リシェルの最愛
愛称……
『これからはノアって呼んで』
『うん! ノア』
あの頃はリシェルの裏切りを知らなかった……。自分だけが唯一と信じていた愚かな日々。
無邪気に慕ってくれる姿も、好きだと頬を赤らめて告白してくれた姿も、一緒に笑った姿も。全て嘘だったと知る前の。
泣いて愛称で呼びたいと詰ってくるビアンカの両肩を掴み、そっと離した。紫水晶の瞳から零れる涙を指先で拭ってやり、純白の髪を慰めるよう撫でた。
「俺を愛称で呼ぶのは父上だけ。リシェルに許した覚えはない」
「じゃあ、リシェル様の嘘なの……?」
「……そうだ」
「ノアール!」
嘘と認めれば、裏切りを味わった屈辱と絶望も全て嘘に塗り替えられていく。リシェルの嘘とノアール本人から断言されたビアンカの相貌から安心感が生まれていく。ただ一人、父だけが否定をするも冷めきった目をやったら黙った。顔だけは何かを非常に言いたげだ。
安心から体の力が抜けたビアンカを支え、外で待機している護衛騎士に彼女をアメティスタ家まで送るよう渡すと再び父エルネストと対峙した。
「どうして嘘だと言った!? あれでは、リシェルちゃんが嘘吐きだと言っているようなものだ」
「事実でしょう。リシェルはずっと俺を騙していた」
「リシェルちゃんは騙していない。彼女は本心からノアールを慕っていたんだ。第一、リシェルちゃんのどこを見れば嘘などと」
「っ……」
嘘じゃない。
先に裏切ったのはリシェルの方だ。
なのに、昨日リシェルに裏切者と詰られた時、激しい動揺と一緒に怒りも込み上がった。言い方は違ったが先に裏切ったのはお前の方だ、と本当は怒鳴りたかった。
「……父上は魔族の近親婚は知っているでしょう」
魔力至上主義の魔族社会では、魔力の量こそが全て。現に、魔界を守る魔王となる者は膨大な魔力を必要とする。そして、魔族の容姿は魔力によって大きく変わる。
エルネストもノアールもリシェルもリゼルも。彼等の見目が美しいのは膨大な魔力があってこそ。
高位魔族の中には、より強い魔力を持つ者を誕生させるべく、強い魔力の持ち主同士から子を生ませる風習があった。
そこに近親者同士の結婚もあった。
魔界の常識を持ち出されたエルネストは首を傾げた。今更そんな話をノアールがするのか分からなかったから。
「リシェルが本当に慕っているのは俺じゃない。――父親のリゼル=ベルンシュタインだ!!」
…………。
……。
「誰でも知っていることでしょう?」
「……」
エルネストは更に話が見えなく、瞬きをした後、事実を言ってのけた。たった一人の家族、愛する父を敬愛し、慕うリシェルに何が問題あるのか。当たり前を持ち出されてノアールの怒りの根本が見えない。がくりと肩を落としたノアールを見、さっきの近親者同士の結婚を照らし合わせ――意味を理解したエルネストは深く、呆れが多分に含まれた溜め息を吐いた。
「……まさかと思うけど、ノアールはリシェルちゃんがリゼルくんと結婚したがっていると思ってるの?」
「……事実だ、俺は昔聞いたんだ。リシェルの最愛は父親で俺は二番目だと。俺は王子様だから好きだと」
「……」
顔を俯けてしまったノアールになんと言ったらいいべきか、頭を抱えてしまう。
知っている。エルネストもその台詞はよく知っている。
リゼルの気持ちも知っている。
「ノアール」
「先に裏切ったのはリシェルだ、俺のことが好きだと言ったくせに最愛は父親だと」
本当に、なんと声を掛けてやればいいだろう。
「失礼します……」と項垂れて執務室を出て行ったノアールを見送り、一人になったエルネストは椅子に腰掛けた。魔界の夜空に君臨する巨大な満月。その向こう側には、悪魔の天敵が住む世界ー天界がある。
天使の昇格試験、通称『悪魔狩り』は少し前に終わったが人間界には手柄を立てようと未だ多くの天使が悪魔を狙っている。
魔界で二番目の地位に座する魔族が人間界にいると知ると天使達は手柄欲しさで襲撃をするだろう。全ての天使が黒焦げになる未来しか浮かばなくても側にはリシェルがいる。万が一になっても困る。もしも、万が一が起きればリゼルの精神崩壊は免れない。
大体、家が没落し、身分の差が生じたからと偽りの告白をして姿を消そうとしたアシェルを捕まえた時から精神がヤバい状態になっていた。幸い、アシェルに向けられたのはまだまだ可愛いものだった。えげつない部分は全てエルネストとその周囲に向けられた。
天使の大軍が魔界を襲撃したのもその時。不機嫌が頂点に達し、補佐官の仕事が増えてアシェルとの時間を減らされ精神が危うかったリゼルのストレス発散として、天使の大軍は皆殺しにされた。魔王が精鋭部隊を編成すると宣言する前に消えたので、天使の死体処理に騎士達を回した。
「皆……リゼルくんをご機嫌斜めにしないと決めたのはその時からだったよね……」
リゼルの機嫌の悪さを表しているかのような惨い死体を目の当たりにし、多くの騎士が体調不良を起こしてしまった。人手不足に陥ったため、エルネストも掃除に駆り出された。幼い頃からリゼルと一緒にいたエルネストは慣れていたのでさっさと片付けた。顔色一つ変えず、歴戦の騎士さえ青褪めていたのにエルネストは黙々と作業を熟した。尊敬の念を抱かれた。元々リゼルを魔界に留め、更に補佐官の任に就かせたのもエルネスト。
ほぼ泣き落としだが。
「リシェルちゃんの最愛はリゼルくん、か」
間違ってない。
おかしい話でもない。
リシェルにとって自分を絶対に守り、愛してくれるリゼルは最愛の父親なんだから。
ノアールが王子様だから好き、なのも変じゃない。
現実、ノアールは魔界の王子だ。
そして――
「リシェルちゃんの王子様だからって言ってたよね……」
『リシェルの最愛はパパよ』
『あれ? ノアはリシェルちゃんの最愛じゃないの?』
『ノアは二番目の最愛! でも、ノアはリシェルの
リゼルにとっての最愛は亡くなった妻アシェルだけ。愛娘リシェルを溺愛しても、最愛にはなれない。
リシェルの最愛がノアールにならないのは、……というより、である。
「今のリシェルちゃんの最愛はノアールになっている筈なんだよ……」
あの時のリシェルは小さな子供で意味をきちんと理解していなかった。ノアールが好きなのは本当なのだろうが、その頃はまだ一番好きなのは父親でノアールは言った通り二番目だったに過ぎない。
「……」
これを教えたところでリシェルに好かれていなかったと信じるノアールに聞く耳をもってもらえると思わない。
また、深い溜め息を吐いたエルネストは通信蝶を呼び寄せた。
「アメティスタ家の当主のところへ」
ビアンカがどうやって二人の居場所を突き止めたにしろ、二度目はない。リゼルは容赦を知らない。
ノアールの勘違いはともかく、ノアールとビアンカが恋仲になった最大の原因は自分。
これ以上リゼルを刺激してビアンカに危害が及んだら、立ち直れない。
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