第3話 鎌鼬

 滝行を終えて岩場に上がった。

 川沿いに参道があり、そこに地元の老女が野良姿で立っていた。両手を合わせて拝んでいるのでかなり恐縮した。

 身体から排熱をするための行為に過ぎないのだけど。

 決して修行への鍛練や信仰心が深いためではないのだけど。

 バスタオルで髪に残る水を拭って、岩場から上がった。冷え切ったおかげで肌がいつもより滑らかだ。元々薄い乳暈がさらに血色を失っているのが、濡れた布地の上からでもわかる。

 やっぱり。

 せっかく集めただろう晩秋の茸が籠盛りで参道口に置いてあった。こうして貰いものを頂いて申し訳ないけど、私には食物は必要ない。これも色葉へのお土産になるでしょう。


 時間があるので下見に出ることにした。

 大蛇が原はこの樽沢から国道に出て、10㎞ほど山道を下った場所にある。

 沖積世時に氷河によって侵食されて、スプーン状に削られた窪地が形成される。室町末期までは、幼児が手で掬ったような浅い湖があったらしい。それが江戸期には湿地になり、今や芒と茅の群生している草原ということだ。

 おろち、という物々しい地名には、蝮を含めて蛇の棲み家となっているからだ。ちょっと剣呑な場所であるので、本来ならば色葉を伴いたくない。その理由があれば見つけておきたい。そういう意味での下見だった。

 電動アシスト付マウンテンバイクが私の交通手段だ。

 近世的な戸籍制度ができる前の、生まれの私に戸籍はない。だから自動車免許なんて取得できないし、企業や行政からの案件や、法的な手順が必要な場合は、主家の宗教法人を通してもらう。

 そうね。

 生誕地らしい堺に行けば何かの記録が、きっとお寺の過去帳なら記録があるかもしれないわ。終戦直前の戦災にあってなければ、だけど。

 自転車に乗るときはぴっちりした黒のロードスパッツに、蛍光色のランナーウェアを着る。革製のヘルメットも被る。峠を走る車が乱暴な運転をするので、なるだけ視認性の高い姿でないと危険だ。危ないのはむしろ車の方だけど。

 雪女を驚かせたら、瞬時に氷の柱になる。

 肉体が瞬間凍結すると、その反作用で血液が沸き立って突沸状態になる。間違いなく即死だ。


 草原に到着した。

 陽は中天に輝いていたが、雲を伴っていた。緩い風で雲が切れ切れの塊になっていて、時折は陽の翳る、そんな天気だった。

 高台の峠からの晩秋を迎えた大蛇が原は、黄金色の芒が風を孕んで波のようなさざめきがあった。窪地には風が巻いているらしく、翻弄されるばかりの芒の群生に時折は獣道のような浅い茂みも見えた。草原のあちこちから紅猿子の声がする。雀に似た大きさと斑点のある野鳥で、囀りで警戒している。その数を考えれば、よほど食べ物があるのでしょうね。

 そしてそれを餌に、この地には蝮もいるのでしょうね。

 ガードレールに切り分けられた草原のすぐ側に立ち、マウンテンバイクを停車する。一段低い湿地から私の背丈を超える茂みになっていて、白い鉄板に切れ目は無く、どこから入るべきかを悩んでいた。

 足首まで覆うスパッツを選んで正解だった。蝮に噛まれても私なら致命傷ではない。そうね、暫くは痒くはなるでしょうね。

 そう考えたとき何とも言えない感覚を味わった。人間の気のようなもの。しかもかなり微弱なもの。

 ただ在るということだけの、毒性の低いものたち。

「ちょっとアンタ、その中は立ち入り禁止だよ」と強い口調で声を掛けられた。

 オレンジ色のハンターベストを着た初老の男だった。目深に作業帽を被り、胡麻塩のような髭が浅黒い肌から顔を出していた。

「あ。ひょっとして樽沢の、そう巫女さんの、えっと鳴神さんかや?」

「そうです。鳴神 六花です」

 軽くほっとため息をついて、口調のトーンが丁寧になった。

「昨年は孫の七五三でお世話になりました。んでも何だらこの場所に」

「都会からの登山客の事故で、町からお祓いを頼まれているの。それで祭壇をどこに置こうかって下見に来たのです」

「ああ、そういう事情ですか。とはいえこの中に入るのはお止めくだせえ。蝮はそろそろ冬眠時期だけど、ハンターの誤射も心配だもんで」

 額に逡巡の皺が深く寄る。それで首を一度傾けて決心がついたらしい。

「それに・・・」と言いかけた。

 遠くで猟銃の音が木霊して響いてきた。

「ここは祟りを受ける謂れがあるだでな」

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