拙著「君に花を葬《おく》る」について

吾妻栄子

拙著「君に花を葬《おく》る」について

(一)始めに 

 二〇二一年の初めに発表した「君に花を葬る」は、中華物の多い筆者としてはむしろ異色の戦前日本が舞台の中編です。

 また、ミステリーは読むことも書くことも稀な自分としても珍しいミステリー要素を持つ作品です。

 私は思春期の頃、芥川龍之介や太宰治といった戦前日本の文学作品も良く読みまして(前掲の二人は文学ファンには定番というかもはや好き嫌い以前の基礎知識レベルといった位置付けですが)、戦前日本のイメージそのものが彼らの作品にかなり依拠しているので、必然的にそれらへのリスペクトやオマージュの強い作品になりました。

 なお、年老いた女性が一人称で若き日の異常体験を語るというフォーマットは江戸川乱歩(これも戦前というか昭和のエログロ・ミステリーのアイコン的な人ですが)の「人でなしの恋」に倣いました。

 旧家出身のこの世ならぬ美しい男主人公の設定や耽美的な雰囲気も「人でなしの恋」の影響が強いです。

 闇を抱えた男主人公について好意的な見方だけを伝えるヒロインの最後の言葉は太宰治の「人間失格」へのオマージュです。

 ただし、「人間失格」の男主人公が末尾でも老残の風貌を晒しながらも生存し続けるのに対して、拙作の男主人公は夭折し物語の冒頭で既に故人である点が大きく異なります。

 タイトルの「君に花を葬る」はダブルミーニングです。

 一つは、千代が自分より若くして亡くなった男性たち(修吾、貞吾、直彦)を悼んで花を手向ける意味。

 もう一つは、幼い修吾が千代と関係を持とうとする年長の青年二人(貞吾、直彦)を葬り去る意味です。

 実際、青年二人の死の場面には貞吾が血溜まりに落ちる白椿、直彦が浜辺に揺れる宵待草といった花に彩られています。

 ちなみに白椿の花言葉は「至上の愛らしさ」、宵待草は「物言わぬ恋」です。

 そこに愛らしい幼い弟のために不意に命を落とす貞吾、修吾の言葉に出来ない千代への想いのために死に突き落とされる直彦の運命を象徴させました。

 修吾本人の死の場面も雪の上に散る紅い山茶花を背景に出しました。

 こちらの花言葉は「あなたが最も美しい」です。

 これは千代の修吾への想いでもあり、修吾の千代への想いでもあります。

 女性の美を花に例えるのは物語の定番であり、また「美人薄命」という言葉もあるように美しい女性が若くして死ぬ結末も悲劇の定石ですが、拙作では敢えて男性の美を花に仮託し、「美男薄命」のストーリーにしています。

 なお、良く似た面輪を持つ兄弟である貞吾と修吾には椿と山茶花という似た花を敢えて配しました。

 椿は落ち、山茶花は散る。そこに両者の最期を象徴させました。

(二)キャラクターの設定について

 作中の旧家「津川家」は太宰治の生家である「津島家」にヒントを得ました。

 男主人公の「修吾」も太宰治の本名である「修治」を捩った命名です。

 ただし、作中の舞台は青森県の津軽ではなく鎌倉や葉山など漠然と首都圏に近い海辺の街を想定しています。

 戦前の津軽だと標準語から掛け離れた方言になってしまうので他地域出身の自分には難しいと判断したのもありますが、これには都会的な洗練されたイメージも作中の旧家や一族に付与したかった面が大きいです(近隣のやはり旧家の『米内家』には帝大を卒業した若い主人もいます)。

 更に言えば、「津川」という姓も昭和の大御所俳優の一人だった故・津川雅彦氏に因んだ面もあります。

 邦画の立役者であるマキノ一家に生まれたこの俳優さんは、四十歳の私が子供の頃には既に中高年であり、作中のキャラクターで言えば「旦那様」(貞吾・修吾兄弟の実父)にこそ相応しいイメージでした(旦那様は物語の中で直接には姿を現しませんが、彼は屋敷の主であり、使用人はもちろん放蕩息子の貞吾を含めた誰も逆らうことは出来ません。中高年以後の津川雅彦氏はそうした威厳のある役を演じるのが定番だった気がします)。

 しかし、子役時代は「安寿と厨子王」の厨子王を演じるなど大きな目にはっきりした眉の印象的な美少年で、作中の修吾坊ちゃまにはそのイメージも投影されています。

 男主人公の修吾坊ちゃまとヒロインの千代、そして、修吾の兄・貞吾と乳母の八重の関係は、太宰治と乳母のタケにヒントを得ています。

 ただし、実際のタケは結婚して本人の家庭を持った人なのでそこは作中の千代や八重とは異なります。

 青年への成長と共に拗れてしまった貞吾と八重の間柄は、修吾と千代に有り得たもう一つの未来として描いたつもりです。

 八重にしても女性としての人生を犠牲にして貞吾に仕えたにも関わらず、両者とも不幸な結果に終わりました。

 八重は決して悪辣でも愚鈍でもありません。

 千代と八重はむろん年配や奉公期間は異なりますが、女中頭になった八重の方が千代より職業人としては優秀だったとも言えます。

 二人の女性は本当に紙一重の差で運命を分けられたのです。

 なお、少年時代の太宰治は生家の女中だった同年輩の少女タヨに淡い恋心を抱いており、彼女が他の男に強姦されたのを苦に辞めて去ったことにショックを受けました。

 前半の子守になったばかりで主家の跡取り息子である貞吾に襲われかかる十五歳の千代にはこのタヨのイメージもあります。

 そもそも「千代」というネーミング自体も「タヨ」にヒントを得ています。

 千代については本人の中では飽くまで良心的、常識的に行動する、だからこそ物語の真相から隔てられてもいるキャラクターとして描いたつもりです。

 劇中の彼女は表面上は、というより、本人の認識としても生涯独身子無しに終わったお婆さんです。

 しかし、実際には関わった男性たちが結ばれる前に次々命を落とした、一種の無意識なファム・ファタールでもあります。

 さて、本編の男主人公は何と言っても修吾坊ちゃまであり、こちらはひたすら美しい少年、アンファン・テリブルというイメージで描きました。

 水仙のほとりに咲く蓮の池を覗き込む登場シーンは太子時代の仏陀とナルキッソス、全般を通しては幼年期の光源氏、賈宝玉といった古典の美少年キャラクターを意識しました。

 後編で初見の直彦が感嘆するように「小公子」のセディのような洋装の映える怜悧な印象も意識しました。

 実際、医師となり名を成した同級生の「杉田博士」を凌ぐ秀才でもあります。ここもまたアンファン・テリブルたる所以です。

 後編の浜辺で父親が洋行先から送ってよこした水兵服を着ているのは「ヴェニスに死す」のビョルン・アンドレセンへのオマージュです。

 ただし、「ヴェニスに死す」の美少年は十五、六歳で既に二次性徴を迎えていますが、作中の水兵服を着た修吾は八歳のまだ幼い少年であり、砂でお城を作ったりガラス玉を宝物にしていたりする年頃です。

 ちなみに修吾が掌にガラス玉を乗せて直彦ら新田家の使用人に見せる場面は、冒頭の蓮の池を覗く場面と並んで筆者の好きな場面でして、もし、この作品が書籍化されることがあったら表紙イラストはどちらかの場面にしていただきたいし、映像化されたら予告編にどちらも入れていただきたいです。

 無邪気な顔をした悪魔というイメージは「オーメン」のダミアンにもヒントを得ました。

 修吾は結局、十五歳で夭折します。これは先に亡くなった十八歳の貞吾、十七歳の直彦よりも更に幼い、当時としては既に青年の域に達していた二人よりもまだ少年の気配が濃厚な年頃で死なせたかったからです。

 千代は十五歳で津川家へ奉公に入る、いわば社会に出るわけですが、修吾は十五歳で結局は生家から出られないまま人生そのものが終わってしまう。

 かつて蓮の池のほとりで憧れた、自由に飛んでいく蝶にも自らの家を作る蜘蛛にも修吾はなれませんでした。

 そうした運命の哀しい皮肉を示したかったのもあります。

 話は変わって、本編は前編と後編に分かれており、前編が千代十五歳、修吾六歳、後編が千代十七歳、修吾八歳の頃の出来事という構成です。

 前編は修吾の兄貞吾、後編は千代の幼なじみ直彦の死までを描いており、彼らが実質は前編と後編の副男主人公と言えます。

 まだ十歳に満たない幼い修吾からすれば大人ですが、貞吾十八歳、直彦十七歳で今なら高校生、ハイティーンの少年たちです。

 彼ら本人も若さ故の未熟さを持った人物として登場させています。

 前編の副男主人公である修吾の兄・貞吾は、放蕩に明け暮れているようでどこか倦怠的な、虚無感を抱えた雰囲気など青年時代の太宰治を意識しました。

 旧家の跡取り息子で普段は女給や女郎といったお金で買える女性たちとばかり付き合う彼は、弟の子守になった千代に対しても屈折した、はっきり言えば虐待的な関わり方しか出来ません。

 実際の太宰治は使用人など目下の女性に対しては案外潔癖で生家の女中に性暴力や性強要を働いた話はなかったようですが(青年期に心中未遂した相手は女給、最初に結婚した小山初代は芸者でいわばプロの女性たちです)、当時の女中は主人や息子から性関係を迫られることが少なくありませんでしたし、それが黙認されてもいました。

 名家で何不自由なく育ち、容姿に恵まれていながら、というよりだからこそ、貞吾は取り巻きを引き連れて不行跡を重ねる堕落に歯止めが利かなくなりました。

 ただし、貞吾本人も自堕落さへの罪悪感や引け目を感じていないわけではなく、高等学校の新年会にもまともに通っている同級生たちから白い目で見られるため本心では行きたがっていないという描写もあります(当時の高等学校は今の大学前期に該当し、前段階の中学の進学率が既に一割程度のため、高等学校にまで進学するのはもはや五パーセント未満のエリートでした。貞吾の同級生たちはそれこそ秀才の坊ちゃまばかりだったはずです)。

 母親代わりに育てて更正を願ってきた八重の心痛はさておきあの時点で落命するのが、千代や修吾にとってはもちろん彼本人にとっても良かったのだと言えます。

 ただ、本編では飽くまで貞吾とは死ぬまでの短期間、実質は秋から正月までの三、四カ月間しか関わりのない千代の視点で描いています。

 そのため、十八歳の彼が何故そこまで荒んでいるのか、千代ばかりではなく母親代わりの八重に対しても異常に辛く当たるのかは謎が残るというか、転落死する直前の八重とのやり取り(父親との間柄を当て擦る)で仄めかす程度に留めました。

 裏設定を明かすと、貞吾がすさんだのは、思春期に入った頃に父親が病弱な母親をよそに自分の乳母である八重と通じているのを知ってショックを受け絶望したためです(ちなみに太宰治にも青少年期に父親が病弱な母親をよそにその実妹である叔母と通じていたのではないか、自分はその不義の子なのではないかと悩んだ時期があったそうです。放埒に走ったのはこの辺りにも要因がありそうですね)。

 だからこそ、八重の苦言も聞き入れず、逆に彼女を侮辱的に扱うようになりました。

 八重が本来はまだそこまでの年齢ではないにも関わらず老け込んでしまったのは(これも裏設定ですが、前編の時点で彼女は三十四歳です。十六歳で津川家に子守に上がり、病弱な正妻に代わり跡取りの貞吾を赤ちゃんの頃から世話していた設定です)、単純に貞吾が荒れたばかりではなく、その原因が自分にあることに苦悩したためです。

 むろん、八重が雇い主である旦那様と関係があったとしても、それが本当に彼女の意思や尊厳の重んじられた結果であるとは限りません。

 それこそ、貞吾が千代に働いたような強要の結果だった可能性もありますし、使用人の八重には旦那様に逆らうことなど出来ません。

 千代が貧しい生家から女中奉公に出されたように、八重もまた似たような境遇だったはずです。

 津川家を飛び出しても、後にはそれこそ女郎や女給といった体を売るような職業しか選択肢のない可能性が高いです。

 仮に八重の中にも旦那様に対する想いがあったとしても、正妻の死後も彼女が使用人の地位に止められた時点で旦那様の中で対等に見られていなかった、正妻より常に格下に扱われてきたのは明らかです。

 跡取り息子である貞吾自身にもそうした父親と使用人である乳母の力関係は理解されていたでしょう。

 だからこそ、八重に対しても屈折した接し方をするようになったのです。

 元は貞吾も弟と同じように素直な可愛らしい坊ちゃまだったかもしれないのです。

 貞吾が修吾に対しては優しい兄として接するのは、むろん利発とはいえ一回りも下の幼い弟が十八歳の高等学校生の彼にとって精神的な脅威ではないからではあるでしょうが、自分の失った純真さを修吾に見出して守ろうとしているからとも考えられます。

 八重が貞吾の幼少時代の品が保管された物置きで首を吊るのも、それが一番幸福な思い出の集積した場所だからでしょう。

 もし、この作品が映像化されることがあれば、八重は綺麗な俳優さんの老け造り(声は年相応の艶を残している設定)、貞吾は驕慢や暴虐な中にも哀しみを表現できる俳優さんに演じて欲しいです(そもそも修吾坊ちゃまが普通の子役にはまず演じられないキャラクターなので実質映像化は無理な作品ですが)。

 予告編では、貞吾が千代にマッチ箱を投げ付けて「(煙草に)火を点けろ」と命じる場面、千代の淹れたお茶の入った湯呑を八重が掃き掃除している近くの庭石に叩き付けて「不味くて飲んでられん」と言い放つ場面を是非とも入れて欲しいです。

 後編の副男主人公の直彦は貞吾とは対照的に不遇な青年で一途に千代を想う展開ですが、このキャラクターは山本有三による「路傍の石」の主人公・吾一ごいちにヒントを得ました(『路傍の石』の吾一は初恋の商家の娘には幻滅したり自分と同じように不遇な娘とは進展しないまま物語自体が終わったりして恋愛色は薄めですが)。

 吾一は優秀な成績だったにも関わらず貧しく自堕落な父親のために中学に進学できず、小学校卒業と同時に商家に丁稚奉公します。

 一方、直彦は一応はまともな両親がいて中学に進学させてくれたものの(前述したように旧制中学の進学率は一割程度なので彼は当時としては高学歴・高偏差値です)、両親の死と共に孤遇に陥り、下男奉公せざるを得なくなりました。

 十二歳の吾一より十七歳の直彦の方がより挫折感は強かったのではないでしょうか。奉公先で虐待を受ければ尚更です(『津川の旦那様』同様、直彦の雇い主である『新田の旦那様』も物語には直接姿を現しませんが、高利貸めいた事業もしている、所有・管理する砂浜には近辺の旧家の人間以外は滅多に近付かない等、裏社会のドン的な人物として想定しています。劇中の旧家の中では新田が勤め先としてはワーストですね。使用人同士の関係も良くありませんし。千代が老婆になった数十年後には往時の姿を保っているのは、若い才覚のある主人がいた米内の邸宅だけ。跡取り息子二人が夭折した津川の邸宅は廃墟となり幽霊屋敷、新田は邸宅自体が取り壊されて大学のキャンパスが新しく出来ているという顛末です。恐らくは違法スレスレなやり方で財を成した新田の邸宅や敷地は主人が亡くなると、それまで虐げられた人々の怨念に復讐されるように取り壊され、新たな都市計画に吸収されてしまったのです)。

 容姿も本当の貧苦や生活上の苦労を知らない貞吾が弟と同じ白皙の美青年であるのに対し、直彦は浅黒い、美形というより精悍な風貌にしました。

 「路傍の石」の吾一に設定上のヒントを得たとは書きましたが、このキャラクターは竹久夢二の「宵待草」など全般に大正ロマン的なイメージを意識しました。

 桜の盛りに汽車に乗って千代と修吾の前に姿を現した彼はその時点で両親の死を経ており(津川家側も跡取り息子の貞吾と乳母の八重の悲しい死を経た二年後)、千代にとっては幼なじみでも修吾にとっては異邦人であるというどこか不穏な雰囲気での邂逅です。

 露草や浜昼顔、宵待草など彼と千代が共にいる場面で背景に出てくる花はいずれも株に咲く園芸種的な椿や山茶花と比べると道端の雑草的な、しかも一日で萎れてしまう性質を持っています。

 ちなみに宵待草の花言葉は前述したように「物言わぬ恋」ですが、露草は「懐かしい関係」、浜昼顔は「絆」「情事」といった花言葉があります。

 千代に告白してヘアピンを渡す場面で出した向日葵は一般には明るく生命力に満ちたイメージですが、ここでは既に萎れかけており、もはや千代との恋にしか生き甲斐を見出だせない直彦の絶望と重なります。

 直彦は前編の貞吾とは対照的に千代とは相思相愛になるものの、彼自身も他家の使用人でしかも千代よりも隷属的な立場のために関係を進展させることが出来ない状況に置かれています。

 彼は貞吾はもちろん幼くても名家の子弟である修吾と比べても社会的に非力な青年です。

「田舎では首席の級長だったが、都会の中学に行けば周りは秀才の坊ちゃんばかりで自分は席次も大したことなかった」と千代に中学時代を自虐的に語る描写がありますが、単なる学力以外にも同級生との格差を感じることは多かったのでしょう。

 それは不品行で本来は放校処分になってもおかしくないのに父親のコネで高等学校に籍を置き続けている貞吾(やその取り巻きたち)を見ても明らかです。

 直彦の中学の同級生にはその後は順当に進学して米内の旦那様のようになった人もいるでしょう。

 しかし、直彦には無力な境遇でかつ津川家の外にいる人間だからこそ見えるものもあります。

 先輩の使用人たちから千代との逢引を咎められた時に「自分の無くしたガラス玉を一緒に探してくれた」と修吾が機転を利かせてついた嘘でその場は救われるものの、直彦はそうした修吾の利発さにむしろ不気味さを覚えます(先程修吾が掌に乗せたガラス玉を見せる場面が作者としても気に入っていると書きましたが、これは他ならぬ直彦に向けたものです)。

「使用人なんて代わりが利く」

「俺にはお前の代わりはいない」

と千代に駆け落ちを迫るのは、一面では修吾に危うさを覚えて千代から引き離すためでもあります。

 しかし、結局は修吾の方が一枚上手で直彦は崩れた石垣の下敷きになる形で命を落とします。

 桜の舞い散る時に汽車に乗って海辺の街に降り立った彼は、逃げ出すはずだった汽車に乗る前に宵待草の揺れる浜で息絶えました。

 前編で命を落とした貞吾には地位をかさにきて千代を虐待し望まない関係を迫ろうとしたという非があり、自業自得とも言えます。

 しかし、後編の直彦は飽くまで相思相愛になった千代と幸福になるために逃げようとしたのであり、そこには同情されこそすれ、非難されるような悪どさはありません。

 直彦にとっては全く理不尽に襲いかかった死でした。

「僕はきっと地獄に堕ちる」

 死に際の修吾の言葉は、千代を挟んで出会わなければ敵対することもなかった善良な直彦への罪の意識なのでしょうか(貞吾の死にも彼の更正を信じてきた八重の自死という、本来は死なななくても良いもう一人の犠牲者を出しています)。

 もし、映像化されたら、直彦は本来は快活な人懐こい青年が虐待され擦り減らされていく様子、不遇な中で芽生えた恋にしがみつく哀しさを表現できる俳優さんに演じて欲しいです(貞吾も直彦も形は異なるけれど、どちらも哀しい青年です)。

 予告編には、桜の舞い散る中にトランクを持って現れて初対面の修吾に「小公子みたいな坊ちゃまだなあ」と純粋な好意から来る笑顔で告げる場面、そして、自分と距離を置こうとする千代を後ろから抱きすくめる場面を是非とも入れていただきたいです。

(三)どんな人に読んでもらいたいか

 先にも書きましたように、芥川龍之介や太宰治、江戸川乱歩といった戦前の日本の小説へのリスペクトやオマージュ、本歌取りを多数散りばめた作品ですので、戦前の日本文学ファンの方には楽しめるかと思われます。

 ただし、千代という修吾の善性を信じて疑わない、いわば信頼できない語り手の一人称というフォーマットではありますが、純粋なミステリーとしては弱いかもしれないという自覚は作者としてもあります。

 時代考証も率直に言ってかなり曖昧です。

 私は映画が好きで映像的な文章を意識して書いているので、特に日本文学ファンでない方にも映画や演劇の好きな人には入り込みやすいと思われます。

(四)終わりに

「本来は読んだ人の自由な想像や解釈に委ねるべきでは」

「作者としてはあまり種明かししない方が良いのでは」

という迷いを覚えないではありませんでしたが、作者としても思い入れの強い作品の宣伝エッセイですので、思うところを自由に書きました。

 企画主さん、どうもありがとうございました。

(了)



 

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拙著「君に花を葬《おく》る」について 吾妻栄子 @gaoqiao412

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