『土曜日00:03の氷菓』

津道あんな

『土曜日00:03の氷菓』

「お先に」

濡れた髪を拭きながらリビングでくつろいでいた直人に声をかけた。浴室に向かう背中を横目に私は冷凍庫からお目当てのモノを取り出した。火照った指先からピリリとした冷たさが伝わってくる。袋の端の方を摘まむように、アイスの本体には触れないような持ち方で、そのままリビングを突っ切った。

アイスを持っているのとは反対の手でベランダへと続く窓を開けると、浴室とはまた違った湿度を含んだ夜の気配が流れてきて、収まりつつあった汗がまた流れるのを感じた。Tシャツに短パン姿で、置きっぱなしにしてあるビーチサンダルをひっかけ敷居を跨ぐようにして座れば、土曜日の夜の準備は一丁上がりだ。

背中にはリビングのエアコンの冷気を感じるけれど、それ以上に熱帯夜の空気を感じる。こめかみを伝う汗をバスタオルで拭って、同じように汗をかき始めてるアイスの袋を開けた。

まだ硬いアイスをかじると、口内に冷たいソーダの味が広がる。続けてかじるにはまだ硬すぎたから、アイスを片手に街頭にぼんやりと照らされるベランダを見つめる。

今年は梅雨が開けるのが遅かったから七月下旬にして初めて、やっとできた私の夏の風物詩だ。


立地や間取り、賃料諸々が気に入っているけど一階しか空いていなかったから一階に住んでいると言ったら「女の子の一人暮らしでそれは心配だな。今度見に行ってもいい?」と尋ねてきて、するりと私の部屋にあがりこんだあの人は、私以上にこのベランダを気に入っていた。ベランダとカタカナで表現するよりも庭といった方がしっくりくるこの空間は、大家さんが定期的に手入れをしてくれるおかげで雑草こそ生えていないものの、それ以外の手入れはしてくれないから何もなかった。入居時に好きにしていいと言われたような気がするけれど、私にはそういう趣味はなかったからずっとそのままで、私には可もなく不可もない場所だった。

けれどあの人には違ったらしい。

「いいね。この庭。花火とかするのに持ってこいじゃない?」

リビングを見た後、窓を開けて庭を見てそう言った。私も隣に並んで庭を見て確かにと思った。ロケット花火は無理だけれど、二人で手持ち花火をするにはちょうどいい大きさの庭だとそのとき知った。

「花火とかって、花火以外には何をするんです?」

「そうだねえ……月見なんて風情があっていいんじゃない?」

予想外の回答にきょとんとしていた私をよそに、あの人は試しに今日やってみようよと言い出して、本当にその日の夜に私と並んでベランダを見ていた。

「……月出てないですけど」

「本当だ。でもアイス食べるのに良い場所だって分かったじゃない」

そういってあの人はレモン味の氷菓を頬張っていた。しゃくしゃくと氷菓を心地のいい音を立てながら庭を眺めるあの人の後ろ姿は、私以上にこの部屋に馴染んでいたと思う。

その日から私たちはお付き合いを始めることになって、夏を迎える度に、何もない狭い庭でたまに花火をしつつ、氷菓を食べていた。

お風呂からあがったばかりなのに夜風にあたるせいでまた汗をかいて、蚊に刺されるのは嫌だからと蚊取り線香取りを焚くせいで、どくとくの匂いのする煙の中で氷菓を食べていた。私はチョコやバニラのアイスクリームに浮気することがあったけれど、あの人はどんなときでもレモンの輪切りがのった氷菓を選んでいた。なんでそれが好きだったのかは、聞いたことがあったと思うけれど、今ではよく思い出せない。


気温と湿度であっという間に溶け始めたソーダ味の氷菓をしゃくしゃくとかじっていく。あの頃は物足りないと思っていた氷菓の軽さが今では当たり前のように好きになっていて、むしろチョコや抹茶、バニラのアイスクリームは濃厚さを持て余すようになっていた。

表面から溶けた液が持ち手の棒から肘まで伝ってきて慌ててバスタオルで拭った。その甘い香りに釣られたのか近くで蚊の羽音がする。むき出しの腕や太ももを確認するとどこにも刺された痕はなくてほっとした。

「お前がそうしてんの見ると夏が来たなって思うわ」

ペタペタとフローリングを裸足で歩く音が聞こえて直人が背後にいるんだと分かった。

「もういい?」

「うん」

つっかけていたビーチサンダルを脱ぎ捨て立ち上がると直人が窓を閉めて、エアコンの温度を二度下げた。ゴウと音を立てて吐き出される冷気は、さっきまでじっとりとした夜の帳に包まれていた身体には冷たすぎて、ぞわりと鳥肌が立った。身体を擦ろうとした腕の動きでぼとりとソーダ味の氷菓が床に落ちた。

「……あ、」

「今日はずいぶん暑かったんだな」

私の目線の先を追ったのか直人が感情の読めない平坦な声で言った。

あの人がこの部屋に一番馴染んだ人だとすれば、直人はこの部屋にあげた異性の中で一番この部屋に似合わない人だった。似合わない、という表現は適切ではないのかもしれない。馴染もうとしない人というのがしっくりくる。

直人はあの人と顔立ちは似ているのに価値観は真逆な人だ。あの人を何もない余白に美を見出す人とするなら、直人は物を置くことを美とする人で、あの人が好んだ蒸し暑い空気の中で食べる氷菓も蚊取り線香も直人は良しとしなかった。いつの間にか冷凍庫には高級で有名なアイスクリームが入るようになって、蚊取り線香は無香料の電源タイプの虫よけ器具に変わっていた。その変化を私は受け入れた。

床に落ちてもなお溶け続ける氷菓の前にぼうとしていると、直人がキッチンペーパーとウェットティッシュを持ってきて片付けてくれた。

「……ありがとう」

「ん。それより喉乾いてない?風呂上りに暑い中外にいたらアイスだけじゃなくてお前も溶けるでしょ?」

氷菓を拭きとったゴミを捨てるために背を向けた直人から「麦茶でいいよね?」と聞こえたから「うん」と少し大きな声で返事をした。

私には寒すぎるリビングで待つこと数分、麦茶の入ったグラスとバニラらしいアイスクリームとブランデーを小脇に挟んだ直人が戻ってきた。手渡された麦茶を受け取って、数口飲み干すと確かに自分は喉が乾いていたんだと分かった。ほっと息をつくのも束の間、目の前にブランデーのかかったバニラのアイスクリームが差し出される。

「食べな?」

「……うん」

黙って口を開ければ甘ったるいバニラの味と紅茶のようなブランデーの香りが鼻を抜けた。美味しいけれど、一人で味わうには少し重たかったから、直人におすそ分けすることにした。隣に座る彼の首元に腕を回してぐっと身体を引き寄せる。目の前にきた唇に自分のを重ねれば、直人も意図を理解したように薄く口を開いた。


甘ったるい舌を絡ませあいながら思う。本心で望んでいる訳ではないものの、いつか直人と別れる日がきたら、私の中にこのお酒の苦みのするバニラ味が残るのだろうかと。

いつの間にか私の心の中にもぐりこんで、私の心を独占していったあの人でさえ、もう朧げにしか思い出せない。私にはない発想を持てる考え方が好きだった。抱きしめたときの力の強さもうっすらとは覚えている。けれど、それは香水の香りが時間とともに薄れていくように、だんだんと私の中から消えていていく。

別れたばかりの頃はそのことが悲しくて仕方なかったけれど、今はあの人は運命の人ではなかったと思うだけだ。今はフィルムカメラでとった写真が色あせてしまうことを嘆くような、満開だった桜が散ってしまうような切なさを嘆くような気持ちで、仕方のないことだと思える。何度交えても一つになれなかった身体や心の代わりに、私の中に残されたあの人の痕跡を見つけては愛おしく思えるようになった。色あせても写真のネガは残っているし、桜は毎年咲く。それで十分じゃないかといったら過去の私は怒るのだろうか。

「考え事?」

「……別にそんな大層なものじゃない」

「そうだとしても、僕以外のことだとしたら妬けるな」

茶目っ気たっぷりにいう直人の笑顔はいつかのあの人の笑顔と重なって見えて、私は目を閉じる。再度唇に触れた冷たさは氷菓のものなのか、ブランデーによるものなのか分からなかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『土曜日00:03の氷菓』 津道あんな @colorsofloooove

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ