第9話 三日目 早朝

 包丁のリズミカルな音がする。

 障子の向こう側で、忙しく働く気配がする。

 小豆の煮える柔らかい匂いと、味噌汁の塩っぽい匂いが、波濤のように交互に寄せて来ている。私は温かな布団のなかで、夕べのことを反芻しながら伸びをした。この素っ気ない部屋を揺らして、前の通りを始発のバスが通過していく。その排気音の隅から、小鳥の囀りが聞こえてきた。

「ああ、起きちゃった。もう少しお寝坊してなさい。もうすぐご飯にするから」

 しばらくするとガス炊飯器からご飯の匂いも漂ってきた。母は、すっかりと母らしい物言いになった。


 昨夜は、父の物らしい浴衣を出してくれて、並んで銭湯に行った。

 夕飯は冷や飯でも構わないと言ったのだが、それはお櫃に入れて、新しいご飯を炊くといって聞いてはもらえなかった。この夕食の直前まではまだお客さんか、まるで父に相対するような物腰だった。

 銭湯からの帰り道に、母の濡れ髪から芳醇な香りがした。それだけで嬉しさが溢れてくる。深夜になって布団を延べたが、ひと組しかなかった。私は後ずさって「僕、どこかに宿を取ろうか」と言ったが、ぴしゃりと否定された。

 歳下で女盛りの母との同衾は、流石に遠慮をして背を向けていた。柱時計が無遠慮に0時を告げた時、私の背をかき抱いて「まだ起きてる?」と訊いた。眠りの淵にいようが構わない、凛とした声で続けた。

「おっぱい飲まない?」それから「もう出ないけど」と付け加えた。

 無言で頷いた。母は前を開いて寝返りを打った私の頭を胸に埋めた。差し出された乳首を咥えて夢中で吸った。

 それから「ああ、やっぱり。私の子だ」と言った。確信に満ちた声だった。やはり疑いがその瞬間まで沈澱していたのだろう。哺乳類としては、腑に落ちるための儀礼だったかもしれない。


 朝食を済ませてそそくさと身支度をしていたが、母はまだ台所で何かを拵えていた。ひょいと覗くと、手ごねのおはぎを櫃に並べている。

「餅米でなくて昨日の冷やご飯で悪いけど、餡は昨夜から準備して朝炊いたから、大丈夫よ。ちゃんと甘いと思うけど」と言って、小ぶりのひとつを摘んで、私の口に押し込んだ。私は相当にぎょっとした顔をしたらしい。その無邪気な笑みは慈母のものだ。

 一番大事なことは、巡霊者の私に残された時間は、もう一日しかないということだった。移動時間も惜しいが、母は巡霊者専用車両には、同乗出来ないはずだ。次の普通便に乗ることになる。到着後の僅かな時間に、実家の祖母と父を納得させないといけない。

 それでも自信があった。

 私の右肘には酷い火傷の跡があった。

 火傷は二歳の時に、石油ストーブの上の薬罐を倒してしまって、自ら負ったものだった。お尻から皮膚を取って移植するような大手術だったが、ケロイドは今でも爬虫類の肌みたいに残っている。肉親なら見紛う筈もない。

「本当に綺麗に治っていたわね。もうピンクじゃなくて、真っ白で」

 実家にいる幼児の私の傷は、まだ血が凝ったような色をしているらしい。

 さらには硬貨という証拠もある。両替できなかった平成年号の500円玉硬貨に、母はとても驚いていた。

 この時の私は自信に満ちて高揚していた。

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