雨より

黒猫 優太朗

一幕 雨の森 一節 雨に閉ざされて。

      第一幕 雨の森


    一節 雨に閉ざされて


 暗く濁った空も、止むことの無い雨も、それ以外の景色を見たことが無ければ常識となる。


 窓から見える雨木の若葉も広くなり始めた頃、私は十五年目の朝を迎えていた。


 窓に写ったその髪は腰まで伸び、前髪は黒い瞳孔を見せている。


「はあーあ」


 結露した窓に、F・Rhenisと古文字で自分の名前を書いた。


 退屈を極めそうな私は、窓辺に置かれた机を立ち、寝巻を脱いで、白いシャツに腕を通し、ふくらはぎを出すくらいのシックな緑のフレアスカートを穿くのだ。


 行く場所はいつも決まっている、この家から出られないのだから、選ぶ方が難しい。


 部屋を出てすぐ左の階段を下りると、長い廊下に出てくる。廊下脇の部屋には、ダイニングキッチンが見え、反対の部屋には雨水を利用した洗面台。朝一番であればこちらに行くのだが、行くのはこちらではない。


 廊下も終わろうかという所で大きな扉の前に立つ、目的はこの先にある。


 扉を開けば其処には、正確に数える事がおっくうになる程の本が、棚にぎっしりと詰められていた。


「えっと…」

 

 少女は驚かず、迷わずに物語の本が置かれている棚に向かう、十五年も森深くに建てられたこの図書館に住んでいれば、おのずとその様な反応になるのだろう。


 図書館と言うに相応しいこの空間は、三階に分けられ、吹き抜けと、光を作り出す魔術の機械が全体を照らしている。


 全ての本棚の前を通り過ぎるだけでも丸一日は下らない程の面積を有しているせいで、一つの本探しをすると、とてつもなく疲れるのだ。


 いつ、誰が、何の為に建てたのか、それすらも知られていないと母さんから聞いているが、どうして私達親子がここで暮さなければいけないのかと聞くと、母さんは頑なに話を逸らしてくるので、いつからか聞く事も面倒になっていた。


 廊下をこうして歩いていると、本の中の登場人物達の様に、友とはしゃいだり、遊んだりしてみたいとも思う。


 家から出た所で雨は止んではくれないし、森の外までどれくらいの距離があるのかも分からない、ここを出たいという気持ちはあるけれど、森をうろつく魔獣の姿を窓から見ない日は無く、それを撥ねのけるだけの武器もない、要するに私はここに閉じ込められているも同じという訳だ。


 母はよく一人で森に出かけては、魔獣の肉やら、どの本にも載っていない果実等を採ってくるが、毎度何事もなく帰って来る。


 魔獣は殆どが大柄で、小柄な母が倒せるとは思えないのだが、罠で簡単に捕獲出来るらしい、味は調理次第でどうにでもなる、が、私は物語に出てくる赤い肉という物が信じられない、どの本にも赤身に白い油が綺麗だなどと書かれているが、私は見た事が無い、魔獣の肉はどれも毒々しいのだ。


 今は関係ない、と想像をやめた。


 暇つぶしの本もこれで何冊読んだ事になるのだろうか、あの本棚も今日で終わる、となると六十棚分読んだ事に…


「はぁ…」


 ため息を吐く、勿論、読書は楽しいものなのだが…やっぱり外に出てみたいのだ。


「あの…すいません」


 突然、後ろから男の声が聞こえる。


「え…?」


 後ろを振り返ると、白くなった頭、しわの入った顔に丸眼鏡、黒いローブに身を包んだ男が立っていた。


 年は取っているのだが、顔立ち自体は整っている…と言って良いのだろう…か?


「本を探しているのですが…」


 お客など、ろくに来た事が無いこの場所で育ち、母としか話した事が無い少女には一種の恐怖だった。


「え…えっと…あの…」


 何を言えばいいかも分からず、とりあえず反応だけはしておく。


「あ…ごめんなさいね、安心してください、何もしないよ。」


 初老の男は少女の慌てふためき方を見て、優しく声をかける。


 少女は深く深呼吸をして息を整える。


「はい…、知っている本なら…」


 少女の言葉を聞いて、眉を上げ、口角を緩ませる。


「そうですか…ありがとう、では、この本なのですが…」


 そう言って、懐から本の表紙を取り出す。


 本の表紙だけを持っているのは置いておいて、確かあの本は…。


 読んだ事のある表紙だったので、棚に案内しようと、声もかけずに歩いていく。


「あ…あの?」


 突然どこかに歩きだす少女に、戸惑いを隠せなさそうな反応を見せつつ、意図を察した様で、少女についていく。


 いくつも並ぶ本の棚を通り過ぎて、ついにその棚に辿りつく。


「ここ…です。」


 棚を指さすと、男性は一礼をして本棚に歩いて行く。


 案内が終わった少女は元の本棚に帰ろうと踵を返す。


「あの…」


 足を止め、呼ばれた方にまた踵を返す。


「ありがとうございました。」


 自分が憧れる英雄の様に、人の役に立てた気がして、気分が高揚した少女の表情が少しだけ緩む。


「い、いえ…私は…その…外に出た事が無くてですね…良かったら何処から来たのかだけでも教えて頂けませんか?」


 つい調子に乗って、早口になってしまう私の話をしっかりと聞いて、


「そうでしたか…一度も、いえ、良いですよ勿論。」


 外の話が聴けると思い、飛んで跳ねたくなるのを抑える。


「ほ、本当ですか!?…い、いえ、つい、嬉しくなってしまって。」


 どうやら自分の気持ちを抑える事、とういうのは難しい事らしい。


「ではお話させていただきますね。」


 話を始めると言ってくれたのを、縦に首をコクリと頷いて返答をする。


 しかし、相手に対しての心配が隠せず、無意識に胸の前で手を握る。


「私はここから遥か西、フロムバッソという国から来たのですが、ご存じですか?」


 どうしよう、テンションが上がってきた。


「勿論!硝子の剣のサンダロス様の出身地ですよね!あぁ、色ガラスの城塞、星見の文化というのは本当にあるのでしょうか?」


 少女の熱量に驚かされながら男は答える。


「なんと、我が国の英雄伝をご存じとは、勿論全て事実ですよ、ガラスの城塞は管理が難しく、冬場しか使えませんがね、ガラスの剣は今も輝いているはずですよ。」


少女は、胸の前で握った手の親指を口に付けて、目を泳がせながら質問を考える。


 そういえば、ここに辿り着くには相当の物資が無ければ辿り着けないと聞いた。しかしながら、彼にそのような装備は見受けられない。


「ここにはどうやって?」


 少女が訝しむ様に聞くと、男は先程と同じ様に答える。


「はい…ここには陸路と海路で五年程掛かりました。多くの人に止まるように言われましたが、どうしてもここに来たかったのです、聖職に就いてはいますが、まさかこんなにも神の御加護に守られていたとは知りませんでした。」


 神の御加護というモノはそんなにも万能な物なのだろうか?


「そう…ですか…では、ごゆっくり…」


 少女としてはその旅の内容を知りたかったのだが、あまり強く言えないのか、お腹の前に手をおろし、綺麗に一礼する。


 男は少女に礼を返すものの、振り返る少女に寂し気な表情を見せるのだった。


 しばらく歩いていると向こうから足音が響き始める。次第にそれは大きくなり、その姿を現す。肩程も無い茶色の短髪に白いワンピース、年相応に見えないその顔は、白く張りながら優美さを演出している。


「おはようレニス、ご飯は食べた?」


優しく笑う母は、本当は年齢を偽っているのではないかと思う程に若々しい。というか同年代では?そんな訳無いけど。


「おはよう…食欲無い…」


私の娘にもこの時期が来たか…と思っていそうな顔をしながら「そう」と返事をする母に「そう」と返して、ついでに先程の男の事も伝える。


「さっき…向こうに男の人が…」


男が居た方向を指して話していると、何でもない様に答える。


「そう…分かった、珍しい事もあるものね、ここにはどうやって来たのかしら…」


 少女が振り返ると、ニコッと嘘臭い笑いを見せ、何かを考えている様な素振りを見せ始める。


「神様のご加護だとか…聖職に就いているそうなので。」


 「ふーん」と考えたまま空返事をする母に、ちゃんと聞いているのかと問いただしてみたくなるけれど、顔を覗き込む程度にしていると、遊んでいると思ったのか、対抗してこちらを覗き込んでくる。


「何?」


 目が合ってしまって、その灰色というべきか、銀色というべきか、どちらにせよ美しく宝石のような瞳が視界を吸い込んでくる。


「ねぇ、母さん」


「だから、何?」


 呆れかけた様に言う割に、その双眸をぱちくりさせて興味ありげである。


「その目、目さ…」


「うん?別に珍しくないと思うけど…」


 灰色なのは、そう、珍しくない…らしい、けれど、この引き寄せられる様な目は何だろう?いつも見ている目とは何か違う様な、そんな印象を受ける。


「光ってない?」


突拍子も無い質問に、『ハトが豆鉄砲を食らった様な顔』と形容するのが正しいという顔をする母。


「光って…無いよ?」


何だろう…怪しい。


 頬に汗でも垂らしそうな程、目を泳がせて口をヘノ字が引っくり返った様に結ぶ。


 あからさまに怪しいが、光って無い事に…いや、やっぱりほんわか光ってない?


「あぁ~ちょっと用思い出したし、レニスの言ってた人にも会って来ようかなぁ~」


 私の目から全力で歩く様に逃げていく。


 スタスタと去って行く母は、呼び止める事すら叶わない程、素早く立ち去る。


 あまりの速さに諦めて歩きだすと、思い出した様にお腹が地響きの様な音を鳴らす。


「うぅ…食欲…」


 昨日の夕飯も抜いていた分、とんでもない音が響いてしまい、母や先程の男が居ないか辺りを見回す。見回すといったって、本棚だらけで、まともな視界は、自分が居る直線上だけなのだが。


 居ない事を確認しても顔が燃えてしまいそうな程に恥ずかしくなる。


 仕方なしと素直にキッチンに向かう事にした。


 息する度に、喉が渇く。冷たい様な、乾いた様な空気が、顔の周りに纏わりつくのが何ともうっとうしくて、足を速めた。


 しばらくして、さっきの入り口に着くと、入口は少し開いたまま、図書館の空気を吸い込んでいた。


 ドアを開けて、中に入ると、耳に当たる空気が変わる事を感じた。


 髪を手櫛で後ろに掻き上げるが、すぐにさらさらと戻ってくる。


 そう、特に意味は無かったが、気分の問題だ。


「何があるかなぁ…」


キッチンに着き、両手を腰に当てて考える。


「あっ、髪まとめないと…」


後ろの棚から箱を取り、中から乾いたツタを取り出す。


それを口に銜え、鼻にかかった前髪を一束残して、後ろで一本にまとめる。


 顔が寒くなるので嫌なのだが、料理に髪の毛が入ると、もっと嫌なので致し方ない。


「さて…」


どこにも食料が見当たらない…かろうじて保存用のクロミクロの種と、ミツホウタガネの蜜があったので混ぜて食べる事にした。


木のスプーンで掬うと、蜜が糸を引く。


クロミクロの種のザクザクとした食感を、


ミツホウタガネの蜜がねっとりとした甘みで包み込む。


 舌に独特の風味が広がるのは言うまでも無く、噛み砕かれたクロミクロのかすかな苦みが異常なまでにマッチしている。


 時間をかけてゆっくりと食べ進め、食べ終わる。


 一息ついてから、スプーンをボウルの中に入れて立ち上がる。


「あれ…アワダチ無くなってる…水洗いで良いか…」


 流し台にボウルに入れバルブをひねる。雨水を流し、ボウルの中に流し込む。


 ボウルの中で私の指にブレーキをかける蜜を、丁寧に洗い流していく。


 指に伝わる雨水の冷たさには、慣れる事が出来ないものだ。


 蜜を落し終わると、少し眠くなってきた、お腹がいっぱいになったからだろうか。


「早く本だけ取って寝よう…」


 キッチンから出ると、そろそろと歩き始める。


 ふと足を止めて、思い出した様にキッチンに戻る。


「顔寒い…」


 歩きながら頭の後でツタの結び目をほどく、ふわっと下りた髪の毛を直して、残ったツタを箱の中に戻す。


「ほぉし」


 髪の毛が口に張り付いてしまったのは間違いなく、ミツホウタガネのせいだろう、口から髪の毛を剥がして、洗面台に向かう。


 蜜は放って置くと、ガチガチに固まって、付いてしまった所を切るしかなくなるので仕方がない。


 向かいの部屋に入ると、自分から見ても不気味な見た目の女の子が、鏡に映り込む。


 見栄えを取って、切って寒さに耐えるか、快適を取って、身だしなみを捨てるか。


「いいか…」


 寒いのは、ダサいよりも嫌なのだ、仕方ない。


 髪を水で濯ごうとすると、蛇口になかなか届かない、洗面台の上に重なり、前のめりになって蛇口に近づく、洗面台の中に髪の毛を垂らしながら、蛇口をひねる…が、丁度良くはいかないものだ、蜜が付いてしまった分の半分も落とせていない、手に水を溜め、滲み込ませながら洗い落としていく。


 洗い終わったと判断したらすぐにタオルで拭いていくが顔を上げた時、完全に忘れていた。


「シャツが…」


 台の中に入れていた髪が水に濡れ、顔を上げたせいでそれが一気に体にへばり付く。


 おかげで着ていた服はびしょ濡れ、テンションダダ下がりである。


 突如、図書館の方から耳を劈くような音が響き、立つのも厳しい程の地響きと熱波が遅れてやってくる。


「え…?」


 聞いたこともない轟音に呆然として、なんとか揺れに耐えていると、料理の時にも感じた事の無い暑さを感じる。


 全く何が起こったのか分からないまま、図書館の方にとぼとぼと歩き始める。


 図書館の入り口から赤い光が見え、図書館に一歩近づく毎に熱さは増していく、顔から汗が噴き出ると毛が更に顔に張り付く。


「切れば良かった…」


 両手で前髪をどかし、額の汗を何度も拭うのだが、きりが無い。


 後何歩かという所で、図書館がどうなっているのかを理解する。


 悉くの棚は粉砕され、赤い炎が燃え盛り、本棚の残骸と本が入り口から溢れ出し、大きな扉が押し倒されている事を理解する。


 脳裏に過る母の背中を思い出し、気付いた時には、熱く燃えた本の上を走っていた。


「はぁぁぁ…熱い!…熱い!…おかぁぁぁさぁぁん!」


 叫びながら少し走っただけで息が切れ、熱さに加え、喉から血の味がして、精神的にも追い詰められてくる。


 私は不安だった、本当に一人になってしまう事が。


 一人で居る事が多くても、私は一人ではなかった。


(熱い!…助けにっ…はぁああ!…行きたいのにっ!あっづいっ!…待ってて…お母さん…)


 体中に突き刺される様な熱さが走るのを堪えながら走っている内に、足の裏の感覚が無くなっていくような気がしてくる。


 だから、失うのがたまらなく怖かった、人がどんな風に死んでしまうのか、様々な物語を読んでいれば、少しづつ、沁みる様に分かり、それがいつか私達に訪れる事だというのも分かっていた。


 濡れた服が高熱になり、胸に火傷が広がっていく。


 心のどこかで分かっていた、己の無力を、ただ、この場所から逃げた所で、どうにもならない事も分かっていた。


 足を止めず走り続けて、とうとう息をすることも叶わなくなる、喉も火傷に襲われ、腕の熱さも感じ無くなって、やっとの事である物がかすんだ目に留まる。


 薄紫色に光る大きな箱だった。それこそ少女が何人も入ってしまいそうな程の。


(おかあさん…)


 少女の体は糸が切れた様に、箱まであと一歩の所で力尽き、その場に倒れ込むのだった。

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