第11話 鏡鬼

 微風に乗って花の香りがした。

 六花と名乗る女性は、まるで昔から友達だったかのように隣に来て、そっと歩き出した。意識してるのかしないのか、歩き出しに少し肩が触れた。

 まるで誘うように。

 わたしもその歩みに沿って並んで歩いた。

「母からの依頼ですって」

「そう。神奈川にも、ご実家にもいるのよ。今もあなたが」

 躓いてしまうような一言だった。

「それはわたしなの。本当に?」

「ええ史華さんそのものなの。それでもスマホに電話してみたら、信州大にいるでしょう。あちらの史華さんは留学をしたいからって、神奈川でバイトしているそうよ。学校は休学扱いにしたって言ってね」

 留学をしたいという思いはあった。それを両親に話したことはない。それでこちらでバイトを始めたのだ。それもこっそりと。

「ご両親はむしろ大学生になって、活動的になったとお喜びになってたそうよ。それで先週のことだけど、バイト帰りにねって、メールでお買い物リストを送って頼んだの、貴女に。そうしたら『何言ってるの。わたしは松本だよ』って返信が来たそうよ」

「すみません。そのやり取りに覚えがないです」

「あら、そう。だったらまた別の貴女が受けたのよ。きっと。その返信があってから、バイト先からご実家に帰宅してきた貴方貴女をじっと見て。お母様が違和感を感じたのよ。それで私にご依頼があったということ。お分かり?」

「六花さん、あなたは一体?」

「私は舞姫、巫女なのよ。それで色々な悪霊とか、魍魎をお祓いしているの」

 ああ。

 そうなんだ。

 悪霊か魍魎なのね。

「これから貴方のアパートに行くわね。そこで鏡を預かるわ」


 住宅街の通い慣れた道。

 新しい街区ではないので、道が細く曲がりくねっている。家賃相場が安いので、この街区に住んでいる。建物も古びてはいるが手入れが良くて、軒先には住人が育てた季節ごとの花が咲いている、そんな温かい町だった。

 なのに今晩ときたら、重苦しい闇に包まれている。

 不思議と人通りがなく、二人の足音だけがかつん、かつんと響いている。まだ秋の入りの筈なのに、陽が落ちると風は冷たくなった。

 なんだかこの女性といると、空気の密度が上がり却って息苦しい。

 まるで大海の水圧にもがいているように。

 まるで海流の重圧に流されているように。

 手のひらにつかめそうな物理的な夜の闇。

 その苦しさはどこから来るのかと考えた。

 この哀しみは魂が裂けたものかと疑った。

 あの巫女という彼女は、わたしの鏡に何をするのかとも考えた。

 預かる?

 祓うと言っていた。

 お祓い?

 その後はまたわたしのものになるの?

 奪われる?

 いや盗むんじゃないの?

 本当に母親からの依頼なの?

 Messageはなりすましかも。悪霊も魍魎も全てが嘘で、わたしをだます気かもしれない。彼女の存在が急に禍々しいものに思えてくる。

 ぞっと悪寒が背骨を駆ける。

 最初に見た時、あの鏡は掘り出し物だと思ったわ。

 手に入れてみれば、漆が薄くなり剥げていたり、磨かれた鏡面の、無数の小傷のひとつひとつが刻まれた歴史に思える。自分の人生の数倍を生きてきた証に思える。

 それが悪霊ですって。

 それが魍魎ですって。

 ぶわおっ・・・

 舞い上がった。いや駆け登った。

 見慣れた住宅街の、屋根が足元にある。もうそれは初めてみる心躍る光景だ。

 闇が押し固めてできた階段を、いや梯子を、いや糸のようなものを、わたしは苦もなく駆け上がる。身体が軽い。羽のように軽い。

 わたしは中空で嘲笑った。髪がばさばさと風を巻いて暴れている。

 あの六花はこの高みには来れない。そうよ。地べたを這いずる、翼のない生き物に過ぎない。

 こんなにも夜は自由なのに。

 こんなにも雲には届くのに。 

 六花がきっと瞳を開いて睨んでいる。

 そしてその双眸そうぼうは黄金色に輝いていた。


 わたしは舞い降りた。

 化鳥が羽を畳むように音もなく。

 木造のワンルームのアパートはコの字型の中央に階段があり、2階に4部屋が東西南北の各方面に向いていた。けれども敢えて私は北側の部屋を選んだ。

 日当たりは悪かったが、見切れているけど改修工事中の開智学校が見える。屋根から下は工事用の防音幕に覆われているけど、蒼い鐘楼が風格を持ってそこにあり、あの幕が外される日を心待ちにしている。

 静かに階段を上り、自室の前に立ちキーを探した。

 廊下の照明がちかちかと瞬いている。

 見つからない。バックの底までも探ってみたけど、キーホルダーの感触がない。そんなハズはないと焦っていたら。

 ドアがかちゃりと音を立てて開いた。

 心臓が音を立てて鳴り、わたしは後退る。

 部屋の灯はついてない。その隙間からぞろりと影が人間の形に結晶する。

「遅かったわね」

 そこには先刻の六花が、酷薄な笑みを含んで立っていた。途端に動けなくなった。気づくと足元が凍っている。

「寄り道をしたのよね。初めて飛んだ貴方は、蒼い鐘楼しょうろうの周りを戯れに飛んでいると思っていたわ」

 痛覚を破壊するほどの稲妻が、眉間に疾った。

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