Heart is Still Beating

百舌

第1話

 ブラッドベリの屋台は格別だった。

 その屋台はパーシングスクウェアの中にあった。

 焼き立てのパンにグリルしたソーセージ、サルサの効いたソースを自家製のピクルスの酸味が引き立てていた。

 早朝のジョギングの帰りは、いつもこれを齧っていた。

 青と白のストライプのテントが目印で、朝イチでなければ長い行列で、折角温まった身体が冷え切ってしまう。この周辺にしては治安もよく、ホームレスのテントや防水シートの荒ら屋は少なかった。

 公園のベンチに座ると、おこぼれ欲しさに子猫大の栗鼠が集まってくる。

 物怖じしない性格なので、おれの肌の色にも頓着しない。

 パンのすみをちぎってその群れに放ってやると、一斉に飛びついていく。いつも奪い合いになるので、今日は中身なしのパンも余計に買ってきた。たまには盛大に振る舞ってあげよう。舌の焦げそうなほど熱い紙コップの珈琲を飲みながら、その姿を楽しんでいた。

「隣は空いているかね」

「もちろんだ。予約の必要な席でもない」

 みしりと音を立てて、羽目板の抜けたベンチの隣に腰掛けてきた。長身で痩せ形だが、年齢の厚みというものが下腹に乗っけてあった。

 それに仕立ての良いスーツを着用していた。陽光を受けて、鈍色の生地が輝いていた。劣化して板面のささくれたベンチでは、生地が痛みそうで心配したが、こんな場所に来るのだ、もっと切実な事情があるのだろう。

 蓬髪にメタルフレームの眼鏡で微笑んでいたが、奥の灰色の瞳は柔和そうな表情に反して笑ってはいなかった。

 この広大な公園の外側は印象が違う。

北出口に出るときは、内ポケットにセルフォンとクレジットカードがないと生きてはいけない。西出口に出てワンブロックも歩くと、そこはスキッドロウ地区だ。そこでは尻ポケットにナイフと小銭がなければ、今日の命も保証できない。

「何者だい。ここには場違いな姿だ。ひょっとして、これから新婦のヴェールを剥ぎ取りに行くのかい?」

「まあ、小僧。そんなに硬くなるな。私はカンサーの使いだ。紹介を受けてね、ちょっとした商談に来たのだ」

「州兵の勧誘かと思った。もう認識票は持っている」

「ほう。どこに派兵された?」

「幸いにも戦ったのは山火事で済んでる」

「それは何よりだ。そんな小銭稼ぎをしなくても、いいビジネスがある」

 男は紹介者の名前を言い、おれのミドルネームまではっきりと発音したので、真実だと思った。それにカンサーの名前が出たのが決定打だ。

「聞いたよ。昨年のジェミニのスタジオアルバム。あれのドラムはきみのプレイだってね。そればかりかフリードマンのバックにも入ってるそうじゃないか」

「生憎とこの肌の色のせいで、クレジットには載ってないが」

「まあ、率直に言おう。問題はオートマタの次回アルバムだ。そうさ、シドのサポートをお願いしたいんだよ。知ってるか、オートマタのシドだ」

 おれは面食らった。でかいパンが降ってきた栗鼠の思いを共有した。

「何だって!」

「知らないのかい。オートマタのシドの、サポートだ」

「この街で音楽を演っていて、シドの名前を知らないなんてもぐりだ」



 オートマタのライヴに行ったのは昨年の夏のことであった。

 おれは不定期に呼ばれるスタジオミュージシャンだった。実を言うと、アルバム制作の折に、どうしてもプロデューサーに及第点を貰えない技量のメンバーがいることは珍しくない。それが鳴り物入りの新人なら、なおさらの事だ。

 あるいはベテランでも、新作の場合、ツアーなどで練習や音合わせが満足にできていない場合は、その雛形を先行しておれ達が録音する。その演奏で本テイクに行くことさえもある。

 そんなスタジオ録音で多少はギャラが潤沢に貰えたので、ライヴのチケットを買った。その中でも楽しみにしていたギグがオートマタだった。

 ギターとドラムス、キーボードのトリオ。

 楽器数が少ない分、自然と各パートの音域は広くなる。ギターはベースラインとメロディラインを受け持ったり、ギターソロに入るとキーボードがベースを受け持つと忙しい。その中でも表現力を持ったドラムの奏者がシド・パレットだった。

 シドは前傾姿勢をとった女豹のようなスタイルだった。

彼女の演奏を間近にみたのは幸運だった。

 パラディドルをダブルで使っていく。いやトリプルかもしれない。右手の旋律が破断なく左手に移り、右手は新たなリズムを重ねていく。スネアでは凪いだ海の波濤のように穏やかな変拍子を苦もなく叩いている。アクセントを自在にタムに乗せ、重奏なテンポをバスドラムが支えている。

 難しい技法をスロウテンポでも重ねていく。

想像して欲しい。

右手と左手でそれぞれ一台のタイプライターを操って、別々の歌詞を書きながら、並べてみたらひとつの曲に繋がっているような演奏だった。

 小刻みに律動するスティックが、スポットライトを反射して光る。小魚が水面に跳ねているようだ。むしろスロウテンポの方が段違いにいい。

 おれが憧れる旋律だった。

 おれたちのグルーブは大地に根ざしている。それは父祖からの血脈であり、心拍であり、魂だ。グリニッジ天文台の標準時時計よりも、おれの心臓は正確にビートを刻む。

 それをシドは吸収し尽くしている、と思い魂まで抜かれた喪失感で、身体がやけに重い。


「ちょっと待ってくれ。シドのどこにサポートが必要な余地がある?信じられない。カンサーなら、もうちょっと上等な奏者を抱えているはずだ」

「きみはさ。カンサーの顔を知らない方が罪深いのではないかね」

「そんな雲のうえに、知合いが出来るほど教会には通っていない」

「私がカンサーだとしたら」とにじり寄って、おれの耳元に囁いた。

 じわりとその瞳がおれの反駁を砕いた。NOはないということを了解した。

「なるほど。神様に知り合うことが出来るはずだ」

 カンサーはもう満足げに言った。

「私はね、何でもスペアが必要だって思っているんだ。それが神様であろうが、スペアがあればクールだ」

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