らしている。

 竜もどきを放っておけば、村落のひとつやふたつくらいは瞬く間に壊滅する。隠遁同然とはいえこの地に住まう者としてそれは看過できなかった。


『偶発的にここまで下りてきたか、帝都が吹き飛んで拡散した魔力の残留物を吸って余計に凶暴化したんだろう』


「他人事風の解説なんかどうでもいいんだよ! それよりも見ろ、!」


 何かと言ったがすでにおおかたの予想はついていた。

 男はすぐ横に置いてあった年季を感じさせる大口径ライフルと木製の板を掴み、周囲から自身を切り離していたカンバスを取り払う。


「行くぞ!」



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