第2話 保育所・幼稚園・小学生・中学生までの私
一条保育園、一条幼稚園そして一条小学校に入学しました。
保育園の時は大好きな先生がいました。初恋かも入れません。(このころから女性が好きだった)幼稚園は厳しい先生が多くて幼稚園の先生は嫌いでした。このころはすべて先生は女性でした。(時代でしょうか)
私は4月生まれなので3月生まれの子より1年早く生まれていること、叔母の弘子が7歳年上で映画館の母屋で一緒に生活していたので漢字とか足し算とかを教えてもらっていたこと。で小学校の成績は上位でした。女性の先生にはかわいがってもらえましたが、当時の恥ずかしいエピソードを書きます。2年生の時に授業中にうんこをまかしてしまい担任の先生にパンツの履き替えをしてもらいました。もともと保育所に行くまでは体が弱く常に熱を出して寝ている状態でしたし、生まれた時から腸が弱く常に下痢をしている強弱体質の子供でした。保育園に行きだしてあまり熱は出さなくなり元気になっていきましたが、腸の弱いのはそのままでした。
小学校入学から高校卒業までなぜか運動神経が良くて体育の評価は5でした。先生に可愛がられたりクラスの級長(委員長のこと)をしていたりかなり目立っていたのでそのことが6年生の番長にの目に余ったのか4年生の時に体の大きさが全く違う番長と子分2名にぼこぼこにされました。ただし運動神経が良かったので急所を外させて殴られたので倒れた後3人がいなくなって普通に立ち上がって友達のところへ。みんな心配してくれたけど急所外していたので何の問題もありませんでした。ちなみにこの番長と24歳の時に板野警察署でばったり会うのですが彼は手錠をされていました。やくざの親分で逮捕されていました。なぜ私が板野警察署にいったかは大人になってからの話で説明します。
次に吉野中学校
ところがこの普通の生徒(僕たち)数名が不良に反旗を翻した事件がありました。まず私です。私のクラスに不良一味の3名程度がいたのですがあまりかかかわりを持たないようにしていましたが授業中にクラス全員(不良を除いて)に消しゴムを投げてきました。やめるように注意をしたのですがやめないし先生は気が付いていないし切れてしまった私は授業中(理科)でしたが彼を教壇のところまでひきづって行って殴ろうとしたら先生に止められました。運動神経に自信があったのでこいつには勝てると思っていました。あとで20人に袋たたきにあうことは考えましたが、切れたのでしょうがない。その後職員室に二人連れていかれ理由を聞かれました。すべてを先生に話したら軽いお小言で終わりました。また20人の袋叩きはありませんでした。彼が自分がかっこ悪いので不良グループに言わなかったみたいです。
もう一つ半旗を翻したエピソードです。この時の親友(大人になっても)で龍谷大学を卒業後城陽市(京都)にある新聞社の社長になり今は息子に跡を継がせて自分は引退している親友です。当時の彼はおとなしい性格の文学少年でした。ところが不良グループNO3になぜか切れて体育館の裏で決闘を申し込んだのです。決闘を見に行ったのですが殴りあいが互角でした。殴り合いにつかれて決闘を止めたのですが二人とも鼻血を出しながらお互いをたたえていました。本気になった時の男は美しいと思いました。(決して私は男尊女卑の考え方ではありません。今も嫁が一番怖いですし常に女性のほうが強くかしこいと思っています)
この吉野中学校で一人の先生にお会いします。私が教師にあこがれるようになった先生です。松崎先生と言います。部落差別と称される地域の出身でした。前にも書きましたが私の育った町一条町(現在は吉野町)ですがこの町周辺は古い歴史があります。一条、二条、五条、六条、御所と地名が残っています。土御門上皇が流されてきたからだそうです。そして京都と同じようにエタ,ヒニンという部落を作ったみたいです。みんな元々は水飲み百姓だったと思います。それが土御門上皇のせいで部落差別の地区を作ったのだとおもいます。(私の想像ですが間違いないと思っています)
本題に戻ります。この先生は英語と国語を教えていました。特に国語を専門にしていたと思います。好きな理由はすべての生徒に平等でした。女子生徒、男子生徒を常に公平に接して生徒に対しての思いが伝わる先生でした。多感な時期の生徒に信頼される先生。自費で小説も書いていたようです。この先生にあこがれて教師になりたいと思った中学時代でした。
もう一人私の親友かな?(子供のころからの幼馴染です)のエピソードを書きます。M君と言います。小学生のころから頭が良くて小学校、中学校と成績は常に1番でしたが、頭のよさそうなところはいっさい見せなくて冬でも裸足に運動靴。貧乏だからではありません。彼の家母親が酒屋さんを経営していてお父さんは小学校の校長をしていました。裸足の原因は水虫だったからです。でもそれを悪びれずいつも自分を卑下しながら皆に好かれていました。このM君は将棋が好きで中学生の時は私がクラブとかで帰ってきていないのに、常にじいちゃんの家に上がって将棋を指していました。おじいちゃんとは将棋友達でした。そのことがあって彼が徳島県立城南高校(当時徳島県で一番偏差値の高い高校でした)ちなみに私は徳島県立阿波高等学校卒です。彼が3年生の時、担任から徳島大学医学部を受けるつもりだったのですがギャンブルが好きで、鳴門競艇等で勉強そっちのけで遊んでいたので担任から10月に1年浪人をして受けるように言われました。彼の3歳年上のお姉ちゃん(徳島大学教育学部を首席で入学していました)が泣いて本気で勉強をするように諭したところ実質4か月本気で勉強したみたいです。3月に合格通知が来るのですが彼はその通知書をもって彼の家から私のおじいちゃんの家まで直線で500mあるのですが畑の中を一目さんでかけてきました。その光景が今でも目に焼き付いています。そして彼は無事お医者さんになりました。卒業後徳島大学医学部に残り研究をしていたのですが彼の師事していた教授が学長選に敗れて彼は大学を出て総合病院の副院長に就きました。現実の白い巨塔を垣間見た気がしました。その後彼は心の病気になりました。世の中はどんなに優秀でもうまくいかないことがあるということ。幸せとは何か考えさせられた出来事でした。
次に映画館のエピソードを書きます。名前を一条座と言いますこの町に映画館は2件でした。その一軒を母方のおじいちゃんが経営をしていました。映画の上映する日は町中の人に今日は映画があるよと知らせるために映画化の稲の上におおきなスピーカーが3個が3方に向かって設置されていて音楽を鳴らします。その音楽係を私が任されていました。私が学校から帰ってくると私の持っているレコードを何をかけてもいいといわれていて当時のジュリーのタイガースのレコード、スパイダースのレコード等をかけることが楽しく映画のある日は飛んで帰っていました。映画館の孫の私は映画はもちろんタダです。死ぬほど見ました。東映の時代劇(男優より女優が好きで桜町弘子,丘さと美をよく覚えています)日活は小林旭、石原裕次郎が人気でした。いなかでは小林旭、都会は石原裕次郎が人気だったように思います。このころの影響でしょうか今も映画は好きでNETFLIX,primevideoを活用しています。私が中学生の時代にテレビが普及して映画館が閉鎖に追い込まれます。おじいちゃんの映画館も例外でなりませんでした。世の中の移り変わりの速さについていけない怖さを知りました。
その後も映画は好きで特に洋画にはまりました。「スティング」、「ウエストサイドストーリー」、ダスティンホフマンの「卒業」は今でも大好きです。
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