クレイジー百景

赤川凌我

第1話 クレイジー百景

クレイジー百景

 私は大学入学してからというもの、同胞の日本人たちを白眼視しており彼らを「低能クソジャップ」と呼んで憚らなかった。私は自分を迫害した日本人をやけくそに日本人全てに一般化していた。その頃の私は若さゆえか万能感に横溢しており自分は特別な人間なのだという誇大妄想も持っていた。その誇大妄想が高じて自分は日本人ではなく優秀なユダヤ人なのだという選民思想さえも持つようになった。その頃の私は少し肥えていた。しかしそれでも過去の美辞麗句の残滓を私は脳髄に宿らせており、自分は女にモテるのだ、などと壮大な勘違いをしていた。しかしながら私の自信は絶対的なものではなかった。私は自身が統合失調症患者で、のみならず対人恐怖をも自身の胸中に同居させている事を苦に病んでいた。自分は大学入学を期に一念発起、心機一転で新たな人生を掴むのだと欣喜雀躍していた。しかし実のところ私の人生は華々しいものにはならなかった。丁度小説が風にはためくように私の自身もせわしなくはためいていた。傲慢と卑屈が交替していたのである。今の私にはかつてのような近視眼さはない。しかしながらどこか過去の私の思い出を追憶すると、一介の統合失調症患者として大衆に訴えかけるべきなにかがあるのではないかと思えてならない。私のかつての仇敵は高校時代の私の主治医であった精神科医に相違なかった。彼と私は診察という口実で様々な趣味の話を享楽していた。もっとも、これは表面的にそう見えただけで彼にとっては業務の一環に過ぎなかったのかも知れないが。彼は私の長所を「好奇心が旺盛であること」とした。私は彼と話していると非常に気分が温和になり、普段以上に明瞭に自分の所感を述べる事が出来ていた。

 精神科医の彼は私を高く評価していた。最初の診察の際にはお世辞抜きで私の事を「とても頭が良いから精神科への通院の舵を切る事が出来た」と評価した。それ以後も私の統合失調症に似つかわしくない高機能ぶりを発揮していた。しかし勉強に関しては一切やる気を見せず、社会や英語以外ではあまり学校成績も芳しくなかった。私は当時、優等生という言葉を嫌忌していた。それは一種のルサンチマンから来たのかも知れないし、それは私の精神的荒廃によるものであったのかも知れない。しかしもはや当時の私にとって優等生という言葉は名辞だけが独り歩きしている事のもどかしさを感じずにはいられなかったのだ。精神科医の彼が言うように私は勉強が出来る類型の人間であった。実際稀に少し勉強をすれば貧相な武勇伝だがクラス一位か上位層の成績をテストで取る事も出来ていた。

 高校時代の私は青春を素直に謳歌出来なかった。どこか斜に構えていたのだと思う。実際当時通っていた私の塾の講師からもそのような事を言われた。一度精神的な奈落の底に突き落とされればもはや正常な感覚で健常な人生を闊歩する事は困難を極める。それに私にはこの疾病の、すなわち統合失調症の慣性というものを感受していた。自分が狂人である事に誇りを感じていたのである。ドアーズのジムモリソンやら文豪の太宰治などに当時の私は感銘を受けており、もはや狂人という概念を抜きにして私は自身に価値を見出す事が出来なくなっていたのである。

 私は中学時代、数学や自然科学に情熱を持った少年であった。数学や自然科学について専門の論文こそは書いていないものの、相対論や幾何学に関して旧友と侃々諤々の議論を交わした事もある。また当時の私はガウスの正規分布曲線に即した人口あたりのIQの分布に思いを馳せ、きっと自分はIQ200以上だ、などと思っていた。当時は相対性理論以外にも私はガリレオの業績やニュートンの運動方程式、ガウスの法則、マクスウェル方程式などの理論にも憧憬を抱いており、始終私の頭脳は数学や自然科学の虜となっていた。無論その頃はガロアのように数学以外は勉強しないという奇行にでた訳ではない。私はなるべくがり勉の優等生に見せようとして、保健体育や家庭科などの補助科目以外を勉強していた。学年で首位ではなかったものの、私の学業成績は良かった。教師や生徒からも一目置かれていた。その頃は統合失調症とは無縁であったが、やはりその時もクレイジーであったのだろう。人間の本質はクレイジーだ。今の私は確信を持ってそう断言できるのである。

 私は高校時代、登山を精力的に行っていた。今でも登山の知識はあるし、高校時代は登山家を目指していた程だ。しかし結果としてその浅はかな夢は潰えた。私は幻聴や被害妄想などで精神崩壊してからはもはや登山どころではなくなった。体力は顕著に衰弱し、モチベーションも消失した。それに薬の影響で私はデブになった。クラスメートからもデブとからかわれる事も多くなった。ルックスもそれに伴い深刻に悪くなった。統合失調症を契機として私はかつてのような栄華を経験する事は出来なくなった。そして私は周囲に敵意を向けるようになった。統合失調症の常套句である陰謀という言辞を使用する事はなかったにせよ、ほとんど言語遊戯的とでも言うべき言葉のサラダ、即ち支離滅裂さを伴った言動も増えていった。私はあの南アルプスの絶景とその登頂による達成感のみが高校時代の壮麗な記憶である。部員からは嫉妬され、十分な好待遇ではなかったのだが、それでも登山は一時的ではあるが私の心を安寧させたのである。私は登山の荒神になりたい。学問や芸術の功績を十分に果たした私は今切実にそう願っているのである。私の人生は統合失調症によって破綻した。人生そのものの性質を調査、分析するためには狂気に焦点を合わせて紐解いてゆくのが良いだろう。私はこの執筆の際にもそう考え執筆しているのである。認知行動療法という概念が日本国民の人口に膾炙して久しい。その認知行動療法に匹敵するのが自分の記憶を作品に落とし込む事である。私は自分の高機能な知性と統合失調症の狂気とのサラブレットによって芸術的な甘美な果実を勝ち取る事が出来ると思う。芸術的精神を心の中に同居させ、絶えず自分を利用して作品にするのだ。印象派の巨匠ゴッホがそうであったように。

 私は今自分自身の思索に安住する事によって何らかのヒーリング作用を感じている。これはなんの業績もなかった私には不可能な境地である。私は私の家族の中で唯一巨人のような長身の持ち主である。私の家族は私以外全員チビである。私はこの事に若干の卑俗さとも言える優越感を感じている。今や私は学生時代のどの知人友人よりも長身である。きっと連中が私と再会するとまるで別人となった容姿を見て吃驚仰天すること請負である。私は決定的な危急存亡の秋を経てようやく天才という実力と巨人の長身を享受するに至った。これは私が予期していなかった神からの寵愛的なギフトとも呼べる代物である。これから先の私の人生は私自身の性格や人生観を変えていこうと思っている。いや、既に変え始めている。私は以前までは変わる勇気を持てずにいた。変えない勇気より変える勇気を持つ方が人間にとっては遥かに難攻不落な苦行である。なぜなら人間は第一に習慣に依拠するからだ。習慣への固執が種の保全や、身の安全を確保する為には古今東西では必要不可欠なものである。しかしこの日本という先進国にいる以上、もはや疫病や災厄、無秩序に発生する事件事故を度外視すればその能力はかえって、創造的な生命や生活スタイルを阻害するものであることは一目瞭然である。

 狂気が人を魅了する事もある。ゴッホの絵画でもゴッホの精神状態が極限まで悪い時に描かれた作品が人々の胸を打つ事も多い。また実験的とも言えるシュールリアリズムやキュビズムの潮流もある意味での狂気がないと描けないものである。狂気とは最も人間の身近にあるが、最も健常な生活からは亡霊の如くに感じるものなのである。偉大な芸術家は狂気の泰斗でなければならない。ただ上手な作品を書くのはむしろ修辞や自然主義などの表現技法を勉強した方が容易いであろう。そこには一握のセンスや才能と言ったものは介在しているだろうが独創性を生み出すには自分自身の悪戦苦闘した経験や四苦八苦している現状の障害に関しての鋭利な洞察や昇華が必要である、少なくとも私のような統合失調症の芸術家にとっては。

 私は大学が嫌いであった。人間が嫌いで、学校が嫌いなのだから当然大学も嫌いであった。人間に対しては大部分においては恐怖がアプリオリなものだったのだが、段々と嫌悪にも変わっていった。しかし長身美人の女性は好きであった。私の大学時代はコロナウイルスが流行した時期である。マスク美人というような言辞も生まれて、確かに美人な女性が増えた気もする。ただ長身でマスクをしていればそれだけで長身美人として私の心を鷲掴みにされるようなものであった。

 私は実は大学時代ワンダ―フォーゲルのサークルに入っていた。雑多で喧騒にまみれた人間関係が嫌で数か月で辞めたのだがサークルの仲間と一緒に滋賀県のキャンプ場でキャンプをしたときは本当に楽しかった。精神的に衰弱しきった私にとってあのキャンプはまさに癒しに相当したのである。私は肉が好きである。今も昔も肉が好きである。もっとも最近は豆腐や卵を食べる事が多く、肉の存在感は徐々に透明になりつつあるが、それでも肉が好きなのだ。私たちは行きは電車でそのキャンプ場まで行った。20歳から私は自分の本名の苗字が嫌になり、周囲の人間には「りょうが」と呼んでくれと懇願していたので多くの仲間達からりょうがと呼ばれていた。ちなみにりょうがの漢字は凌我という。我を凌ぐと書くのだ。これはフロイト理論のマニアなら超自我のようなものなのだと連想する事も出来るだろう。

 私はその頃確か身長が178か179であった。もう世間で言うところの丁度良い長身である。なので別に誰とでも肉体的な劣等感を抱かず、臆する事無く交流が出来ていた。しかし私の統合失調症は何やら酷く人間関係を体験すればするほど、疲労困憊になっていた。こういうのは統合失調症を筆頭とした精神疾患における易疲労感というのである。そしてよく考想化声、幻聴を聴く事も多かった。これは体調が悪くなり次第私を苦しめた。今現在でもそのような症状に苦しむ機会が多い。統合失調症との邂逅によってここまで人生が変化するというのは統合失調症は誰よりも啓蒙的な存在であるのかも知れない。私は他人と仲良くなりたかった。しかし私の積極性はその寸前のところで強張り、結局社交的になる事は出来ないでいるのだ。これは今でも尾を引いている。私はこの悪しき傾向を治すにはもはや自分の思考の逐一の歪曲性、歪みを徹底的に批判し、変化させていくしかないと思っている。

 私は明日から障碍者雇用の仕事に復帰するのだが、実はこの仕事でも精神を病んでしまい一か月程休職して療養に邁進していた。仕事自体は単調なもので、清掃がメインのものなのだが休憩時間がほとんどない。私は前述したように易疲労感もあるからこの点がネックとなっていた。また職員の無礼千万の思える態度も私の被害妄想を加速させた。私は次第に職場の悉くの人間から忌避、軽蔑されていると思い込むようになった。勿論これは常識的に考えてみれば荒唐無稽なものであるし、たった一人の人間に対して多くの人間が敵意や悪意を向けたり陰謀を計画したりする事はあり得ないし、したがってそう考える事は甚だしい時間の無駄遣いであり、人生にとってもナンセンスな事なのだ。統合失調症の人間はなんて馬鹿な事で懊悩しているのだろうと多くの健常者は思うだろう。

 統合失調症を棄却したい、嫌な記憶を忘却したい、そのように考える事は正常な反応である。しかしながら統合失調症を無に帰す事は確かに額面的には負担も減って良い事なのであるが一たび治ってしまえばかつてあった狂気に対して何らかの感傷や郷愁のようなものに浸ってしまう。もはや統合失調症は私の友達のようなものである。彼のせいで多くの事が出来なくなったのだが彼と共に過ごした記憶があるのも事実だ。彼のおかげで創作の力動の源を得られた事も事実だ。彼のおかげで私の反骨精神や実験精神、反権力のスタイルや思想に重厚性や本質性が付加されたのも事実だ。この病気は疾病利得というものが存在しているように良い側面をもたらす事もあった。もし統合失調症をなくし、クレイジーをなくしてしまえば私の人生は太平無事なものになるだろう、しかしそんな私は非常に無為徒食で無味乾燥なものにならざるを得なくなるのではないか。この統合失調症の決別の局面に際して私が不安に感じたりしている点はまさにそこなのだ。

 私は大学時代に哲学者的な生活を送っていた。私は大学では哲学を専攻する若者であった。私は大学でも多くの本を読んだ。真の意味での学問を始められたのも大学のおかげである。ずっと私は学問や文学から多くの悦楽を感じていた。しかしながら文章作成能力とか言語能力ではどうやら先天的に遅滞しているらしく教授たちの私の論文の評価は酷評ばかりでした。しかしながら私は如何に言語表現が拙劣で論文の形式がお粗末なものであっても学問の世界でも大きな功績を残す事は可能であると思っていた。そう考える頭での眺望は、まさに風光明媚な絶景であった。私はこの頃、まさに自分が富士山に自力で登頂したような心持がしていた。

 「嵐になれそうとか言われますか」「いえいえ、そんな事はありませんよ」「何かスポーツやっていましたか?」「いえ、まあ強いて言えば山岳部に入っていました」私はこのような会話を職場の人と交わしました。私はアスリート並みの長身であり、のみならず顔立ちも端整である事を認められていたのです。これは今年の出来事でした。彼とはそこそこ会話もしました。

「私は電子書籍でラノベを飲んでいます」「そうですか。僕は昔から純文学を耽読していて、20歳の頃には小説を書いていた事もあります」「そんな高尚な事をやっていたんですか。書いた小説も読む本と呼応して高尚なものなんですか?」「実は20歳からの3年間で学問論文を20本書きました」「学者肌ですか。良いですね。なんで大学院に行かなかったんですか?」「実はお金がないですし、学校は僕には合わなくて」「最近は活字離れが叫ばれていますね。ラノベはそんな中でも手に取ってもらいやすいんです。ラノベ原作でアニメ化されたりする一大産業が成り立っているんです」「そうなんですね、僕はラノベの文体を中学生で書いていました。そのめちゃくちゃさから教師から閉口されたりしていました。苦い経験です。僕は物書きに向いていると良く他人から言われるんです。何故だかは分からないんですが。小説を書いて文学賞に応募したりもしたんですけど鳴かず飛ばずでした」「確かにそんな気はします。まあ小説家として認められるのはいばらの道ですから、ただ書き続ければ実力もついてくると思います。働きながら小説を書いてみてはどうでしょう」「いいかも知れませんね。もう学問の研究も嫌になりましたし。僕はミレニアム問題3問を証明しましたし、アインシュタインの果たせなかった統一場理論を完成させました。それに新たな科学上哲学上数学上の発見発明も膨大にしました。それによって多少でも自信を持てるようになりました」「そうですか。それで賞金などが入ってきて、せっかく就職できた仕事を退職するような事はしてほしくないですけど」彼はそう笑いながら言った。

 私は職場の会話を交わした彼に仕事を教えてもらった。彼からも軽蔑されていると私は思っていた。被害妄想の渦中にいる私は健常者の視点で見ると明らかなミスリードを常套的に行っているのだ。私は女顔美形で、学問や芸術において幾多の功績を成し遂げたが、そういった長所を台無しにするように統合失調症は私を凋落させようとするのだ。私は幸せになる事からただ逃げてしまう習性もついてしまった。幸せになれるのにどうして幸せから逃げるのか、私には分からない。これは二律背反、すなわちダブルスタンダードに近い印象を私は持つ。

 私は高校時代、母親と一緒に地元の山に登った事もある。この頃私と母親は母親の友達によるとカップルのように見られていたという。何だか嫌な感じだがそれでも私の統合失調症を献身的にサポートしてくれたのは彼女だけだった。他の連中はかつての天真爛漫で無邪気で屈託ない時期の私を知らないから私が発狂しても何とも思わない人間が過半数だった。そんな中でも私の母親は当時彼女がはまっていた占いやらの影響を受けて占いをしにいったりもしていた。まあとにかく私は母と登山にでかけた。山頂ではおにぎりを食べたりした。登山は現在でも私の唯一無二の好きなスポーツである。スポーツなんてものは三下で、私の統合失調症を寸毫も考慮しないスポーツマンや体育、ひいては体育教育に私はずっと苛立ちを募らせていた。大学以降はそういった教育の一環でスポーツを強いられることはなくなった。しかし私がかつて高校時代に抱いていたスポーツへの憎悪や愚弄の癖は今現在になっても消える事はない。スポーツなんて絶滅すれば良いのに、と独善的な思考に陥る時も少なくない。私は体育教師を舐めるような行動をとってよく体育やスポーツを嘲笑したりしていた。高校の体育祭には真面目に参加せず、安倍工房の小説を読んでいた。

 今の私の小説執筆スタイルは非常に忌憚のないもの、矜持をなげうつものになったように思える。そうする事で文章そのものも飛躍的にレベルアップし、また小説執筆に至るまでの煩悶や葛藤と言ったものも段々となくなってきた。私は占い師からも小説になれば良い、小説に向いていると言われた事がある。私のその小説家然とした印象は一朝一夕に出来たものではない。ただ統合失調症との死闘の末、ようやく得る事が出来た私の特徴であり、個性なのだ。小説家の中には文豪と呼ばれ偉人扱いをされている白眉もいる。私は彼らと対等に戦える刺客ではない。私は小説を書きだしたのは20歳の時分からであるし、そこで数か月間書き続けて、箸にも棒にもかからない散々な結果で終わり、小説家活動は数か月で幕を閉じた。そして最近になって、23歳になってまた小説を書くようになった。今の私は文学賞とか世間の評価は歯牙にもかけず、ただ書きたいものを書いているのである。自己評価なんてものは他者との比較によって確立するものではない、ただ自分の行動に自信を持って獅子奮迅に疾駆出来ればそれだけで100点満点なのだ。

 私は精神科のデイケアに通っていた事もある。そのデイケアへの通所を始めたのは自分の意志からであり、今現在そこから距離を置いているのも自分の意志である。そこでの生活は概して次のような感じであった。私は最初、多くの年配の方々と喋っていた。そこで知り合ったイケメンの職員は洋楽に造詣が深かった。また彼はギター演奏も上手く、歌も上手かった。私は内心彼に憧れていた。そこで私は宇宙の話や自分の感想、そしてチェス、哲学的な話などに没頭した。デイケアには哲学に親しみを持つ疾患者がいた。彼らの一人曰く、統合失調症は天才の病らしい。今の私の天才肌や天才性も板についてきて、よく私は他人から天才扱いされる。私はその事に、何だか嬉しい感じを抱くのだが、虚脱感によって素直にその事を喜べなくなった。自分の苦痛を万人に向けて、針小棒大に発信し続けたせいか私は自分の幸せに抱く現実感を抱けなくなったのである。

 私はデイケアのライブで二曲程、演奏をした。メンバーやスタッフなどの観衆はその私の演奏を見て「かっこよかった」「うまかった」「魂こもってた」「可愛かった」などと口々に言っていたようだった。私はデイケアでカラオケもした。得意だった曲はThe

BeatlesのStrawberry Fields Forever、Across The Universe、Yesterday、Nowhere ManとSimon and GarfunkelのSound Of Silence、Bridge Over Troubled Waterなどであった(綴りについてはうろ覚えだが)。私は自分の音楽アルバムを鋭意製作中であることを周囲に居丈高に話していた。実際歌詞やギター、キーボードなどの音を録音したりしていた。大体のアルバムの骨組みを私は既に構想し、実行していた。私はその頃、自分の友達から行動力を褒められるようになっていた。

 私は少年時代から女性から可愛がられる機会が多かった。それが自分の容姿の可憐さから来るものなのか、それとも私のキャラクターによるものなのかは分からない。私は自分が愛されるのなら、それが悪意や嘲弄の意味ではないのなら可愛いと言われようがかっこいいと言われようが嬉しい。まだ統合失調症の向精神薬で太る前は私の隷属するクラスを通った女子が私を見て可愛いと狂喜し、のみならず歓声を上げるような機会があった。私はその事を自分に向けられたものである事を後から知った。あの時代、私は美少年だと言われていた。当時は168㎝くらいで小柄だったので、その印象も美少年然とした雰囲気に多大なる影響を与えたに相違ない。まあ統合失調症で陰隠滅滅としてからはそのようなものには却って煩わしさや虚無感を感じるようになったので、私はあえて自分自身で幻聴や被害妄想を増幅させていたのだろう、無論これは無意識的な作用であり、統合失調症の症状に関しては抑圧されたものが転移しているのが認められるのかも知れない。今現在はフロイトの精神分析の理論を勉強研究した後なのでそのような分析をする事が出来るが、当時としては自分に起こっている事も、周囲の魑魅魍魎さも訳が分からなかった。私はそれ故、賢人や偉人、天才の記述に活路を見出すべく、可能な限り自分の時間を読書に割いた。友達や恋人がいる周囲の人々に対して憧れを持っていて、孤独感を感じていた。遊んだりふざけたい年頃なのに私はただ無我夢中で読書に東奔西走した。おかげで博識にはなったがその代償に重要なものを私は失った気がする。その数年後には学術論文を書き、その中で重大な発見や発明を大量にすることになるのだ。確かに読書による知性の研磨は私にとっては学問研究について大きな影響を及ぼした事は事実だ。

読書への没入によって私は人と関わる事に、激甚の恐怖を感じるようになった。その恐怖に現在の私は悩んでいる。全ては自然の力動によって変異した。そしてその弊害に私は不利益を被っている。私は学問と芸術においての業績をなした一方で修復困難な心の悪癖を統合失調症は私にもたらしたのだ。私はそのような不可視の山岳を登頂してきた。多くの広大無辺な、途方もない諸山岳である。案外私の本質は登山家なのかも知れない。

私は高校生になるとアニメや漫画を殆ど見なくなった。高専の気味の悪いオタクは馬鹿みたいにアニメにはまっており、その妄想を私に強要してきた相部屋の男もいたが、私は彼については本当に今でも虫唾が走る、胸糞悪い。深夜になっても私を眠らせてくれず、私が高専を辞めるといった時は何度も私の机を蹴って「お前、高専辞めんなよ」などと言ってきた、私は彼の趣味にも正確にもいい加減うんざりだった。私は彼に死ねばいいと思う。アニメなどにはまる人間に碌な奴はいない、というのが当時からの私の持論である。

私の精神の中核には狂気の原理が働いている。多くの人間も狂気はあるのだが、一般にそれは潜在的であり、日常生活の常識や社会通念に感覚が麻痺しており上手く狂気を使えるようになっていない者が大半である。精神病患者でも自身の狂気を上手く利用できない者も多いのだがなかんずく私にとってはそんな条件はない。私は多くの経験を通じて、あまりにも自然に自分の狂気を出力する事が出来ている。小説を書く際に気を付けるべきはその狂気をどのように効果的に演出するかである。クレイジーは裸体では普通他者を魅了したりする程のものに仕上げる事は出来ない。しかし熟慮や逡巡の末、芸術家として私はクレイジーを売り物に出来ているのだ。また統合失調症の妄想というのも創作の上では有効に働くことが多い。中でも被害妄想や誇大妄想は意識的にでも無意識的にでも長期間にわたって表現すればそれなりの規模になっていく。私は今現在自分に合った生き方をしているつもりだ。私はマイルールを作り、そして変わっていく為の力を既に十二分に温存している。今からでも変わっていって、新たな着想や豊饒な自我を芽生えさせ、多くの芸術作品を生み出せるようになれれば良いと私は思う。

私の精神の足手まといになったのはスポーツである。私はスポーツによって自由闊達な表現や、卓越した能力を開花する事を躊躇するようになった。私は比較的優等生と言われた中学でも頑張れば首位になれる程度の実力はあるのに、その成功した現実を真正面から受け入れられる寛容さや器がないからそうはしなかった。

高校生の初登山の経験を私は語りたい。私は二度目の高校で山岳部に入部した。私は天気図やら登山に必要な道具を持って和歌山県と大阪府の県境にある、金剛山と葛城山に登った。私は登山に適性があり、なおかつその頃は統合失調症もなかったので悠々と登山を楽しむ事が出来た。山岳部の顧問は若い女性の先生であって、彼女は大学時代登山を楽しんでいたらしい。またその金剛山と葛城山の登山の前にも私は部活動で紀南の高校のボルダリングにも挑戦した。それはあまり楽しくなかった。私は登山で自分の心の調子を整える事が朧げながら出来るようになっていた。登山にはヒーリング作用があるのだろうか、登山している最中は現実の嫌な事を忘れられた。高専での甚だしい迫害やいじめ、孤独の経験も登山の運動の中で胡散霧消していくような心地がして、私は内心登山を神の如く崇め、奉るようになった。部員も良い仲間達であった。いささか俗物らしいところはあるが私のようなクソ雑魚産業廃棄物にも優しくしてくれた。今までの私の人生は何だったのだろうと思える程、穏やかな気分になれる経験が二度目の高校の夏休みに入るまでの期間しきりに続いていた。中学時代の友達ともラインをしており、彼らは高校二年であるから、そろそろ進路の事を口に出すような奴らだった。国語の偏差値が60以上の友達もいた。結局彼は大学進学は中堅大学の文系に進んだ。また私のもう一人の友達は有名私大に進学した。私は統合失調症になってしまい、精神的錯乱状態から勉強どころではなかった。ほぼFランク大学とはいえ、大学に入学できた事は奇跡のようなものであった。まあ私の高校時代の主治医は何故だか勉学でも私を高く評価していたらしく、国立大学や旧帝大なんかも夢ではないと言っていたが、私はその言葉に賛同できなかった。たたでさえ、幻聴と被害妄想で嫌な気分になり、気が散るのにどうして勉強が出来るのだろう。私はクレイジーな現実を前にして、どこか諦観を涵養させていた。

どうしても私は現実に希望を持てずにいた。今は割と意気揚々としているが高校時代は本当に何もできず、ただ統合失調症の悪影響を受けて、遂には友達も私から離散していった。彼らの言葉によると「もう付き合いきれん」らしかった。彼らの気持ちは理解できる。私だって健常者なら統合失調症で面倒な奴からは距離を置きたくなるに決まっている。私は少年時代、病める天才なるものに始終畏敬の念を抱いていたが精神病なんて、殊に統合失調症なんて単なる憧れで物見遊山になって良い病気ではないことを今ようやく、中身を持った状態で是認できるようになったのである。私は今作家としても、情報発信者としても様々な罵詈讒謗を向けられているが、この現実を私が真正面から甘受するには私の精神は弱すぎる。したがって私はそう言った声は徹頭徹尾無視するように努めているのである。

また陰鬱さのない統合失調症は極めて稀である。その陰鬱さは最早壮大な山並みとなって慄然とさせるような圧倒的に巨大な像を私たちに見せつけている。それこそ真の金剛山とでも呼ぶべき架空の山岳である。私はこの現実に頻繁に憮然としていた。その胸中を精神科医やカウンセラーに話したが最後に頼るべきは自分、真に自分を救えるのは自分自身とはとある指導者によるものなのだがよく言ったものだ。結局甘えの中では大抵の場合、統合失調症は全快されないのだろう。狂気と天才は紙一重という言葉が一般に流布されて久しい。この言葉は精神疾患者一般を鼓舞するような言葉であり、この言葉に一縷の希望を見出し、何かを演じるように私は生きていた。

私は京都にいた頃、ラーメン二郎に行った事がある。ラーメン自体は雑品だったのだが如何せん量が多かった。しかしここは男の意地、何とか食すことが出来たのである。隣の席では小柄な大学生らしき男が私以上の量を食べていた。私は世界を知った気がした。私は昔は大食漢だったのだが歳を取ったせいか最近多くを食べられなくなった。まあ私の大食い癖は向精神薬の食欲増進などの副作用もあったからどこからどこまでがバイオリズムに即した食欲だったのか未だに判然としない。私は昔食通を自称していた時期があった。自分は一筋縄ではいかない、美食家の荒神、現人神なのだと他人に吹聴して回っていた程だ。しかしその食通の傾向は単に自らの並大抵ではない食欲を充足立てるための口実として公然と利用されていた事は言うまでもない。ここまでくれば最早言語の乱用である。しかし人間世界ではしばしば言語が曲解されたり、また時代に即して出鱈目に変化していくものなのだから私一人が言語を不適切に利用したところで大袈裟には捕捉されないのが常である。

私は大学入学後、水泳同好会にも入った。これも例の如く突如辞めたのだが。しかしメンバーは皆良い人たちだった。中にはヤリチンもいたが私にとってその程度の性的嗜好は問題ではなかった。私は温和そうな小柄な青年とラインをしていた。彼は部長だった。私は彼にもし私が小説家になって有名になったらどうするか聞いた。すると彼はサインをもらうと言った。これはデジャヴだった。高校時代に同じ質問を私がして女教師から同じ返答が返ってきたのを思い出した。

私は誇張してあまり書かなかったが高校時代に電車通学で同じの友達がいた。彼は他人をすぐに不細工呼ばわりしていたので私は彼を咎めた事がある。また彼は当時の私より背が高く174㎝あったという。彼は私に下ネタやら些末な事を話した。高校時代の私は寡黙でそんな私に話しかける人間はほとんどいなかった。しかしその電車通学の男、西田という男は私を全然精神異常には見えない普通の人だと評した。これに関しては嬉しさと当惑が渾然一体となった思いを私は抱かずにはいられなかった。彼もまた一般の男子高校生として誰が美人だとか、セックスの話題だとか、友達の話とかをしていた。私はじゃれあいの一環として全校集会の時、西田から蹴られたこともある。私は一気に憤激して彼に蹴り返した。私は泣き寝入りするくらいなら反撃したいという高専時代の教員からの体罰と一部の私を嫌う学生からの嘲笑を受けた時とは対照的な情動を持っていた。それはある種の体制打破的な精神秩序の進化の証左であった。

私は高校時代、体育教育を馬鹿にする試みとして真面目にスポーツテストやスポーツ学習を行わなかった。しびれを切らした体育教師が私を制服のままテストさせた。私は体育の際、左利きなので左でラケットを持っていると「本当は左利きじゃないか」との疑義が呈された。それは嫉妬や反発心から来るものである事は私には明らかであった。しかし私は全てにおいて左利きであり、周囲を欺くために右も使えるようにはしたものの天然の、最高裁判所級の、ドレッドノート級の左利きである。

私は半ば強引にクラスの女子とメールのやり取りをしていた。私はネットの仮面やフィルターを通すとやけに活発かつ能動的になったので彼女に度々つまらないことをラインしていた。彼女は優しかったのでほとんど全てに返信してくれた。しかし私は彼女を恋愛的には行為を持っていなかった。単に社交的で楽天的に見えたから彼女ならクソ雑魚産業廃棄物の私とも普通に話してくれるだろうと、完全に軽率とも早計とも言える判断から私は彼女とメールをしていた。

高校時代、自由奔放な私に悪罵を向けていたのは私の兄弟であった。連中は平凡なチビ達であった。もし性別を転換させても当時のチビの私よりもチビであった。私は自殺念慮をリビングで母親に話した。すると何故か愚物の兄弟が私に聞かれてもない返答をした。眼中にない連中から痛烈な返答をされるのを嫌がって私は放埓な、自殺にまつわる事をリビングで話さなくなった。それは言うまでもなく、保身の為だった。

私は高校時代に市民総合センターの職員と知り合った。これは私がボランティアをしたいという事でその施設を訪れた際、応対してくれた職員であった。彼女は現在の私の小説家活動を応援してくれている。私は当時もざっくばらんに彼女に自分の悩みを話していた。その大部分はどうにもならない、身も蓋もない事であったが、彼女は彼女なりに毅然として私の悩みに答えてくれた。私は彼女を通じて花屋の老齢の男性とも知り合った。彼とはボランティアの後私が彼の店を訪問して話をした。彼は気丈にコーヒーをだしてくれた。私は自分の身の上やら自分の能力を彼に話した。彼は「多分君は前世で徳を積んだからここまで賢くなったのだろう。実際悪魔に魅入られていたような時期もあったようだけど。しかし君の頭脳は1000年に一度だ。私の時代も周囲の子供とは打ち解けず大人とばかり話している男がいたわ。彼は今政治家になって有名になった。君は若いしまだまだこれからだ。君は自分を精神病だと言うが、精神病なんてものは人間が自分勝手に作り出した概念に過ぎない」私は彼の澄んだ、しかしやや憂いを帯びた眼を見て、この人は真摯に僕の事を考えて発言してくれているのだなあ、と思った。実際彼のその対応は私にとって嬉しかった。これだから生きるのは辞められない。絶望に頭を浸されても、慈愛ある人、真に徳の高い人がいるから私は自殺する事が出来ないのだ、と悟ったような思いになった。私は確かに今までの半生で恥ずかしい事をしてきた。口に出すのも憚られる事もしてきた。しかしその恥が若さというものなのだ。畢竟人は何時でも厚顔無恥だ。私はこの人間世界を見てそのように思えてならない。このもどかしい、狂気じみた世界でさえも本質では神秘性というものがあり、その神秘性そのものが全である存在なのだ。我々人間は一生を終えて彼のもとに帰ってゆく。化学的な修辞を使えば還元されてゆくのである。

私は現在でもピンクフロイドやビートルズ、ブラックサバスを要衝とし様々な音楽に親和性を感じ、悦に入っている。私は洋楽世界にいる彼らの影響を存分に受けている。例えば視覚過敏のサングラスだってジョンレノンのサングラスを模倣したものだし、ピンクフロイドの高度さはプログレッシブツイストという私が展開する一つの芸術様式へと昇華しているし、ギターを一時期狂ったように練習したのだってメタルの総本山、ブラックサバスの左利きギタリストトニーアイオミの影響だし。私はクソジャップというコンセプトとの差別化意識から洋楽に傾倒していったのだが、それは別に邪道の小径などではなく、私より上の年代の少年青年達もそうやって大人になっていったのである。確かに高専時代、私は学生寮の中でも何度も何度も自分の好きな洋楽を垂れ流しにして、一時期その私の奇行が問題となっていた。しかし学生寮の規律なんてものは私には関係がなかった。私は自堕落な人間として高専時代の生命を謳歌していたのだ。犯罪をしなかったのがまだましだった点だろう。私は一年も経たぬ内に実家の自宅からの通学をはじめた。しかし私は最後まで高専を続けられず、父親からは高専を辞めるなんて勿体ないと苦言を呈されたり、その判断に難色を示されていたがそんなもの、死しか考えられない当時の私の脳髄では素直に受け入れられる筈がなかった。あの時はあの時で精神病だった。そして15歳からの性格の変転から遂に私は15歳で統合失調症を発症し、その前駆期が始まっていたという論理の帰結に至った訳なのである。

私は既に小説家活動を始めて40作品以上の小説を書いていて、既に自らの内的資源を使い果たした感じがする。おのずと湧き上がってくる表現欲求というものも劇的に欠乏しつつある。このままでは駄目だ。私はこれからの芸術家としての、プログレッシブツイストの芸術家としての洋々たる前途の為にこの凝固し、腐敗した私の魂を変えなければならない。前に進むにはどこかで死なないといけない。そうやって人間は大人になり、円熟していくのだ。自らの能力を総動員して、常に才能の塊でいる為には大変な勇気と犠牲がいるものなのである。ここまで私を小説執筆に駆り立てたのは私のクレイジーさの粗暴性からである。私はこの厄介な番犬を遂に飼いならす事は出来なかった。自分の悶着やフラストレーションなどを文章に書き起こす事で病気の身を憂う気持ちを浄化させたかったのである。

統失は天才の証だという言葉がある。私は自身の登頂してきた。その像は模糊としているのだがもしかしたら富士山級の山岳であったかも知れない自分の想像上の山岳、艱難辛苦が具体的な像として変換された山岳を見ている。「この山々は私に多くの学びと、勇気を持つ大切さを教えてくれました。ありがとうございます。そして次から私はその苦難そのものの山岳を登りつつ、そのプロセスをただ嘆息したり、泣き言を言ったり、絶望したりして死屍累々の一人になるよりも私とそれらの山岳を対等な存在としてこれからも登り続けます。ありがとう。この山岳とそれらの付属品が織りなす景観は今の私の邪気邪念のない目で見ると良い景色に見えます。ものを楽しむのは見方次第なのでしょう。ありがとう」私はそうこのクレイジーな百景を思い返し、そう言いたい。それらは私の想像の中で美しく見えるだけなのかも知れないし、もしかすると後世になって赤川の見ていた現実世界の解釈はこれほどまでに情緒的で、芸術に満ちていて、洞察的だったのだなあ、と思われるかも知れない。未来を予測するSF作品などが現代は跋扈しているが、私の芸術作品はそのような存在の一つであるのかも知れない。私は数学という科学の王を駆使しない芸術においてこそ、常人より遥かに感慨深く、そして明晰なものの捉え方をしているのかも知れない。私はずっと学問研究において論理や数学の言葉を使って、自らの50以上の発見や発明を論文にまとめてきた。それはおそらくその使用道具の完備性からおそらく正しいものであるだろう。私は学問と芸術、両者から世界を捉え、双方で自分なりの精一杯の努力や自己研鑽をしてきた。その過程は、美しい小説のようなものではなく、むしろクレイジーなものである。しかしそれで良いのだ。人生は見方次第、そして行動次第。その見方や行動を生むのは性格であり、今の硬直した私の現実を変えないとこれから先、私には明るい未来やお花畑に近い理想郷はやってこないだろう。私はジョンレノンのイマジンのように夢想家と呼ばれても良い。ただ自分を更に良くし、そのエゴの延長線上で社会や世界を良くしたいのである。それは果たして間違っている事なのだろうか?哲学的に言えば致命的なミスを犯しているものなのだろうか?私は学生時代哲学の勉強をしていたがそれは特段哲学に対し、極限までの研究をしていた訳ではない。私は研究してきた哲学も、数学も、自然科学も、芸術も、理解していない。私は無知なのだ。そして無知であるからこそ私は自信を持って馬鹿げた一挙手一投足を取る事が出来る。馬鹿こそ最高だ、この崇高な馬鹿は私の守護天使だ。私はこれから先も恐らく、万人にとって模範とされるような行いをする事は出来ないだろう。そもそも統合失調症なんだ、その取り繕いには不完全さが常に同居している。

私は子供の頃、愚かな妄想ばかりする少年であった。それが現在では愚かな妄想を肉感的に、緻密に、時折猥褻に、そして我流に表現する事で自分の使命を果たせている。私はこういった自分の運命を本当に愛らしいものに感じる。クレイジーな山岳やら、統合失調症やらは私にとって肉感的な、或いは実体的に思えるような固有の存在なのだ。

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クレイジー百景 赤川凌我 @ryogam85

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