追尾
クレイジーイワン――某映画で有名な潜水艦が背後の敵を確認するための急旋回。
元は赤軍のゲリラや狙撃兵が追撃してくる敵を待ち伏せするための戦術を潜水艦に応用したとされる。
ソ連軍やロシア軍から技術や戦術を導入している中国海軍も取り入れたとしてもおかしくない。
目の前の中国の最新鋭戦略原潜はレイヤーに入った後、<くろしお>が追いかけて再探知する前に旋回したようだ。
「静かに」
速水が言う前に全員が緊張し音も立てない。
急旋回してきた目標に見つからないことも重要だが、副長は別のことも心配した。
「目標の針路は?」
<くろしお>は相手から隠れているため、相手が<くろしお>の存在を知らない。そのまま接近して衝突する可能性もある。
相手の針路が、どこに向かっているのか速水は知りたくてソナーの報告に耳をすませる。
「こちらです! 本艦へ<くろしお>に向かってきます! 衝突コースです!」
最悪だ。
目標はこちらを探知していないようで、何もいないと判断してまっすぐ<くろしお>へ突っ込んでくる。
潜水艦の衝突は珍しくはない。
冷戦の最中、バレンツ海で米ソの潜水艦が衝突する事故が度々起きている。
21年に米原潜<コネティカット>が海図にない海山に衝突した事件があったが、速水は海山に衝突したなどとは信じていない。
日頃、海底を探査している現代で原潜が行動する深度で未知の海山があるなど想像できない。
もしあったとしても艦長達の責任ではなく、海図の不備によるものであり解任されることはない。
中国の潜水艦と衝突し事故を秘匿するために海山に衝突したことにして処分したのだろう。
中国側も被害を受けているはずだが、こちらは中国特有の事故処理――都合の悪いことはなかったことにしている。勿論米中が口裏合わせを行っている。
と、速水は信じていた。陰謀論じみているが、十分あり得ると思っていた。
だが、自分もその現場に、当事者候補として立ち会うとは思わなかった。
「副長、回避を」
「待て」
速水は水雷士を制止する。
確かに回避しないと衝突してしまう。
だが、回避するにはスクリューを回す必要がある。
相手はこちらに向かっており、当然艦首にあるソナーを向けている。
しかも至近距離。
どんなに低回転で回しても相手に探知されて<くろしお>がいるのがバレてしまう。
相手に潜入したことさえ知られないようにするのが潜水艦の任務だ。
だが、衝突されたら大事故、下手をすれば<くろしお>が沈められてしまう。
探知されるか、探知を承知で沈まないようにするか。
速水はどちらかを選ばなければならない。
「そのまま停止」
「副長!」
「水雷士、静かにしろ」
背後にいた艦長が水雷士を制止した。
本来なら副長である速水がしなければならない、いや、命令に無言で従わせるだけの統率力を速水が見せなければならない。
その点で速水はまだ艦長に及ばなかった。
水雷士は艦長の言葉に従い、黙り込む。
再び暴発しそうになるが、ソナー員の報告が遮った。
「目標に変化。相手は針路を変更しつつあり」
抑制しているが明るい声音で報告してくる。
「衝突は回避、前を通過するコースの模様。目標、本艦の正面を横切ります」
見えないが、何か強い圧のようなものを速水は前から感じた。
前方から、聞こえないはずなのに相手のスクリュー音が聞こえる気がする。
相手に気がつかれたのではないか、と速水は恐れる。
だが相手は<くろしお>に気がつかず、前を通過していった。
「目標、離れて行きます」
「ふう、クレイジーイワンの最中だったか」
全周を確認するべく旋回するため、クレイジーイワンをしている頭の向きを徐々に変えている。
<くろしお>が探知した時には丁度、<くろしお>に艦首を向いていた。
だが、旋回していたため、針路が徐々に<くろしお>が離れて行き、間一髪のところで衝突を免れた。
「目標、航行を続けています。針路に変化、南へ向かっています」
「追跡を続行する。二キロ後方からスクリューを作動させ追尾」
「宜候」
<くろしお>は追尾を開始した。
他の潜水艦の待ち伏せもなく、原潜は進んで行く。
「ソナー、あとでサンプルデータになるんだ。何も漏らすなよ」
「分かっています。あと十数分で元データになります」
各国は世界中の潜水艦の音紋を収拾している。
中国の新型戦略原潜の音紋となれば、垂涎の的だ。
今後、各艦が探知できるようにするためにも、相手の正確な音紋が欲しかった。
「航海士! チャートへのプロット怠るな」
「勿論です!」
追跡しつつそのコースをチャート――海図に記入していく。
戦略原潜は聖域内の決まったコースを周回するのが普通だ。
味方によって安全が確保された海域を回ることで、自身の安全を、搭載している反撃用、報復用の核ミサイルの安全を確保しているのだ。
そのコースを見つけ出せば、今後の追尾は容易になる。
解き明かそうと、航海士は海図への記入に必死だった。
だが、艦長は言った。
「そろそろ、終わりにするか」
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