第9話 鎌鼬
草の葉如きに傷をつけられる肌ではない。
妄執の白刃が宙を舞い、数回切り付けてきたが、幽体の電磁場を冷凍破砕されて霧散した。一歩歩くたびに地表が氷結し、草木の細胞結合が砕けて凍土が表面に現れる。霜柱がめきめきと伸びていく。
色葉に借りていた浴衣は、とうに繊維が粉塵となって全裸だった。羞恥心を覚える年頃でもないが、空気中の水分が微細な氷となって肌を覆っている。かつて人目に触れた雪女の記録に、白い衣を纏うという記載があるけれど、この着氷を見たものに違いないわ。
この山道を登っていくときに、キャンプ場にテントがないのは確認している。もう冬装備でないとこの高度では眠れない気温だし。もしここに猛者のキャンパーが居たら、ひとの形をした氷河が歩く姿を見ただろう。
怒りが奔流となり、この身体を軸に渦を巻いている。
私の目線の先に、衣服をズタズタに裂かれた色葉が、組伏せられている。意識はないようだ。その身体に幾つもの腕鬼が這い回っている。汚れを知らない肌が、実りにはまだ遠い乳房が夜風に露わとなっている。それが不定形に形を変える。揉みしだかれ、これから堕とされようとしている。
ちっ、と火花を散らせて、また数本の白刃と腕鬼を粉砕した。
じわりと舌が血の、鉄の味で痺れている。
髪が逆立ち、渦のなかで乱れているだろう。
私の眼にも鬼火の黄金色が乱れているだろう。
鬼祓いのときに、本殿に結界を四方に張るのは、鬼の逃走を防ぐためだけではない。
私の能力の届く範囲を、お社の土地神の力を借りて内側に封じるためでもある。その縛りはこの草原にはない。これでも最大限の努力をして、超寒気の発動を押し留めている。
堅牢な
いけない。この能力を見せつけ過ぎた。
残りの白刃が一定の間合いを保ちながら、切先をこちらに向けて浮いている。つかず離れずの位置で、揺れる剣峰が私を威嚇している。そして己が濁流を制御出来なければ、この平原と腕鬼もろともに、色葉さえ冷凍破砕してしまう。
更にもうひとつの懸念があった。
雪女は高出力の熱交換器のようなもの。この地で奪った熱量は圧縮されて肉体に凝集していく。それは私の意識を混濁させ、堰を切ってしまう。
いけない。窒素さえ液状化してきた。
蓄熱は奪った量の裏返しで数百度に達するだろう。
最優先に排熱する必要があった。
そうしないと全てを喪うのは私の方だ。
火柱が立った。
振り返りもしなかった。
闇夜に灼熱の光を背負い、
そして待った。
漆黒に塗り潰されるまでが、永遠に近い時に思えた。
制御を回復したので、これで安心して色葉に視線を送れる。視線の先をも凍らせてしまうこともあるからだ。
色葉はまだ弄られてはいたが、彼女にはそれ以上の手出しは出来ないようだ。はっと気がついた。彼女の腋に挟まるお守りがある。町役場から預かったものに思えた。あんな僅かな霊力しか持たないものに、この刻を掛けてしまう自身を恥じた。
そしてやって来た。
細い金属音が跳ねている。
それは草履を履いた足だった。傷だらけになった脚だった。そして宙に槍の穂先が幾重にも浮いている。
戦さ場の名乗りのように吠えた。
「いでよ、望月の兵よ。豪の武士よ。今、武田の手に望月の姫が汚されようとしている。手篭めにされようとしている。
声無き、響き無き、応という怒号が地に満ちた。
武田方の白刃の陣に
私の火柱は大蛇が原の、望月兵の祠のしめ縄を焼滅させたのだ。それで呪縛の解けた彼らはまた戦さ場に戻ってきた。
恩讐の亡骸が生々しく切り結んでいる。
私はさくりさくりと歩を進め、立ち塞がる腕鬼を呼気で冷凍破砕させて、色葉の前に立ち、そっとその肉体を抱き上げた。その温もりが私の怒りを鎮めてゆく。柔らかな宝玉だと思った。
「ボクにはああなるって、最初から視えていたんだよ」
暁の茜色を浴びながら膝を抱えて、呆気なく色葉は言う。
自宅に搬送した翌朝、色葉はあのお守の懐紙を開いた。懐紙には長い黒髪が数本ばかり輪状に束ねてあった。
「あの日、泊まってお風呂に入って欲しかったの。拝借した六花姉の髪の毛だよ。これがあれば大丈夫だって。それでね。ボクの眼も変わったの」
息を呑んで、彼女の双眸の色を確かめるように覗き込んだ。
その眼を掌で彼女は防いだ。
「今度話してあげるね、それまではお預け」
柔らかな宝玉は、予想を超えて手強くはなったようだ。
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