第3話 幼き頃の記憶

 きりの国。名前の由来となっている霧の国の濃い霧は一年中、途絶えることもなく夜半に発生する。そして、太陽が昇り出すと同時に強くなる風によって消えていく。

 

 よって、日々の生活において霧の国の人々が支障をきたすということはあまりない。稀に風の弱い日もあり、そのような日は霧が完全に晴れるのが昼頃になってしまい、少しだけ難儀するといったぐらいであろうか。


 いつものように風によって霧が追い払われた頃、ようやくげんが別室で待っていた華仙かせんの前に現れた。


「遅かったけど、具合が悪くなったの? それに、その格好……甲冑を着て行かないつもり?」


 毎度のことなのだが、まるで保護者のようだと自身でも思いながら華仙が言った言葉に玄は首を左右に振った。


「具合は悪くない。大丈夫だよ。甲冑を着ないのは戦争をしにいくわけではないからね。相手に無用の威圧を与える必要はないって思ってね。違うかな?」

「違うかなって言われてもね。それに、もし何かあったら……」


 眉間に皺を寄せて華仙は玄の言葉に対して不満げな顔をしてみせる。


「僕が危険な目に合わないように、将軍の威候いこうや兵たちがいるのではないのかな? 後、威候たちも僕と同じように甲冑を着ることは禁止だよ。流石に剣を帯同することは許すけどね」


 玄はそう言って和かに笑う。玄のそのような顔を見て華仙は大きな溜息を吐いた。基本的には気が弱いにもかかわらず、この幼馴染みでもある君主は昔から言い出したら聞かないところがあった。


 それを単に我儘というのではないだろうかと思う時がある。

 因みに玄が幼かった頃は更に幼い華仙の横でいつも泣いていた記憶しかない。


「分かったわよ。精々、私から離れないようにしてね」


 華仙がそう言うと玄は何やら思案顔となる。


「何、今度はどうしたの?」

「ん? 女性に守られるのは男として、いや君主として流石にいかがなものかと思ってね」

「……今更でしょう? 玄は剣もろくに使えないへなちょこ君主なんだから」


 そんな華仙の嫌味を気にする素振りも見せないで玄は破顔した。


 まったく……。

 華仙は心の中で溜息をついた。性格がいいことだけは分かるのだが、どこか飄々としていて君主としては何とも頼りがいがない。もっとも、飄々としたこのような感じが民には好意的に受け止められているといった部分もあるようなのだが。


 しかし、普段はこのような感じで全くもって頼りがいがない玄なのだが、時には驚くほどの行動を華仙に見せたりもする。

 

 まだ玄の母親が存命だった頃。玄が八歳、華仙が六歳だった時のことだった……。





「華仙、どうしよう?」


 そう言いながら玄は濃い茶色の瞳に涙を早くも浮かべていた。そうやっていつもすぐに泣くのだからと思いつつ、華仙は心配そうな顔をつくって見せた。


 女の子が六歳にもなれば、それぐらいの演技はできるというものだ。それに何よりも目の前でめそめそしているのは、どんなに頼りなくても華仙が守らなければいけない君主様なのだ。

 玄様をお守りしなさい。華仙の両親によく言われているそんな言葉が華仙の中で浮かび上がってくる。


「どうしたの、玄?」


 泣いてばかりで要領を得ない玄になるべく優しく聞こえるように華仙は問いかける。


「母上の熱が下がらない。それにいつもより全然苦しそうで……」


 しゃくり上げ気味に玄は、やっとそれだけを華仙に言った。


 ……美麗びれい様。

 玄の母親でまだ子供だった華仙から見ても非常に美しい人だった。ただ病弱で華仙が物心がついた時にはいつも床に伏せている。そういった印象しかなかった。玄の体が病弱であまり丈夫ではないのも美麗に似たからなのかもしれなかった。


「母上がこのまま治らなかったら、ぼくは一人ぼっちになっちゃう」


 玄の父親である先代の君主は玄が生まれてすぐに、熊の国との戦いで受けた傷が元で亡くなっていた。この出来事も霧の国の民が熊の国を嫌う理由の一つでもあった。

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