第10話 三日目 午前中
母は矢羽柄の、朱色の和服を纏った。
改めてその器量に魅了された。手にはおはぎの入った手包と小さなバッグを持っていた。
昨夜から色んな話を聞いた。父とは長崎懸庁の法務局で働いていた頃に知り合ったこと。あの長崎の土地は、祖父が原爆死で早逝したので所有権移転で揉めたらしい。その案件で相談を頻繁に受けるようになったこと。
「思えばあの土地で今も繋がっているのは、ご縁よね」
父とは離縁したわけではなく、訳があって長崎の土地の管理人をしているらしい。その理由とやらは、話しては貰えなかった。つまりあの家の玄関脇にあった事務机はそういうことだった。
いきなり訪問するのは躊躇すると母は言うが、電話は町内では映画館しか引いておらず、早朝に電話して呼び出して貰うには、さらに剣呑なことだ。
それからスーツ姿の私と、和服の母と路面電車の電停に向かった。大橋市民球場の、高校野球のポスターの貼られた狭い道を、肩をぶつけそうに歩きながらこれからの話をした。春季大会はもう終えていたが、練習をしている掛け声が曇天にこもっていた。
長崎駅舎に到着した。
私は周遊券を準備して、改札口に向かおうとして母に呼び止められ、手包を渡された。おはぎの入った包みだった。
「汽車でお上がりなさい。私はお手洗いを済ませてくるから、先にホームに上がってなさいね」
相槌を打って、改札を抜けてホームに向かった。母には次の便の切符を購入して渡してある。それでもなかなか姿を表さないので、やきもきしていた。
長崎駅は最西端の終着駅なので、最初からホームには蒸気機関車が寝そべって、二度寝をしているように水蒸気を吐いていた。出発の放送がかかり改札口を気にしていたが、まだ来ていない。
生者にはこの列車は見えないらしく、乗り込む乗客は殆どいない。機関車の駆動音が大きくなり、意を決して乗り込んだ。ぞくりと首筋に刃物が触れたような違和感がした。
まるで影が後追いする様に、何かが一緒に乗降口を上って来た。
体を交わして確かめようとする矢先に、予想外の力で突き落とされた。満身の力が込められていた。つんのめった私はホームに膝と両手をつき、乗車口を仰ぎ見た。
母が、硬く唇を結び、かつ哀愁の表情で屹立している。目尻を緩ませながらも、涙さえ硬質化しそうな決意がその瞳にあった。
その瞬間に汽笛が鳴り、乗降口が閉まっていく。
母の姿はドアに呑み込まれ、列車は獣が身を起こしたように身震いして動き始める。その時に客車内のひと窓が上に押し上げられ、朱色の矢羽柄の袂が見えた。白い腕がさよならをするように緩く振っている。
私は砂を蹴って立ち上がり、その手を追った。
「母さん、列車を降りちゃダメだ。必ず追いつくから、きっと追いつくから」
私は財布をその車窓に投げ込んだ。手はゆらゆらと蝶が舞うように揺れている。どんな表情なのかは見えない。
「これを使って、きっと追いつくから」
その声は動輪の響きに擦り潰され、母に届いたかはわからなかった。
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