元カノたちは元カレの話をするか(2/2)
「――っ!」
パッチーン――ッ、と。
弾けるような快音がその場に響いた。晴花が己の頬を全力で張った音である。
「はぁ……っ、は、ぁ……、はぁ……っ」
荒々しい呼吸を繰り返し、晴花は頭を抱える。
(思ってない! 思ってないわ! この私が……っ、あの男に……っ、季刹に、こんなことをされてみたいだなんて、絶対に……っ!)
「あ、朝野先輩……? どう、したんですか……?」
いきなり自分の頬に平手をかました晴花に、手元の小説に目を落としていた雨月はビクリと肩を跳ねさせ、怯え混じりの困惑を覗かせながら顔を上げる。
「あ、あぁ……ごめんなさい。その、虫が止まってたものだから」
腫れて赤くなった自分の頬をなぞりながら、晴花は平然とウソを吐いた。
晴花は、季刹に別れ話を切り出した時でさえ、自分なりの矜持に従ってウソの言葉は口にしないようにしていた。
季刹に告げた『別れましょうか』という台詞も、去年のクリスマスイブに彼と恋人繋ぎをしたあの日以来一切進展のない二人の関係が、このままだと上手くやっていけそうもないから――、
晴花が色々と気に入らない部分を季刹が直してくれないのなら――という気持ちの延長線上に置いたものであって、間違っても『別れ〝たい〟』などとは口に出さなかった。
……しかし、今の彼女にとってそんな己の矜持のことは頭になかった。
なぜなら、たった今思い浮かべてしまったピンク一色の煩悩を掻き消すことに脳の全リソースを割いていたからである。
内心の大荒れを覆い隠すように、いつもの淡々とした表情をつくって雨月に視線を返した晴花は、肩にかかった髪を颯爽と払い、咳払いを一つ。
「あなたの漫画、読ませてもらったわ」
「えっ、あっ、ありがとう、ございます……っ」
雨月は深々と頭を下げて、羞恥と不安と嬉しさが入り混じった表情を浮かべる。
「その、ど、どうでした、か……?」
「そうね。とても絵が上手だと思ったわ。すごいのね、常昼さん」
「ほ、ほんとですかっ?」
パッと顔を明るくする雨月。
「えぇ、私も絵は描けない訳じゃないけれど、こういうのは絶対に無理ね」
というか、どういう顔でこんなものを描けばいいのか分からない。あまりにも生々しい。
描けと言われても、想像だけでこんなものを描ける気がしない。
晴花が好んで読む純文学にも交情の場面が出てくることは珍しくも何ともないし、雨月の描いたこれより過激な描写がなされることもままあるが……、でも、何か、違う。
文学における情交は芸術の一端だが、これは違う。
何か違う。
あえて言葉にするなら……。そう、はしたないし、卑猥だ。これはまともな人間が描いていいものじゃない。
口にこそ出さないが、晴花は雨月の神経を疑っていた。
「ぼ、ボクも、朝野先輩の文章、すごいと思いました……。ボク、こういう小説は、頭悪いから、たぶんよく分かってないとこ多いと思うんですけど、文字だけでホントに電車に乗って景色を眺めてるみたいな気分にさせられて、ほんとに、すごいなぁ……って」
「ありがとう。情景描写にはこだわって書いたから、そう言ってもらえるのは嬉しいわ」
「は、はいっ! それで、あの、ボク、絵は、そこまで、自信がない訳じゃないんですけど、す、ストーリーの方は、全然、ちゃんとできてない、気がして……、ど、どう、でした、か?」
おずおずと、うかがうように上目で晴花を見る雨月。
「え――」
雨月を見返しながら、晴花の表情が固まる。
「え……?」
動きの止まった晴花に、雨月が首を傾げる。
「…………」
「……」
二秒……三秒と沈黙が続き、不意に我に返った晴花が口を開く。
「そ、そう、ね。私もこういう漫画はよく分からないのだけれど、ちゃんとした起承転結もあって、俗に言うエンタメを目指したストーリーとしては、まとまっていたんじゃないかしら」
「……そう、ですか? ボク、こういうの今まで誰にも見せたことないんですけど……、あ、朝野先輩に、そう言ってもらえるなら、良かった、です」
雨月は「えへへ……」と、口元をゆるませ、ひっそりとはにかむ。
そんな雨月を無言のまま見やっていた晴花は、平常よりほんの僅かに高いトーンで尋ねかける。
「……常昼さん、一つ聞いてもいいかしら」
「は、はい、なんですか?」
「少女、漫画……というのは、こんな内容が、普通なの……?」
「え? あ、えっと、はい……。これは、ボクが好きな漫画を、真似しちゃってるとこもあって、えっと、つまり、こういうものだと、思いますけど……」
「あの、気になるのだけど、少女漫画というからには未成年の女の子が読むのよね、こういうのを。……随分と、過激なのね」
晴花が、手元にある雨月が描いた漫画の冊子に視線を落とす。釣られるように、雨月も自分の漫画を見やる。そして何かに気付いたようにハッと息を呑んだ。
「あっ、えっと、えっと、最後のあのシーンは、ぼ、ボクもちょっと筆が乗っちゃって……、こ、これくらいなら、普通に描いてるやつもあるにはありますけど、でも、全部が全部こうって訳でもなくて、もっと落ち着いたのもたくさんありますし、確かに、よく考えると、ちょっと、過激だったかも、しれないかも……? で、です」
「そう……なのね」
雨月の言葉を聞いて少し安心すると同時に、動揺も覚える晴花。
自分の妄想をそのまま描いた結果がこれだと言う雨月が変態であることに間違いはないが、これに類するものが少なからず世に出回っているというのも事実であるらしい。
自分より歳下の少女の中にも、こんなものを読んでいる者がいるのか……? と、晴花は動揺を隠せないでいた。
そわそわと落ち着かない胸の内を誤魔化すように、晴花は口を開く。
「でも、あくまで私個人としての感想なのだけど、私はこういう男はどうかと思うわね」
冊子の表紙に描かれている〝季刹〟にしか見えない男キャラを、晴花は見やる。
「そ、そうですか……?」
「えぇ、そうね。まずこの男、あまりにも自己中心的だわ。この男が主人公を気に入っているのは分かるけど、好きならもっと相手のことを考えてアプローチすべきよ。特に最後、主人公が男を許してちゃんと交際を始めているから有耶無耶になっているけれど、やってることはただの犯罪よ。私ならこんな男に身を預けるなんて絶対に無理」
「犯罪……」
雨月はぽかんと呆けて、目を丸くする。
「た、確かに、そうですね……。考えたこともなかったです」
「そうでしょう?」
「で、でもでも、この子は自分でも気付いてないだけで、ちゃんとヒーローのことが前から好きだったので……」
「好意の有無は関係ないわ。相手の合意も得ずに事に進もうとするのが犯罪なのよ」
「で、でも……」
「あぁ、ごめんなさい。あなたを否定してる訳ではないの。こういうフィクションに現実の法を持ち込むのが無粋だというのも理解してるわ。あくまで私の好みの話よ」
「あ、そうなんですね……」
ホッと胸を撫で下ろす雨月。
「じゃ、じゃあ、朝野先輩は、もっと誠実な人、が、いいんですか……?」
「そういうことになるわね。常昼さんは……こういう男がいいの?」
答えが分かっている問いを、晴花はあえて雨月に向ける。彼女の意見が気になった。
すると雨月は頬を赤らめて、「は、はい……」と頷く。
「こういうのが、いいです……。ボクが何も言わなくても、ボクがやって欲しいことを全部察していきなりぶつけてくる……みたいな……。朝野先輩は……、こういうの、嫌い、ですか……?」
「――――――」
晴花は、再びフリーズする。
「せ、先輩……?」
晴花の脳内では、ありとあらゆる思考が奔流となってせめぎ合っていた。
学校の成績では常にトップクラスを維持する彼女の冴えた脳が無駄に全力で回され……、結果、晴花が選んだ雨月への返答は、微妙に的外れな形となって口から漏れた。
「……察しが悪いのは、きらいよ」
「え?」
「この私が、それとなく、……良いって許してるのに、全然、ほんっっとうに、察さないんだから……あの男……っ。なのに、私と別れてすぐ、あんな女と……ッ」
漫画の表紙にいるソイツを睨みつけて、ギリと拳を強く握りしめ、ブツブツ呟く晴花。
彼女の体から発せられる異様な怒気に、雨月が「ひぃっ」と悲鳴を漏らして涙目になる。
だが、晴花の呟きをしっかり聞き取っていた雨月は、どうしてもそのことが気になって、つい尋ねてしまう。
「も、もしかし、て、……朝野先輩の、元カレ、さん、の、こ、こ、こと、ですか……?」
「そうよ……。アイツは本当に鈍感で、どうしようもないバカなの。アイツは、私のことが好きって普通に言うくせに、口ばっかりで、私との関係をほとんど進めようとしないし、付き合い始めたばかりの頃は毎晩電話かけてきたくせに、いつのまにかほとんどかけてこなくなったし、他の女とも距離近いし、部屋で二人きりの時も、本当に、何も……、私ばっかりドキドキして、バカみたいじゃない……」
「そ、そうだったんです、ね……、で、でも、キス、くらいは」
「……したことないわ」
「あ……。……で、でも、それは、その人が朝野先輩のことを大事にしてたからってことも……」
「――常昼さんは、あるの?」
「へっ?」
ずっと俯いていた晴花が雨月を視線で射抜く。晴花の瞳には、有無を言わせぬ迫力があった。思わず雨月の背筋が伸びる。
「常昼さんにも、恋人がいた時期があったのでしょう? その人との経験は、どこまであるのかしら」
「えっと……、それは……」
チラリと、まだ晴花の手元にある漫画冊子を一瞥する雨月。
「「…………」」
視線を交わし合う二人の間に神妙な沈黙が落ち――、
ハッと何かに気付いた晴花が、今までにないくらいの焦りの表情を浮かべる。
「あなた――っ」
「ひ、人それぞれだと思いますッ!」
顔を真っ赤にした雨月が叫ぶ。
「別に! ボクと朝野先輩が同じ人と付き合ってた訳でもないんですし、たぶん、ボクと先輩じゃ好みのタイプも違うので、だから、付き合い方に違いがあるのも、と、当然だと、思います……っ!」
そこまで一息に言い切って、はぁはぁと肩で息する雨月。
初めて聞いた雨月の大声に晴花は呆気に取られ、冷静さを取り戻した。
「そ、そうよね……。ごめんなさい、今の私、ちょっとおかしかったわ」
「い、いえ……」
「そうよね……」
晴花は胸に手を当て、深呼吸をしながらいつもの自分を取り戻す。
(どうしちゃったのかしら、私……。こんなの、私らしくないわ……)
「…………」
気まずい沈黙を埋めるように、晴花は雨月に言う。
「常昼さんは、その付き合っていた人のどこが好きだったの?」
「えっと……、そ、そうです、ね。中学の時の、先輩だったんです、けど。先輩は、ボクが泣きそうになってる時に、ボクを助けてくれて……。いつもカッコよくて、こんなボクにもいつも気を遣ってくれて、ボクのワガママもちゃんと聞いてくれて、いつでも甘えさせてくれて、優しくて、でも積極的なとこもあって、ボクにとって、本当に理想のカレシ、だったんです。だから、ほんとに、好き、でした。けど……、でも、それと釣り合わないくらい、ぼ、ボクが、どうしようもない女だったので……」
「そう……。ごめんなさいね、変なこと聞いて」
「あ、いえ、だ、大丈夫です……。今のボクはもう、大丈夫なので」
机の上に置いていたスマホにそっと触れながら、雨月が静かに微笑む。
言葉尻こそ落ち込んでいたが、元恋人を語る雨月の口調は過去の幸せを噛み締めるようなものだった。
それを聞いた晴花は、雨月の恋人だった人物は、きっと自分の恋人だったあの男と違って察しの良い素敵な人物だったのだろうな――と、そう思った。
「あ、朝野先輩は、カレシさんだった人の、どこが好きだったんですか?」
「――――」
雨月の問いかけに、晴花の顔から表情が消える。
「す、好き……だったん、ですよね……?」
おずおずと、晴花の様子を窺う雨月。
「そう、ね……。彼は、私の道を正してくれて、それで……」
そう、キッカケは確かにそれだった。
初めは気に入らない男だと思っていたのに、気付けば距離が近付いていて、晴花が違えた道を季刹は正してくれた。
だから、晴花は彼の告白を受け入れたのだ。
でもそれは、今の晴花が天本季刹という男に向けるこの感情の始まりでしかない。
一年にも満たない、晴花がこれまで歩んで来た人生と比べたらほんの短い間、季刹の恋人として色々な時間を積み重ねた。
楽しいこともあれば、喧嘩をすることもあった。
晴花にとって初めて経験することばかりだったそれらが山のように積み重なり続けた先に、晴花が彼に向ける――この言葉にし難い、どうしようもなくめんどくさい感情があるのだ。
「えぇ、好きだったわ。私は彼のことが好きよ。今更認めない訳にはいかないわ」
顔が熱くなる感覚を得ながらも、晴花は言葉を続ける。
「私がこんなにおかしくなってるのだって、全部……ぜんぶ彼のせいよ。だから……っ、そんな彼のことが、私は……、私は――」
晴花はそこで台詞を区切って、ふうと短く息を吐いた。そして不思議そうにしている雨月と改めて視線を合わせる。
「いえ、なんでもないわ。彼のどこが好きだったかと言われると具体的なことは言えないのだけど、まぁ好きだったわ。そこは素直に認めましょう。でも今はもう、私と彼は恋人同士じゃない。結局、それだけのことなのよ……」
この胸が詰まるようなモヤモヤした感情の吐き出し方が分からず、晴花はただ、そう言うしかなかった。
◆〇◆
「――へッくシュンっ!」
「わっ。いきなりどうしたのきーくん、風邪?」
「なんや季刹、食事中に汚いなぁ。くしゃみすんならあっち向いとけアホ」
「急に出たんだから仕方ねえだろ……」
「誰かが季刹の噂でもしとるんとちゃうか?」
「またベタなこと言いやがって。そんな訳ないだろアホ」
「きーくんティッシュ持ってる? 持ってないよね。はい、どうぞ」
「あ、あぁ……。ありがとう雪鳥」
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