秘湯探訪

タッキー

秘湯探訪

 二十五センチ。いや二十センチだろうか。

 呼吸も聞こえそうなほどの近さには、真っ赤な顔。瓢箪ひょうたんみたいな形をして、こちらをキッと睨んでくる顔。

 緑がかったその両の眼でもって見慣れぬ侵入者の正体を探ろうとしているのであろうか、好奇こうき畏怖いふの混じったような微妙なつらつきで、しかしそれでいて一歩も譲らないぞとの無言の叫びを上げているかのようなたたずまいで、それは、そこに居た。


 それはわゆる、猿であった。

 頭に雪を乗せた猿であった。

 白銀の被毛ひもうがどこか高貴さを思わせる、骨張った身体の老猿ろうえんが、裸で冬の温泉に浸かる俺の目の前に鎮座しているのであった。


「・・・動いたら負けだ。動いたら負け。」

 俺の口からは自然と言葉が漏れる。ブツブツと漏れる。

 湯気の向こうの朴念仁ぼくねんじんを、こちらも見つめ返さずには居られない。そうだ。これは勝負なんだ。人と猿との、種と種との、男と男との、純粋な裸の勝負。

 ここで目をらしでもしたら、それは俺の敗北じゃない。人類の敗北だ。俺は屹然きつぜんとして奴を見返してやらなきゃならなかったし、奴も同じルールを理解しているようだった。


「なんだネ、その目は。ワシが先に入っテおったのではないか。」


 猿がそう言った気がした。実際に獣が人語を口にしたかは重要ではなかった。したかも知れないし、しなかったかも知れない。問題はそこではなく、俺がそう言われた気がしたってことだ。

 老猿はやはりこちらをじっと見ている。それは確かだった。

 その温泉は実際、山の奥深くにあった。近くに脱衣所みたいなモノは置かれていたが、なるほど、ここを猿どもがテリトリーにしているのだとしたら頷ける。


 しかし、人間の男を代表して言いくるめられる訳にはいかない。俺は声に出して言い返した。

「だがここは人間様が整備した人間様の温泉だぜ。」


「温泉に誰のモンもクソもあるかネ。」

 奴は間髪入れずに切り込んだ。気がした。

「湯は大地の恵みじゃァないか。」


 偉そうなことを抜かす猿だ。俺は半ばムキになっていた気がしないでもない。

「そうだ。湯は大地の恵みで、温泉はいかなる動物にも与えられた癒しのはずだろ。」

 俺はほとんど立ち上がっていた。湯気と一緒に飛沫しぶきが上がる。

態々わざわざ近づいてきて、文句をつけてるのはお前じゃないか!」

 俺は湯に浸かってる奴を見下ろして言ってやった。そうだ。俺は最初、お前から遠く離れて浸かってたんだ。やれやれ。邪魔されちゃ困るぜ。


「近づいたのはネ、奇妙だナァと思ってね。」

 猿はやはり俺の目を覗き込んできやがる。

「数人でもってココに浸かりにくるノはよく見るサ。ただアンタ、ひとりキリだろう?」

 そこで野郎はニヤリと笑ったように見えた。

「アンタなぁ、群れからハグれて、ワザワザこんな山ン中の湯に浸かりに来るなんて、暇なのカイ?」


 俺は怒りの余り殴りかかりそうになるのをこらえて、湯に勢いよく頭を沈めた。熱さがかえって冷静さをもたらしてくれた。時間が止まったかのようだ。

 そうだ。生意気な動物風情ふぜいに、その推理がいかに的外れか教えてやらねば。


 俺は湯から頭を上げた。白い飛沫しぶきが雪を溶かしていた。

「残念だな。俺はひとりじゃないぜ。ここには二人で来たんだ。あいつ今頃、服を脱いでるところだろ。」

 実を言うと、この友人Sの到着が余りに遅いので、やや心配になっていたこともなくもない。まさか置いて行かれたはずもなかったろうが。

「お前こそ、群れとはぐれたんじゃねえか?」


 それを耳にしたからか、猿は突然悲しそうな顔になった。なんだ。びっくりさせやがって。

「それがネ。」

 彼は先ほどまでの偉そうな態度に打って変わって、静かに語った。

「それがネ、あながち間違いでもなくてネ。もうこの山にはホトンど猿なんていないのサ。」


 俺はわずかに気圧けおされてしまった。

「つがいはずっと前に死ンだし、息子はチョッと前に山を降りて撃たれちまった。他んトコの猿ドモも似たようなものでネ。」


 妻子を失い、仲間を失い。

「・・・それは・・・・・・なんというか。」


「あ! いたいた。」

 丁度そこに、友人のSが全裸でやってきた。猿に比べればツルツルして浅黒いこと。

「ってあれ、ソレ、猿?」


 彼は、俺とSとを見比べると、不利と見たのか、ピョイと飛び出て林の中へと逃げて行ってしまった。

「あ!」

「逃げちゃった。いやあ、ゴメンね。さっき電話かかって来ちゃってさ。先入っててくれてありがと。」

 Sは雪を踏んで一歩ずつ近寄りながら、上を見上げた。林冠りんかんが途切れて灰色の空が見える。

「それにしてもこの山、電波入るんだね。」


 俺にとっては、電話だか電波だかはもはやどうでもよかった。

 彼の最後に見せた物悲しげな表情が、頭に焼き付いて離れなかった。

「どした? さっきの猿? アレが気になるの?」

「アレなんて呼んじゃダメだ。俺たちは男と男の裸の対話をだな・・・・・・」


「でもアレ、メスだよ?」

 は?

睾丸こうがんがなかったろ。逃げてく時見えなかった?」

 Sは大きな飛沫しぶきを上げて湯に浸かって、俺の方を向いてニヤニヤしながら言った。


「混浴だね。うらやまし。」

 勘違いしたのは俺なのだが、何だか裏切られた気分がして、さっきまでの会話は全部妄想だったと思うことにした。

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