第24話 半裂

 森はもともとお喋りなものだ。

 特に夏から秋にかけては、真夜中でも途切れることなく虫の音は聞こえてくる。彼らの愛の囁きでもある。夕涼みに歩くと、羽虫の羽根の音が闇から耳元に浮かび上がり虚空に抜けていく。

 これが日中ならば小鳥の囀りもある。

 朝の目覚めに鳥の唄を聴くのは、贅沢な時間だと思う。

 そして私の庵であれば、せせらぎの音が絶えない。水が巌に弾け、水煙をあげて滝壺に向かっていく。岩肌を叩き、龍が奔るようにのたうって川底を洗い、本流へと吸い込まれていく。

 少なくとも冬支度の森でさえ、細くとも虫の音はあり、夜行性の獣が葉を揺らしていく音はあり、生き物の息吹きを感じるものだ。

 だが、この山は異質に沈黙している。

 何かに怯えているような濃密な気配がある。

「やはり居たわね」と呟いた。

 そこは望台に向かう巨岩の隙間を渡る小径だった。

 この丑三つ時の山中に似つかわない姿で、それ、は居た。

「橘係長・・・」と甘利助教は呟いた。

 痩身に町支給の制服を纏った男が、ゆらりと幽鬼のように行手を塞いでいる。メタルフレームのレンズの向こうの眼は見えない。ぎらりとした冷たい輝きだけがそこにある。 


 けひゃあぁぁぁ、と物狂いした猿のような咆哮をあげて、それが宙に躍り出る。夜目にも白く、霧状の唾液が飛び散る。


 それは身長よりも高みに跳躍して、空中で四肢を折り、力を溜めている。およそ真っ当な人間の技ではない。そもそもそんな武術を嗜んでいるタイプには見えない。

 それから私の脳天に向けて、尖った靴の踵が振り下ろされてくる。

 瞬時にその踵を受け止めたのは、助教の踵であった。肉と骨が衝突する、耳底に残る嫌な音がする。助教は下から蹴り上げた踵で受けて、そのまま彼は反動で地面に後頭部を打ち付けるかに見えた。だか折り曲げた上腕で体重を支えて、その湾曲した腕のばねで跳ねて立ち上がった。

 ありがとう。時間が稼げた。

 投げキスの要領で、寒気をそれの眼鏡にぶつけてやる。一瞬で凍結した眼鏡は視界を奪い、それの次の打撃はあらぬ方向へ向かう。さらに二回目で、全身が白く染まった。まるで彫像のように硬直した姿勢で岩の上を跳ねて、目前に落下してくる。

「こ、殺したのか?」

「まさか。この人は面妖よ。操られているだけの雑魚よ。どうも能力者はここにはいないわ」

 私は彼の作業着を開き、開襟シャツを剥いだ。

 この指以外で触れることの出来る温度ではない。

 そこには腫瘍がありありと人面の様相で刻まれて、嬉しそうに嘲笑している。凍結が解けず、まだ言葉を発せていないが、唇に似た肉塊がなめくじのようにうねうねと動いている。

「こいつが働き蜂のように、関係者を回って感染を広めていたのよ。貴方ももう一歩で危なかったわね」

 その腫瘍に掌をかざして念じた。

 多少の凍傷傷は残るだろうが、切除はできそうだった。

 しかし能力者の気配はない。となるとやはり色葉に憑依転生させる目的のようだ。ならばその前に石女尼を倒すしかないわ、と思った。 

 そして。

 夜明け近くになり、最も闇が濃くなる時刻に。

 私はその古井戸の正面に立った。


 私ひとりで向かうことにした。

「降りた後でこの枝でこの井戸を塞いでね。さっき紙垂れを結んで封印をかけたので、この井戸の外は安全よ」

 相手は強敵だ。私も能力の全てを使うつもりだ。

 そうなるとこの辺り一体に超寒気が放たれ、生物は全て冷凍破砕されてしまう。そこに出来上がるのは数百年は溶けない氷河になる。

 彼の命を惜しむということだけでもない。

 封印によって空間を限定することで、熱量を収奪し尽くして絶対零度の領域まで引き摺り込むつもりだ。そうまでしないと倒せない相手だと思う。

「もう一度言うわね。この井戸の中には立ち入らないこと。もしかするとアルプスの氷河で発見された古代人みたいに、数千年後に貴方は発見されるかもしれないわ」

「願ってもない。博物館に所蔵されてみたい」と彼は笑った。

 井戸には内階段というものはない。

 井戸の内壁の石積みに階段状に氷の塊を作って、それを足がかりに降りていく。何度も言うようだけど、雪女は空を飛べない。

 入口は狭くなっていたが、降りていくと空間が広がっていく。人間の身長を超える直径になってきた。しかも精緻に作られた石壁には、黴臭くはあるものの、果たしてこれは井戸なのだろうかと疑いを持った。

 そう、色葉の言葉がこの時に蘇ってきた。

 多くの侍の姿が視える。

 それにこれは、井戸ではない。

 抜け道!

 ここは真田の城だ。

 真田が改修に関わった城であるならば、落城時に備えて抜け道を造作することは有り得る。しかし落城時にここから脱出が出来た記録はない。

 始めは臭いだった。

 青黴をさらに煮詰めたような粘着質の、臭い。

 鼻腔に捩じ込まれてくる強烈に不快な、臭い。

 ぐっ、ぐっ、ぐっと蟾蜍が輪唱する音がする。

 それが笑い声とは思えない、不穏な音がする。

「・・・風花よ、息災かや」

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