海自潜水艦<くろしお>戦記
葉山 宗次郎
東京湾
死と隣り合わせの危険な作業
「時間か」
速水三佐は自分の寝台で目覚めた。
まあまあの眠りだ。
上の段の主や周りへの気遣いが必要なので、陸で寝るときと比べ十分とは言えないが、眠れるだけありがたい。
それでも、できれば個室が欲しい、と思ってしまう。
相部屋の相方は気の良い奴だが、ゆっくりと一人で休める空間が欲しい。
しかし、スペースに余裕のない潜水艦の中では自分の寝台が与えられるだけありがたい。
大戦中の潜水艦は、二人で一つか三人で二つ、いわゆる人肌の温もりが残るベッドであり、アメリカのオハイオ級戦略原潜でも似たような状況だ。
日本海軍は一人一つだったようだ.
いずれにせよ、陸では考えられない程制約の多い潜水艦では、自分の寝台が持てるだけでも、この上ない贅沢であり特権なのだ。
海上自衛隊が作り出した最新鋭潜水艦、改たいげい型潜水艦<くろしお>でもそれは変わらない。
相方は当直中でいないが、音を立てないように動く。
海中で探知できる手段は音のみ。
音を立てたら見つかる。
逆に音を出さなければ、相手に見つからない。
だから潜水艦の中では音を立てることは厳禁だ。
艦内でスニーカーを履くのもその一環だ。
服装規定では革靴着用だが、靴底が固く音がするので、柔らかいスニーカーで艦内を歩くのが当然となっている。
洗面所に行き顔を洗う。
節水のため、濡れタオルで顔を拭いて洗顔する。
「よし」
頭をスッキリさせ眠気を追い払うと、気合いを入れて小部屋に入る。
これから行うことは一つのミスも許されない。
下手をすれば艦を沈没の危機に晒す。
機器が使用可能であることを確認し、無数にあるバルブとレバーの位置を確認、再確認。
すべて定位置にあることを確認して、速水は所用を始めた。
「ふうっ」
膀胱が限界だったこともあり、内容物が出ていくことに速水は安堵を覚える。
「さて、最後の詰めだ」
スッキリしたところで、手順を思い出し、確認しつつバルブとレバーを操作して流す。
潜水艦ではトイレの操作も間違えてはならない。
トイレのタンクは内容物を排出するために海中に繋がっており、水圧が掛かっている。
操作を誤って下手に解放すると逆流して内容物を浴びることになってしまう。
そして、潜水艦の絶対の掟として、階級役職にかかわらず、たとえ艦長であっても、ミスをした人間がすべて後始末をするのだ。
副長としてそんな失敗はできない。
笑い話で済めば良いが、トイレの操作をミスれば最悪、艦が沈みかねない。
冗談ではなく、実例もある事実だ。
第二次大戦の最中、一隻のUボートU1206が連合軍船団と接触中、トイレの操作をミスして大量の海水が艦内に侵入。
バッテリー室にまで到達し、バッテリーに海水がかかった。
海水の塩とバッテリーの硫酸が化学反応を起こし、塩素ガスを大量発生させ、艦内は致死性の塩素ガスが充満した。
潜航を維持できる状態でないため、緊急浮上するも、浮上先は連合軍の船団の真ん中。
集中攻撃を受けて、U1206は撃沈された。
沈没の直接原因は連合軍による攻撃だが、トイレの操作をミスして浮上せざるを得ない状況に陥らせたのは、潜水艦としては致命的な失敗だ。
そして第二次大戦後、潜水艦の技術は向上し浮上するのは寄港と入出港の時のみ。
事故で浮上せざるを得ないのは練度が足りない証拠と見なされ、艦の恥だし、世界中のサブマリナー――潜水艦乗組員から馬鹿にされる。
そんな馬鹿げたことで笑い者になりたくないし、艦を危険に晒したくないので、速水はトイレの時、どんなに急いでいても慎重確実に行う。
密閉性の高いリチウムイオンバッテリーのお陰で、海水がかかってもある程度は大丈夫だ。
だが、配電盤などが海水に掛かりショートしたり、漏電して感電する恐れもある。
やはり海水はなるべく艦内に入れたくない。
無事に難関を乗り切った速水は腹ごしらえに士官食堂へ向かった。
「おう、副長。起きたか」
食堂に入ると、艦長の深谷二佐が調理員と談笑しながら片隅で芋を剥いていた。
「おはようございます、艦長」
速水は敬礼して答えた。
艦長は艦の最高権力者であり、当直がなく、必要な仕事をこなすだけで良いので他は自由にできる。
深谷二佐の場合、暇があると調理員の手伝いをしている。
潜水艦の中とはいえ、食品衛生法や規則のため調理員のみしか調理に携われない。
そのため、手伝いなど芋剥きなどの下ごしらえが中心になる。
なぜ艦長がと思うが、深谷二佐にとっては重要な仕事だ。
何もかもが制限され娯楽も少ない潜水艦にとって、食事は数少ない娯楽であり楽しみだ。
料理の美味い艦は士気が高く、練度が高いことは戦前から知られており、何隻もの艦を渡り歩いた速水も実感している。
そして料理の不味い艦は、士気も練度も低い。
成績の悪い艦の料理を改善したら士気も練度も向上したという実例もある。
だから、優秀な調理員を各艦は血眼になって獲得しようとするし、彼らの調子は艦の死活問題だ。
深谷二佐も、手伝いながら調理員の様子を見ており、気を配っていた。
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