巡る生と死

 ──音がまず聞こえた。



 大きな水滴が水面を打つような音だ。



 俺とスライムの手に、しずくが落ちた。




 そこから波紋が広がり、それに押し出されるように見慣れた部屋の風景が薄れ、瞬きもしていないのに情景が変わった。



 俺は浅い水の上に横たわっていた。



 痛みが消えていることに気づき、起き上がる。ベッドはおろか、手に触れていたスライムも、側に立っていたイヴもいない。


 見渡す限り霧深い水面しか見えない。水深はくるぶしに届く程度でとても浅い。


 俺の微弱な動きにも波紋を返す水面は、はるか遠くまで続いていた。



 女神と出会った、あの場所に少し似ているが、霧と共に俺の鼻腔に届く濃い水と土の匂いは、あそことは違った。


 そして俺の足は水面下の大地を踏んでいる。


 一歩踏み出すと水の抵抗が思ったより大きい。ポタージュとかシチューくらいの濃密さを感じさせた。


 足の下の感触は滑らかに心地よい冷たさで、自然のものというより人造のプールを思わせる。


「俺に何をした」


 この場所は、スライムが俺に何かしたせいだっていうのは分かる。



 でも、問いかけに応えはなかった。


 更に数歩進むと霧の中から島が現れた。


 島と呼ぶのも大げさに聞こえるほど、こじんまりとした丸い丘だ。多分十畳もないだろう。


 深い考えもなく、その島にあがろうとして、ふと気づく。

 


 島に点々と小さな緑が芽吹いていた。



 普段ならなら気にせず、踏み潰していた程度の草の芽だ。


 でも、この水に覆われた場所に、唯一植物が芽吹ける場所である、この島にあるそれは、そこにしか生きられない希少性を感じさせた。



 だから俺は上げた足を、そのまま水へ戻した。



 その芽は、見る間に変化した。


 定点カメラの高速再生のように、みるみる育ち島全体が緑に包まれた。


 そして花が咲き、どこからか現れた虫が花々の間を飛び回る。


 ひときわ大きな芽が噴き出したと思ったら、小ぶりな木になった。


 枝葉の隙間に、叢の合間に、小動物が見え隠れしてる。ネズミのようなやつや、トカゲのようなやつ。


 それぞれが自らより弱い生物を食い、彼らもまた早回しのように生き、そして死んでいった。



 その亡骸に白い膜のようなものが網目に走る。ぐずぐずと皮の内側が盛り上がり、ガスが抜けたように萎み、奇妙なキノコが生え、腐り落ちていった。


 腐敗した体液なのか、粘液がその表皮にうごめいたかと思うと、白い骨が剥きだしになり、その骨すらも砕けて土と混ざった。



 その土にまた緑が芽吹き……それを繰り返し繰り返し……。



 望まれずとも祝われずとも命は生まれ、他者を貪る。

 惜しまれずとも弔われずとも死は訪れ、他者の腹を満たす。



 死は悲劇でもなんでもなく、悠久に続く鎖の一輪。



 一つの命だけに集中していると見えない、大いなる螺旋。



「分かったよ。お前が言いたいことは」


 俺は小さく、そうつぶやいた。







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 いつの間にか部屋で一人、ベッドに横たわっていた。


 最初に目覚めた時、外はまだ明るかったが空の色を見るに、もう日暮れが近い。


 スライムに握られていた手を見おろす。


 あの島の情景は夢だったのか、スライムに見せられた幻想だったのか、分からない。


 ベッドから起き上がろうとして、体中に走っていた痛みが既に無いことに気づく。巻かれていた包帯の下を覗くと、傷はきれいに塞がっている。


 でも傷跡は残りそうだ。


 肩から反対の腰に掛けて、まるで袈裟懸けの刃を食らったように傷が走ってる。



 気持ちの方はというと、ずいぶん落ち着いていた。見せられた夢のせいだけじゃない。単純に頭が冷えたんだ。


 リマを殺したのは、あのスライムじゃない、それは事実だろう。


 スライムは地中の菌や微生物のようなものだとしたら、有機物質──人間の死体──を分解するのは、当たり前のことだ。



 獣にあれ以上、食い荒らされないように埋葬したリマは、地中で静かに彼らの糧となった。



 人間の言葉に置き換えると「死体を食う」となる。


 言葉の印象が違うだけで、彼らが行う行動は当たり前の生物活動だ。



 全てを納得したわけじゃない。当たり前であっても、人間の死体を食う行為に嫌悪感を消しきれない。


 理解しても心が追い付かないってやつだ。



 でも俺の怒りが、どうしようもないエゴだったと自覚する程度には頭が冷えた。



 落ち着いた頭で思い返すと、引っかかる部分がある。"とんだ弱者"だの"力を返せ"だの、俺が浴びた罵詈雑言だ。


 あれはどういう意味だったんだ?


 契約っていうのは、あのスライムが俺の配下になることじゃなかったのか?なんで俺に攻撃してきた?



 ドアの向こうから話声が聞こえる。


 イヴは最初から、あのスライム幼女に対して敵対的ではなかった。


 きっと今も普通に会話しているんだろう。


 俺もあいつに聞きたいことが沢山ある。



 ……ちゃんと話してみよう。



 俺は意を決してドアを開けた。


「……は?」


 俺の目に入ったのは、予想していたものじゃなかった。

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