第15話 滴り
杏子の背後で烏森双樹は声をかける。
「ごめん、僕のせいだ。こんなになるまで思いつめてたなんて知らなかった。だけど、純粋な憧れだったんだ。本気であの時もかっこいいって思ってたんだ。阿知和が成長するなんて思いもしなかったみたいに。最低だ僕は」
焦点の合わない阿知和の目と必死で合わせようとしていた。ただ、阿知和の水晶体を烏森が逆さに通ることはなく瞳孔は遠くにピントを合わせたままだった。左右の手は何かを探るように動いていたが水の溜まった箇所を空しく掻いていただけだった。
「それにさ、僕じゃないんだよ。阿知和が見なきゃいけないのは、僕じゃないんだ。だからさ」
烏森は阿知和を見下ろすように立ち上がった。雨で濡れているのも相まって振り向いたその目つきは少し尖っていた。振り向くと同時に右の指先で少しかき分けるようなジェスチャーをする。道を開けてくれと頼むような、そんな動きだった。
「烏森……どこにいる? 」
立ち上がった烏森を探すように見上げる阿知和の目は、出涸らしのような怒りをしまい込み不安げな様子をしていた。
「烏森君?どうしたの?」
恋敵を制止していた杏子が振り返る。
「もう、僕はどうだっていい。償いってのは重すぎだけど」
今までの思いつめたような顔を止め、清々しいほどに覚悟の決まったような顔つきをする。
「僕はこいつを告白させることにした」
「……は? 」
思わず声が漏れてしまう。烏森は実直気味であるとは思っていた。正確に言えば考えが詰まると極論にたどり着くタイプの人間である。だが、その極論は今回に限って言えば最大の悪手である。
「待ってくれ烏森、それは」
「ふっ、野暮なことはするもんじゃないぞ。鳴海少年よ」
杏子が手のひらを向けて言葉に被せてきた。また変な口調付きで。
「いいじゃん!折角の烏森君の覚悟無駄にする気? 」
杏子の言葉に反論ができない。しかし、"恋心の自覚"が阿知和に穴を空けるかもしれないというのもまた事実だった。それが最も恐れていた恋敵の目的だからだ。
「わかってるけど、それでも」
結論が出ない。先ほどの無力感が単純な選択を狂わせる。動かない足、目の前の恋敵、両手を広げ笑顔で制止する杏子。それらがすべて選択するための声帯を震わせようとさせてくれない。
「……え? 」
何故だ。なんで、この状況で。
恋敵がこちらに向かって来る?
「なんでだ……お前、今が一番チャンスじゃないのかよ」
疑問符で海馬がいっぱいになる。理解も、考えも及ばない。疑問を口から落とすのみしかない。
「あんな顔をするあの娘に私の入り込む余地がありますか? 」
ほほえみながらこちらに迫ってくる恋敵に茫然とするだけだった。
「私の生まれた当初の目的はもう達成されるのですから、いいんです。自覚なんてものは目的達成の手段にすぎませんから」
そういう恋敵の言葉でやっと理解した。恋敵の当初の目的は単純だった。鮎原薫への告白。それだけのために恋敵は複雑に立ち回った。頑なにその恋心を遠ざけて他を演じる阿知和寧子を乗っ取ることで告白という手段を達成する、それだけに過ぎなかった。
「覚悟の決まった乙女は強いのですよ。分かりますか?鳴海春斗」
恋敵が微笑む。今までのような不気味な笑みではなく門出を祝う友のような優しい笑みを。
烏森たちに視線を移し、スマートフォンを取り出す。未だ授業中だった。文章を打ち込んで送る。
「阿知和、お前に僕は見えてないけど声は聞こえるんだろ?返事なんて必要ないよ。ただ、構えてくれればいい」
阿知和の指先辺りに足で直線を描く。境界線を引くような、自分自身を無理やり奮起させるような強引さが足元に表れていた。
「僕は今から自分のやった事なんて棚に上げてお前に言うからな。位置につけ阿知和」
「……は? 」
阿知和は思わず、声を上げる。阿知和だけではない、その突飛な宣言に声を漏らしたものは全部で3人いた。全員だ。
「おまっ、何言って」
そこまで言って、阿知和はいや、と言って目線を落とす。烏森が引いた線に両手を添わし親指と人差し指に力を込める。
「分かった。やってやるよ」
「それでこそ、阿知和寧子だ」
阿知和には見えていない。烏森が手の銃口を天に掲げていることも、その手が少し震えていることも、上を向き雨を顔いっぱいに浴びていることも、喉仏がさっきからずっと震えているのも、阿知和寧子には見えていない。だからこそ彼女は笑顔で下を向く。自分の地面についた手と室内用の上靴の先を見て笑っている。
「オンユアマーク」
静かに、自身の思いを押し殺すように、感情出さないように淡々と。
俺はスマホに追加でメッセージを打っていく。そっちに行くから人気のない場所に早く逃げなと。こんなことしかしないでいいのかと思った。この場にいるのは当事者とこの状況を知っている俺だけだと本気で思っていた。この屋上において一番理解していないのは俺だった。理解しなくても解決の兆しがあるなんて思ってもみなかった。それを目の前の烏森と杏子を見て痛感する。
この場においての俺はそこにいるだけだった。せめて、
「もっと頼って良かったんだろうな」
そうつぶやいて側面の電源ボタンを押した。
「セット」
阿知和がまっすぐ扉を見る。腰を上げ最後の言葉に耳を傾ける。
「ゴーッ!」
勢いよく地面を蹴り飛ばす。長くまっすぐに伸びる足が地面につく瞬間までがやけに遅く見えた。
「頑張れ、かませよ!阿知和ァー!!!! 」
烏森は少しかすれたような声で大きく叫ぶ。伸ばした右腕は後ろに吹っ飛んだように動く。
疾風のように横を通過し、階段を無視して柵から飛び降りる。衝撃音が一回、二回。そのまま彼女達は走り出した。
「行けっ、頑張れ……」
指先は震えたまま項垂れるように下を向く。
「ああ、この瞬間になって後悔してきた。はは」
「これで良かったんだよ。今になって言いたくなるような言葉なんて最初から」
雨に打たれ続ける烏森の顔は雨に濡れている。それが雨のせいなのか烏森の抑えきれない後悔と悲しみのせいなのか確かめる術はない。傘を指し、静かに当たる雨音を聞きながら授業が始まるチャイムが鳴るまでこの事件の解決者を眺めていた。
「たった数文字言うだけだったのにな。それは僕もか」
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