第20話 半裂
生物を構成するのは、水。
人体でいうと男性の60%が水で、授乳や育児のために体脂肪を蓄える女性で50%が水分ということ。水は極性分子という特徴があって、互いに寄り添いひとつの塊になるのを好む。
そして動物細胞は大部分が細胞液ということで、つまり動物は行動して捕食して排泄し、生殖して子孫を残し死ぬことのできる、水溶液の入った袋みたいなものだ。
私の
水分を持たず実体のある敵は、これまでそうそういない。
私の周囲に猿鬼が喰らいついてくる。
牙を奮い、爪を立て、火のような咆哮をあげて襲ってくる。
しかしそんな卑小な刃がこの肌には届くはずはない。
私の霧絹は空中の水分を氷結させたものだ。さらに地表からも熱量を奪って凍土に変えて、霜柱がめきめきと伸び上がる。立木も瞬時に凍結して氷の被膜で灰色の氷柱と化した。
そして肌を直接守る被膜は液体窒素でできている。
窒素は安定した気体で毒性はなく、液化温度は−196℃に達する。
その氷の鎧は、獣程度の牙や爪が通るものではない。
しかも私の意思でその霧絹も氷鎧も、自由に動かせる。水分を失って骨と皮ばかりになった肉体。それが渇望しているのは水だ。いつしか猿鬼どもは私を襲うことよりも、霧衣を舐りつくそうと青黒い舌を伸ばし出した。
可哀想なのは、生身の甘利助教の方だけれど。
後ろを見ると、意外にも山刀を巧みに操り、身を
彼の発煙筒は投げ捨てられて足元に転がっているので、周囲はほんのりと明るい。その側に猿鬼が何体も両断されて転がっている。
心配は杞憂のようだ。
それでも幾ヶ所には咬みつかれたのか、左肩に血が滲んでいる。
私は霧絹を背後にまで回し、液体窒素の内壁で彼の周囲を包んだ。そう掌で小鳥を覆うように、すっぽりと優しく空間を広く。その発煙筒が揮発した窒素で、消えないように心がけることにする。
よかった、加減を図るいい目印になってる。
「なんだ、こいつら。殆ど体重ってもんがない」と立ち回りをした彼は息も切らさず、しかも体術の心得のある動きをしていた。
「水分がない、生きたミイラなのよ」
猿鬼から距離を置けたので、不平を叩く余裕が生まれている。
「鳴神さん、あなたは・・・」
「六花よ、それでお分かり?」
彼は息を呑んだ。その逡巡の気配を背中に受けた。研究者としては、言葉に出すことは
「そう、私は雪女なのよ。文献や伝承でしか聞いてないでしょ」
六花とは雪の別称なの。この名前は母がつけてくれたと思う。鳴神を名乗り出したのは、明治の初め頃からではなかっただろうか。
猿鬼たちの動きに変化がある。
男根のように突き出した異形の舌先の数々が、戸惑いを帯びて蠢いている。もう水分が見当たらないようだ。虚空を突いていた舌を収め、再び鬼火のような黄色の瞳が、情欲を込めて私に向けられている。
石女尼。
それが能力なのね。
超伝導で、黒髪が蛇の鎌首のように持ち上がっていく。この
かかったわね。
猿鬼が一箇所に吸い寄せられていく。
川面の澱みにに落ち葉や木屑が引き寄せられていくように。
猿鬼が意志で再び球体に戻したのではない。
迷路を模したのは、その狭間に液体酸素の溜まり、を作るためだ。
それは連中が渇望するように、山間の湖のように深淵な蒼い輝きを持つ。
酸素は液化温度が窒素より高いので
なぜなら液体酸素は磁性を持っているからだ。
この猿鬼は水分がない代わり、生体電流で肉体を繋ぎ止めている。それが液体酸素の持つ磁性に吸い寄せられている。もう身動きはできない。
罠にかかった害獣のような運命があるだけだ。
そこへ私はここで奪った熱量、蓄熱した熱量を叩きつける。
青白い発火と爆風が起こり、突風がその周辺を薙ぎ倒していく。
液状化した大気に、 溶岩のような熱核が放り込まれ、分子爆発が起こったのだ。
私と甘利助教のいる場所は濁流に
雪女も物理法則には従わざるを得ない。
作用には反作用が必ず存在する。
雪女という存在は、いわば規格外の高出力な熱交換器。周囲の熱を奪い、超寒気を発することができる。できるがその反作用の熱を胎内に蓄積する。
そしてその圧縮された蓄熱は、速やかに排熱する必要がある。蓄熱したままでは危険。それがある一点を超えると、意識の混濁に繋がってしまう。
「傷は大丈夫、まだ先に歩いて行ける?」
「もちろんだ。ここで引き下がる道理はない。しかしなぜおれを連れてきた。正体が露見してしまうことを考えなかったのか」
「構わないわ。逆らえば喰べちゃうから」
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